弐
目の前に見えていたにも関わらず、寺まではかなりの距離があった。どうやら寺が大きすぎて距離感が狂っていたらしい。すぐそばまで近づいて見上げると、寺の大きさはますます異様であった。本殿に入るための階段の一段が晴明の 胸ほどまでもある。
「よいしょ」
手をついて気合を入れてよじ登る晴明の横で、千太が軽く屈みこんだ。
「先、行ってるぜ」
にやにや笑いのまま、まるで力みを感じさせずに、とーんっ、と軽く跳ぶ。だが、そのひとっ跳びで階段の最上段に難なく着地した。一度は目にしていたものの、これが日轍である千太の身体能力なのか、と晴明は目を瞠った。
動物が何かのきっかけで俳になったものを駆噛といい、それが長く生きたものが日轍になり、身体能力がとても高いのだという。
よくわからないシステムだが、あの身体能力は羨ましい。一段、一段、手をついてはよじ登りながら、晴明は恨めしく千太を睨んだ。
「課長は跳べないんですか?」
晴明の横で同じように地道に登っている青沼に尋ねる。跳べない自分に合わせてもらっているのだとしたら申し訳ない。
「河羽視は日轍と違って、人の姿の時の身体能力は人間並みなんだ」
青沼は河羽視というぬるぬるした緑色の肌をした俳だ。本人の前では言いにくいが、河童に近いと晴明は思っている。それでいけば、千太は妖狐といったところだろうか。
俳の種類はそれこそ八百万であり、発生の仕方も違うという。自然発生するもの、何かから変化するもの、生まれてくるもの。
それに加え、違う俳の両親の両方の形質を受け継ぐものも居たりして、完全な分別とその把握は難しいという。
「駆噛と夜吹は……」
息を切らしながら、晴明はずっと聞きたくて、でも怖くて切り出せなかった妹たちのことについて聞いてみようと思った。
血の繋がっていない二人の妹のうち、男の子のように元気な雀は駆噛、もう一人の妹の棗は夜吹という俳らしい。夜吹については、これまでなんの情報もない。
俳は見た目と年齢が違っている、ということが不安で、妹たちが実は自分より年上だったらどうしようかと密かに思っていたのだ。雀はともかく、小さなころからやけに大人な棗は怪しい気もする。
晴明の不安を察したように、青沼はいつもの人を安心させる笑顔を浮かべた。
「駆噛の元の姿は完全な動物なんだ。日轍の千太とはそこがちょっと違ってるとこだな。そして、動物型の時もヒト型の時も基本的な運動能力が上がる。雀ちゃんは体育で手を抜くのに苦労してると思うぞ」
そういえば、雀は体育の成績はいつも「5」だ。動物だった雀に何があって俳になったのか……恐らく聞いても無駄だろうと思って聞いてみたら、やはり青沼は知らないと答えた。元の動物が何かも知らなかった。だが、恐らく茶トラの猫だったのではないかと思う。
「雀は何歳なんですかね?」
「さあ。でも、駆噛はそんなに変化が得意じゃないから、見た目のままの歳だと思うぞ?」
そうなのか、と晴明は嬉しくなる。年上だからなんだ、大事なことに変わりはないとは思うが、さすがに妹より年下なのは微妙な気持ちになりそうだ。
あと数段のところまで来ると、千太がいかにも退屈だという顔で、高い手すりに腰掛けているのが見えた。
朱色に塗られた手すりは、丸太ほどの太さの材木で組まれている。横木が二本、等間隔で添えられているが、その隙間は余裕でくぐれるくらいに大きい。転落防止にはならないだろう。
晴明たちの到着に気づくと、千太はひょい、とそこから飛び降りて音もなく着地した。
最後の一段を登り切り、晴明は膝に手をついて、切れた息を整える。千太は、あはは、と声を上げて笑う。
「おっせえなあ。運動不足なんじゃねえの?」
「うるせ。じゃあ、夜吹は?」
自慢気な顔をした千太を睨んで、晴明は青沼に尋ねる。千太は一瞬、不満そうな顔をしてから、にかっと笑った。無視されたのだからちょっとは気にしろよ、と思うが、気にしないのが千太なので仕方がない。
「何? やっと妹が俳なのを認めて聞く気になったんだ?」
「俺は……課長に聞いてんだよ……千太」
聞くのが怖いのだ、と思われていたのは面白くない。
十二歳の時から一緒の学校に通っていた千太は、実は数百歳だという。それなのに、大人びていると感じたことがないのだから、騙されていた、という気にもなれない。
もう一人の友人の方であれば、なんとなくわかる気がするが……晴明は高校を卒業して、都会の大学に進学した友人を思い出した。三人がどこに行くにも一緒だったのは、ほんの二年前のことなのだ。
「さて、その話はまたあとにしよう」
青沼は疲れた顔で煙草に火をつけた。煙草を吸っている間に話せないのだろうか。それにこうゆうところって禁煙だろう? と思いつつ、それで青沼の喫煙を阻止できないことを知っているので黙って待つ。それに、聞かなくて済んだことに少しほっとしてもいた。棗は小さい頃からやけに大人びている。年上の可能性があるとすれば棗だ。
手持無沙汰で周りを見回すと、大きな階段の上には大きな賽銭箱があった。「賽銭」ではなく「浄財」と書いてある。サイズは小さな小屋ほどだ。その賽銭箱の後ろには、朱塗りの扉があった。形と見た目で行ったら襖なのだが、こちらも規格外の大きさで、まるで城門を思わせた。
あんな大きさのものを開けることが出来るのか? それとも中に巨人の俳が居て、開けてくれたりするのだろうか。小さい俳がいるのだから、居てもおかしくない気がする。晴明は大きな扉が開いていくさまを想像して楽しみに思った。
「どれ、行くか」
青沼がタバコを胸ポケットから取り出した携帯灰皿に入れて消す。
「うす」
扉を見上げたままの晴明の横をすり抜け、千太が扉の前まで進み出た。そして、すう、と胸が膨らむくらいに深く息を吸いこんだ。
「かけまくもかしこき やおよろずのかみ きこしめせと かしこみもうす」
良く通る声だった。晴明はうっかり感動しかけて、あれは千太だ、と自分に言い聞かせる。それでも、その言葉に答えるように、大きな扉が今にも重い音を立てて開いていくのだろう、と思うと肌が泡立つのを抑えきれなかった。