肆
落ちなかった……という安堵のため息をついて、晴明は荷台から降りた。そこは船着き場を思わせるような板張りの空間で、一角には粗末な小屋が建てられている。
晴明たちの乗った荷台の着地音が聞こえたのだろう、小屋の入り口にかかっている暖簾が捲られた。そこから小さな顔が現れて窺うようにこちらを見た。
小さな男の子だと思って見ていると、とことことこちらに向かって歩いてきた。可愛らしい顔立ちの子供だったが、丈の短い絣の着物から伸びた足にはびっしりうろこが付いている。
「はい、お1人様六銭」
子供は泥で汚れた手を晴明に差し出した。とまどって青沼を見ると、すでに財布を出していて、子供の手に五百円玉を握らせた。子供は五百円玉をじっと見てから、ちらりと青沼を見る。青沼が晴明を顎でしゃくると、千太に向かって、あんたも六銭、と言って手を差し出した。
「なんだよ、出してもらえないなら飛び降りればよかったな」
ブツクサと言いながら、千太は見たことのない銅貨を六枚、子供に持たせた。この高さから飛び降りるのはいくら何でも自殺行為じゃないのか? と思って崖を見上げる。
「あとは万券しかねえんだよ、すまんな」
青沼があまり申し訳ないとおもってはなさそうな声で言う。どうやら、晴明の分は青沼が出してくれたということらしい。つまり一人分は二百五十円なのだろう。晴明は頭の中で計算しながら財布を出して、二百五十円を青沼に差し出した。
「いいからいいから」
だが、青沼は手を振って笑うだけで受け取らなかった。晴明は行先のなくなった手の中の小銭を所在なさげに弄ぶ。
自分が妹二人を育てるために節約していることを青沼は知っている。その気持ちはありがたいが、自分の分は自分で払うべきだ。自分が頑張って節約をすることと、人の好意に甘えることは訳が違う。好意と思って受けるべきなのかもしれないが。
どうしたらいいか悩んでいると、千太が「もう面倒くせえなあ」と笑いながら、晴明の手の中の小銭を掴んで、青沼に突き出した。
「蓮角……受け取れ。はるは面倒な奴なんだよ」
面倒……そんな風に思われていたことは心外だが、意を汲んでもらえたことに感謝の気持ちを込めて千太を見ると、千太は笑って鼻の頭を掻いた。
蓮角、というのは青沼課長の本名だそうだ。青沼蓮司というのは人間界で生きるための偽名なのだという。
同じく、千太も千両というのが本名らしいが、晴明は呼び慣れてしまっている呼び方を直すのは苦手だから、そのままで呼び続けることにしている。
それに、不器用な自分は会社で本名を呼んでしまう恐れもある。
「銭って昔のお金の単位ですよね?」
晴明は、気持ちを切り替えて、気になったことを質問する。俳には俳のお金があると前に聞いた気がするが、それは昔の貨幣なのだろうか。
「ああ」
「人間が使わなくなったのを借りて使ってるんだよ」
青沼が頷いて、千太が補足する。使わなくなったものを借りると言っても、貨幣の原料は、銅や銀や金だろう。借りているで済む……済ませているのだろうな、と晴明は苦笑いを返した。
換金のシステムがあるらしいが、ここのようにそのまま使える場所もあるらしい。これから少しづつ覚えなくては……晴明は彼誰刻や俳の生活を当たり前に受け入れ始めている自分を感じた。俳や彼誰刻を知った時の拒絶反応を思い返すと、自分は確かに頭が固くて面倒くさいのかもしれない。
青沼が歩き出したので、晴明は金銭に関する質問はやめにしてその後ろをついていく。それ以外にも聞きたいことが山ほどあったのだが、見たことのない人や街並みに気を取られてそれどころではなくなった。
間庭寺は、人々でごった返していた。その歩いている人々――人々と呼んでいいのかはわからないが――も多種多様、様々な見た目をしていた。
耳や尾の生えている者は珍しくなく、あり得ない肌の色をした者。サイズ感がおかしい者。どこが目なのか鼻なのかもわからない者が、笑いあい、怒鳴り合いしながら通り過ぎてゆく。
連なる店には見たこともない食べ物や商品が並んでいた。どちらかというと食べ物屋が多く、立ち食い屋台のようなものから、椅子とテーブルの並んだ少し西洋風な料理店まである。
そのあいだあいだに、食料店に、着物商に、古道具屋に、駄菓子屋に……何だかよくわからないものを売っている店……が雑多に並ぶ。多国籍なモノたちがオリエンタルな雰囲気の街並みにぎゅっと押し込められているようだ、と感じた。
物珍しさにキョロキョロしながら歩いていると、ぐい、と腕を引かれた。千太だ、と認識してすぐに、その背中の後ろに庇うように回された。
「あぶねえ店もあるから、あんまちょろちょろすんなって」
小声で囁かれて、自分がそのつもりもなかったのに、一軒の店の軒先に足を踏み入れそうになっていたことに気が付いた。開けっ放しになったガラス戸から見える店内では、骨だけで出来ている人、いや、猿のような生き物が三人ほど店番をしている。
薄暗がりから自分を見ている、彼らの目のない眼窩から漂う気配にぞっとして、晴明は一歩後退った。
『口惜しや。あと一歩ではないか』
『……こざかしい日轍。新鮮な人の仔の臓腑が手に入ったものを』
続く、独り言ともつかぬ呟きは更に剣呑だ。どこから声が出ているのかはわからないが、頭の中、頭蓋骨に響いているような気がして、晴明は首を竦めた。
彼らも俳なのだろうか。そして、ここも店なのだろうが、何を売っているのか見当もつかない。奥に並んでいるショーケースの中は目を凝らしてみてもからっぽだ。
ところどころに骨の入った籠が置いてあるが、あれが売れるようには思えない。どうやって暮らしているのだろう、と、どうでもいいことが気になった。
「あのなあ。言ってもわかんねえと思うけど、臓腑なんてただの肉だぞ? 食ってもお前らはそのままなんだって。もっとこう……建設的に生きろよ」
晴明を背中に庇いつつ、千太がいかにも千太らしい口ぶりで言った。三人しかいないのに、店の中で大勢がざわつくような気配がした。それもまた、音として耳に、ではなく、体に響くように感じた。
『黙れ』
『獣臭い日轍風情が、我捨にものを語ろうとは』
『笑止、笑止』
カラカラカラ、と骨が鳴った。笑っているのだろうか。しかし、その様はなにか憐れを誘う。言っても無駄だ、というように千太が肩をすくめて振り返った。気が付けば、先を歩いていたはずの青沼も戻ってきている。すみません、と晴明は小声で謝った。
「いや、珍しいだろう。でも、行くぞ」
青沼の背中を追いかけながら「また来る機会もあるだろうから」と自分の好奇心に言い聞かせる。それでも間庭寺は魅力的すぎて、よそ見をしないように、まっすぐ前だけを見て歩くのはとても難儀なことだった。