壱
風の向くまま気の向くままの二話目です。
別の話にしようと思いましたが、また晴明たちです。
緩く読んでいただけるよう、文字数少なめで更新します。(不定期)
*お友達の作品とコラボしています。コラボ作品については各話のあとがきにて紹介させていただきます。
*「夜の市場」企画主様、および関係者様に、こころよく使用許諾していただいたことに感謝を申し上げます。
イラスト:ふさふさ様
八塚晴明は、外灯の一つさえない暗い石段を登っていた。とっぷりと日は暮れており、足元すらも朧げだ。すうっと、自分のすぐ横を何かが通り過ぎた気配がした。びくり、と肩が震えあがる。
今のは何だ? と振り返りそうになり、慌てて自制した。
――石段を登り切るまで、絶対に声を出してはいけない。振り返ってもいけない
登り始める前に強く念を押されたことを、頭の中で繰り返す。音をたてないようにそっと息をはいて、石段をまた一段登った。
さっきまでは月明かりが見えていたと思うのに、この石段を登り始めてからというもの、どんどん暗くなっている気がする。夏の夜の何とも言えない草花の香りも、けたたましく鳴いていた蛙の鳴き声もいつの間にか溶けるように消えてしまった。
登るごとにより一層、暗くなっていく気がして、こぶしを強く握りしめる。少し暗いかもしれない、と言われたがこれほどだとは思わなかった。
高校を卒業して、地元の中堅企業「西芝精機」に勤め始めて二年。中学生の双子の妹たちの面倒を見ながらの暮らしは、晴明にとって何にも代えがたく大切で平凡な毎日だった。
だが、その平凡はたった一日で壊れさった。そして、自分も妹たちも人外の者だったことを知った。
人に非ず
人外の者たちは、自らを俳と呼び、力を増した人間たちの社会の中で生き残るために、廿楽と呼ばれる自助組織を作っているという。
晴明は今まさに、自身の住む逆名瀬市の廿楽のメンバーになるため、人間社会に解け込んで暮らす俳の、青沼と千太に連れられて顔見世に行くところだった。青沼は晴明の勤める西芝精機の上司で、千太とは幼馴染であり同僚でもある腐れ縁だ。
――俺は認められるだろうか
不安が胸をよぎる。その間にも暗闇はさらに増して、前を歩いているはずの千太のオレンジ色のTシャツが見えなくなっていた。ジワリ、と手に汗が滲んだ。晴明は昔から暗闇が苦手だった。あまりに怖いから、養父に引き取られる前、記憶のない時期に何かトラウマになるようなことがあったのかもしれない、とさえも思う。
更に数段、ついには自分の鼻先さえ見えなくなった。それは悲鳴を上げたくなるほどの恐怖を晴明に与えた。息が浅くなり、足元が歪むような感覚に捉われる。置いていかれたくない、と焦った足が、石段に上がり損ねて滑った。
悲鳴を上げそうになった瞬間、後から口を塞がれ、倒れていく体はしっかりと受け止められた。口を塞いている手からタバコの匂いがする。青沼の手だ。その手は晴明の肩に移動して、落ち着け、というようにトンと叩いた。
――前には千太がいる。後ろには青沼課長がいる。大丈夫だ。
晴明は、手探りでズレた眼鏡をかけ直す。先日の襲撃で壊れたところをテープで修正してあるだけなので、すぐにズレてしまうのだ。
気持ちを紛らわすために、登りながら一、二……と心の中で階段の段数を数え始める。十四、まで数えた時に、視界が一気に明るくなり、景色が目に飛び込んできた。
そこには、巨大な寺の境内だった。
晴明は呑まれたようにその寺を見上げた。大きな反り屋根の瓦はいぶし色で、それを支える太い柱は研かれたように黒く光っていた。随所に施された金古美色の装飾は決して華美ではなく、見る者に荘厳な印象を与えている。
それだけならよくある寺だろう。だが、驚くべきことはその大きさだった。明らかに人間に合わせた大きさではない。屋根のてっぺんを見上げようとすると、首が痛くなりそうだった。
