エピローグ
翌朝、ずきん、ずきん、と定期的に脈を打つ脳みそを抱えて、晴明は会社に向かった。眼鏡を直す暇はなく、セロハンテープで修復した。納期が迫っているから休むわけにはいかないのだ。
青沼の車に乗せてもらえたのがありがたい。ひどい二日酔いだったし、おかしな化け物に狙われているのだから「目くらましをかけたから大丈夫」と言われても一人で歩くのはまだなんとなく怖い。
「うー」
こめかみが何かに締め付けられている気がして、手で確認するが何かあるはずもない。自分の中の化け物は傷が早く治るという特徴があるくせに、アルコール処理の能力はないらしい。使えねえ、と悪態をつく。
「うー」
「はる、お前はうーうー教の教祖かよ」
うひゃひゃ、という千太の笑い声まで癇に障る。
なんとか午前中の仕事を終えて、雛菊が作ってくれた胃に優しそうな弁当を食べると、体調はほとんど回復した。
体調が戻ると、午後の仕事をこなす間にいろいろなことが頭をよぎった。例えば、自分は少なくとも陰奴と河羽視を一人づつ殺していること――。
普通の人間ならば、平常ではいられないのではないかと思う。
自分が何者であるか知りたいと思いつつ、十二歳前の記憶がない事に関しては、あまり興味を持っていないこと――。
一日の仕事と二時間の残業を終えるころには、自分はやはりマトモな人間ではないのだろうと結論が出たが、あまり悲劇的な気分でもなかった。そのことが俳である証拠であるような気もした。
「八塚、帰るぞ」
仕事終わりの廊下で、あかりの消えた構内をぼうっと見つめていると、青沼の声が響いた。帰りも青沼の車に便乗させてもらうことになっている。世話になりっぱなしなのは申し訳ないが、同じところに帰るのだから乗らないのもおかしい。
「で、お前はなんで乗ってるんだよ、千太」
晴明は、後部座席で隣に座っている千太を見る。じゃあな、と言ったのに隣に乗り込んできたのには驚いた。
「だって、お前のお披露目だろ」
「……は?お披露目?」
もしかしたら、昨日の夜に話されたことだろうか、と思い出そうとするがよくわからない。青沼がバックミラー越しに晴明を見る。
「廿楽の正式メンバーになるためのお披露目だ。まず、座長に挨拶しに行って、招集をかけてから……」
「え、ちょっと待ってくださいよ課長」
晴明は焦った。そんなものになる約束などした覚えはない。もし酔って余計なことを言ったのなら、早めに誤解を解かなくては……と思った。
「あの、俺は廿楽のメンバーになるつもりはないですけど」
「はああ?」
千太が「バカか」と言わんばかりの顔で、晴明を凝視する。
「いや、だって危ないだろ? 時間も拘束されそうだし。保険だってなさそうだしさ。俺は雀を棗を守るために、危ないことはしたくない。世話になっといて申し訳ないし、自分の為に護身術とかは習おうと思ってるけど」
「いや……いやいやいやいや」
千太はおかしなことを言われて、自分でも少しわからなくなった、という様子で首を振る。
「一乃仁の作った廿楽だぞ。お前が入らなくて誰が入るんだよ?」
「は? 関係なくないか? いまどき士農工商じゃあるまいし、親の仕事を継がなくちゃいけないとか。そもそも廿楽って仕事でもないボランティアじゃないのか? そういうのは余裕のあるやつがやるんだよ」
「……いや、でも」
「妹の面倒は見なきゃいけないし、俺の大変さは逆名瀬市でもかなり上位ランクに入ると思うぜ。入院費も修繕費もあるし、これからのあいつらの学費だって溜めなくちゃいけないのに、そんな余計なことしてたら仕事に支障が出るだろ。服だって今回だけで二組もダメになったんだぞ。俺の分だけでだ。それに眼鏡。なんとか直りそうだけど、しょっちゅう壊れたりしたら破産ものだよ。第一、怪我をするかもしれない。そう考えたら廿楽に入って人助けとか、マイナス面が過ぎるだろ?」
晴明は訥々と千太に事情を語って聞かせる。途中から、もうやめてくれ、という顔をしていた千太が、やっと終わったか、というように深い息を吐いた。
「お前……あれだな。現代っ子……なんだな」
千太はそう言ったきり、口を開いたまま黙る。
「現代っ子でも何でも結構。義理人情じゃ、この都会の砂漠は生きていけないからな。それに……」
話の途中で、ごほん、と青沼が咳ばらいをした。千太は耳を塞いでいる。
「あー横から口出ししてすまない。なあ八塚。俳には俳の通貨があってな。廿楽メンバーとその家族以外の逆名瀬市に住む俳は、守ってもらう代わりに守護代を支払う義務がある。で、廿楽が出動した場合、そこから報酬が支払われる。保険に関しても、仕事で何かあれば残りのメンバーがその家族が一生困らない程度には支えるぞ?」
俳の通貨……廿楽はボランティアではないのか、晴明はぼんやり考える。雀も棗も俳なのだ。その通貨も持っていて損はないだろう。
「そうなんですか? それって、いくらくらい貰えるものなんですか?」
質問をする晴明を、千太が嫌そうな顔で見つめた。
「あのな、はる。金じゃねえぞ? 廿楽に選ばれるのは名誉なんだよ。力がある俳だってことなんだからな?」
信号で車を止めた青沼が振り返った。胸ポケットから取り出した煙草を片手で弄びながら笑う。
「まあまあ、千太。日本円とのレートは確かじゃないし、案件にもよるけど一回の出動で一万から五万くらいかな」
「五万!?」
五万って……月に三回出動したら、一か月の手取りと変わらないじゃないか……晴明は生唾を飲む。信号が青に変わって、バックミラーに写る青沼の目が面白そうに笑った。
「日本円に換金する両替商もあるぞ。でもまあ……八塚がやりたくないものを無理やりにさせるのもな。今回は諦めよう、千太。あと、廿楽に入らないんなら来月から守護代を払ってもらわないとな。三人分」
「やります」
青沼の言葉に食い気味で晴明は答えた。
「え、だってお前さっき……」
「対価があるなら話は別だ。俺はやるぜ」
晴明は息をのむ千太にガッツポーズをして見せた。すうう、と息を吸い込む。
「我楽多に入れてください! 頑張ります! よろしくお願いします!」
「うるっせえよ! 俺は耳がいいんだよコノヤロウ!」
出来るだけの大声で叫ぶと、千太にパシンと頭を叩かれた。体を折って笑う青沼が運転する危険な車は、やはりギリギリで門を擦らずに青沼の屋敷に入る。
真っ暗だったはずが、外がなんだか薄明るくなっていた。やはりよくわからないらしい青沼と千太の昨日の夜の説明によれば、ここはやはり「異空間」ということになるらしい。
「そっか。昼に来れば暗いけど、夜に来れば明るいんだな」
晴明は車を降りながら、あたりを見回した。風が伸び放題になった庭の草を揺らす。自分がこれから関わっていくことになるだろう彼誰刻の世界の景色は、なんだかとても優しい色に写った。
お読みいただきありがとうございます。
「彼誰刻の我楽多 一話 我楽多」 はこれで完結です。
SSなどを挟みつつ、逆名瀬市の廿楽「我楽多」メンバーたちのあれやこれやを書いていきたいと思います。他の方の作品とのコラボなども積極的にしていきたいと思っています。
二話目の更新予定は未定ですが、引き続きよろしくお願いいたします。