参
「うるっさいわい!」
嗄れ声と同時に、ぽんっと赤黒いものが目の前に現れた。重い音をたて、荘厳に開いていくだろうと期待していた扉は、ピクリとも動かない。
「意味のない祝詞を唱えるんじゃない。この子狐め。来るたんびに儂を馬鹿にしおって」
赤黒いものは横に裂けたような切れ目を動かして、文句たらたらで着地した。
見た目は木魚だ。喋る木魚である。叩くはずの部分に、真っ白でフワフワの毛が生えている木魚だ。白い毛はふさふさと目と鼻があるべき部分も覆っていて、その下に真横に切り裂いたような口がある。
赤黒い顔の下には頭の大きさとはおおよそ不釣り合いに小さい体が付いていた。胸元にEMPERORと光る黄色い文字で書かれた黒いTシャツを着ている。
「皇帝を馬鹿になんてしねえさ。まさる爺、息災だったか?」
千太はにたにたと笑っている。この……まさる爺さん? をバカにするために言ったらしい「意味のない祝詞」に震えるほど感動したことを千太には絶対に知られたくない。晴明は小さく息を吐いて、自分の中に湧いた興奮を外に押し出した。青沼が隣でくすっと笑ったような気がした。
「息災じゃ。このバカ狐。カッ」
まさる爺さんはテラコッタの植木鉢のような色をした顔が割れるのではないだろうか、というくらい大きく口を開いて威嚇する。
千太は、ごめんごめんと拝むようにして、ポケットから赤い小さなナイロン袋を取り出した。
それを見たまさる爺さんの顔色が、いや、口の形が喜色に変わる。千太はその赤い袋を思い切り振りかぶって、爺さんの頭上遥かを超えていきそうな勢いで投げた。さっきコンビニで買った酢イカに見えたが定かではない。
「ほっほう」
爺さんは驚くような跳躍力を見せて、空中でそれを掴む。
「……ありがたや、ありがたや」
さっきの怒りはどこへやら、という様子で、まさる爺さんは袋を手に挟んで拝むように揉んでいる。間違いない、あれは駄菓子の酢イカだ。戸惑いながら青沼の顔を見ると、面白く見ていました、というように破顔していたのを引き締めてコホンと咳払いをした。
「まさる爺、通行料だ。これは俺とこいつの分」
青沼はポケットから酢イカを二袋取り出す。まさる爺は目にも止まらぬ速さで青沼の手からそれを奪い取った。そのままふうわりと浮いて、すごい勢いで晴明に近づいた。
顔があまりに近かったので思わず、うわ、と声を上げそうになるが、それはあまりに失礼だ。鼻先が触れるのではないかという距離に、晴明は歯を食いしばって留まる。
「ふむ。ほう。へえ。ふうん。よし、入れ」
まさる爺が言うと、扉が音もなく横に開いた。
「えっ? 早っおおおお」
もうちょっと引きとか溜とかあってもいいんじゃ、と内心のガッカリが声に出てしまったが、扉の向こう側の景色を見て、それは感動の声に変わった。
目の前広がっていたのは、広大な俯瞰の景色だった。
晴明が、今いる場所は盆地をぐるりと囲む山の上だ。或いは丸い火口の淵に立っている、と言ったほうが正しいだろうか。
盆のような地形の縁にはぐるりと柵が回されて、その向こうは全て闇である。眼下にはジオラマのような街が見えた。
盆地の中が明るいのは、そこが彼誰刻であることと同時に、驚くほど大量の赤ちょうちんが浮いて漂っているせいだ。それは下に行くほど数が増え、盆の底は燃えているようにさえ見える。晴明は大きく息を吸い込んだまま、しばらくその景色に見惚れる。寺の中……と言えばいいのか、扉の向こうは一つの街だったのだ。
一つのちょうちんがふわふわと晴明の前に浮いてきた。指先で、とん、と沈めてやるとすうっと落ちて行って別のちょうちんにぶつかる。それはまた別のちょうちんにぶつかって、連鎖しながら波紋のようにゆらゆらと赤い波が拡がった。
漂う提灯の下には、隙間もないほどびっしりと建物が並んでいる。階段や、渡り通路のような鉄骨がいやに目立つのが気になって目を凝らすと、建物の上に、また建物が建てられて何層にもなっているようだった。
「すげ……え」
言葉とともにため息が出た。何だか心が浮き立つのは、祭りの風景に似ているからだと晴明は思った。道端には提灯がぶら下げられ、色とりどりの出店が並ぶ、夜祭りに似ているのだ。何よりも、寺に着いた時から漂っている、食欲を誘うこの匂いが。
「すげえだろ? これが、逆名瀬市最大の彼誰刻、間庭寺だ。行くぞ」
千太が言うのに合わせたかのように、すうっと荷台のような、筏のようなものが現れた。青沼と千太が当たり前のようにそれに乗り込むので、晴明も足を進める。空に浮いている荷台は晴明の重みでぐらりと揺れた。
「デブかよ」
千太は可笑しそうに笑う。
「うる……せえな」
どう考えても背の高い青沼の方が重いはずなのにおかしい、と言いたかったが、足元はぐらぐらと揺れるし、手すりはないしでバランスを取ることに集中しないと転げ落ちてしまいそうだった。
やじろべえのように両手を広げている晴明を乗せ、荷台はゆっくりと下降していく。やがて、高く積み重ねられた街の一番上の層にごとん、と荷台は止まった。