「もう喋っていいぞー」
オレンジ色のTシャツの千太が振り返る。晴明は口を開いていたことに気が付いて、慌てて閉じた。明るくなった、とは言っても薄闇程度であったことに、今更気が付く。光が飛び込んできたように感じたが、暗闇に慣れた目が眩んだだけだったらしい。
朝焼けの少し前の薄暗闇、ここも……彼誰刻なのだろう。
明らかに普通の世界ではないこんなところで、一体何と引き合わせられるのか、と考えると、何だか恐ろしいことに飛び込もうとしている気がしてくる。
「ここが?」
「そう。ようこそ、我らが我楽多の本山、間庭寺へ」
千太は両腕を広げて、得意そうに笑った。一陣の風が吹いて、スタイリングしているわけでもないのにつんつんと上を向いて生えている千太の髪が揺れる。
それと一緒に美味しそうな匂いがどこからともなく漂ってきて、晴明の腹がぐぐう、となった。
「おい。今、いい感じだったのに。だから、何か食えって言ったろ?」
千太が呆れた顔で言って笑った。
十九時までの二時間残業を終えた後、青沼の車に乘って、逆名瀬市の北側にある間庭山の中腹ほどまで走ってきた。時間にして一時間ほどだったろうか。
途中でコンビニに寄ったが、宴会で食事が出ると聞いていた晴明は「まだ腹はすいていない」と言い張って何も買わなかったのだ。これからタダ飯が出るのに、お金を払って何か買う二人の気がしれない、と思いながら。
「八塚、挨拶が先だけど、もうちょっとの我慢だからな」
後ろから、とん、と背中を押されて晴明は歩き出した。背中を押したのは青沼で、晴明の顔を見て慰めるように笑う。晴明は、恥ずかしさに頭を掻きながら笑い返した。
「ここも、課長の家と同じ『彼誰刻』なんですよね。あの階段も?」
話題を変えるために、晴明は青沼に問いかけた。彼誰刻――というのは『俳の住む異空間』をさす言葉なのではないかと思っている。
ヘビースモーカーの青沼は煙草に火をつけてから頷いた。
「ああ、ここは彼誰刻だ。そのことを知らないもんがあの階段を登っても何もない。廃寺に出るだけだ。ここを知ってるものだけがここに着く。さっきの階段とか、うちの前の通り、逆名瀬病院の三階の一番奥の病棟、なんかは随と呼ばれてる……彼誰刻への入り口というのかな。これも何も知らない奴には普通の道や、建物でしかない」
「マ……ニマ?」
「随筆の随という字だ。随は、いわゆる普通の世界と彼誰刻に二重に存在している、と言えばわかりやすいかな」
青沼は指で空に字を書きながら説明した。棗が入院している――今は雀も入院しているが――三鍼の診察室も彼誰刻だったのか、と晴明は納得した。
そして、病院の廊下や、青沼の家に向かう裏通りで晴明がいくら話しかけても誰にも答えてもらえなかったのは、そこが随だったからなのだ。彼誰刻側にいる晴明は、現世にいる人からは見えなかったのだろう。それでもおかしな気配だけは感じて、逃げていったと考えると納得がいく。
「もし、間庭寺の随で振り返ったり、話したりしたら、どうなるんですか?」
マニワにマニマとはややこしいと思いながら、晴明は向きをかえて青沼に質問した。
聞いたことで、今しがた味わった恐ろしいほどの闇を思い出し、ぞっと身震いする。意味の解らないルールではあるが、ホラー映画なら破れば間違いなく死ぬパターンのやつのような気がする。
「さあな? 振り返ったやつも、話したやつも知らないから」
青沼は、とぼけた顔で肩を竦めた。
これ以上聞いても、俳得意の理論である「俺たちは自分たちのことをそんなになんでもかんでも知ろうと思わない、人間は知りすぎるからよくない」という結論に辿り着くだろうことが目に見える。晴明はそれ以上、随のことは追及せずに黙々と足を動かした。