拾
「そして、俺はおんぬ、なんですね」
湯呑を持つ青沼の手が止まる。その目に晴明は不安が胸に競り上がるのを感じた。
「それが……よくわからないんだ」
青沼は歯切れの悪い口調で言った。
「でも、昨日の河羽視にもそう呼ばれましたし、今日のあの……」
「荊忌か。確かに荊忌も陰奴だし、お前の見た目は陰奴そのものだった、んだが」
考えるように青沼は遠くを見た。
「まず、大前提として俺はお前が何者か知らん。というか、昨日雀ちゃんから連絡をもらうまで、間違いなく人間だと思っていた。千太もだな?」
話を振られた千太が二度頷く。
「気配の欠片も感じたことねえし。今朝青っさんから電話を貰った時も何の冗談言ってるのかって思ったよ」
「そういうことだ。一乃仁がある日どっからか拾ってきた人間の子供、それが俺たちのお前に対する認識だった。一般的じゃあねえが、一乃仁は達水銀だから……ああ、達水銀ってのは元人間の俳だ」
「元人間?」
「ああ、仙人とか魔女とかそんな感じだな。だからまあ、あり得ないことでもねえのかなって感覚だったんだよ。で、どうやらこっちの世界には関わらせないで育ててる、そう思って見て見ぬふりをしてたわけだ。あいつはもちろん何も言わねえし、何も頼んじゃこねえしな」
再び、青沼の手が胸ポケットの四角いふくらみを撫でる。
「一乃仁が死んだ夜の記憶はあるのか?」
青沼の目の奥で何かが光っていた。晴明はごくりと生唾を飲み込む。
「少しですけど、思い出したと思います。陰奴が来て、一乃仁は俺を庇って……俺がもっと早くあの姿になってれば」
晴明はとうとう俯いてしまった。どうして忘れていられたのだろう。あの時、自分は一乃仁に逃された。押し入れに入り、目を瞑り耳を塞いで隠れていた。我慢しきれず襖を開け……そこからの記憶はあいまいだったが、自分がしたことはなんとなく想像がついた。
「お前のせいじゃない」
青沼はゆっくり首を振る。「全く。達水銀は体が弱えからな」千太がぼそっと呟いて鼻を啜った。
「でも、そもそも陰奴が来たのは俺のせいですよね」
「そいつか荊忌がそう言ったのか?」
「荊忌……が朱纏を返してもらうとかなんとか」
荊忌に「さん」を付けそうになって晴明は一瞬口ごもる。あいつは他には何を言っていただろうか。と考え込み、ふと視線を感じて見ると、千太が口を開けてこちらを見ていた。何だ? と首をかしげて見せても、瞬きすらしない。青沼を見ると、似たような顔つきで固まっていた。千太が湯呑を掴んでごくごくとお茶を飲み干す。
「いや、なあ、青っさん。ねえよ」
千太に話しかけられた青沼は黙って晴明を見つめている。
「なんなんだよ、はっきり言ってくれよ」
痺れを切らして晴明は二人を見回した。頭を掻いて、青沼はお茶を啜り、雛菊がことり、と皆の前に新しいお茶を出して、古い湯呑を捌けていった。しびれが切れるような時間が続いて、青沼が深いため息をつく。
「朱纏という名は、陰奴の首魁の名だ。陰奴って俳は少し異質でな。まず、仲間以外の生き物は全部食料だと思ってる」
他をすべて食う……河羽視と対峙してほとんど意識のない頭の中に浮かんだことを思い出し、晴明の全身に泡が立った。
「それに、その繁殖っていったらいいのかな。命の繋ぎ方が独特なんだ。陰奴は他の種族の俳の娘に自分の子種を植え付ける。そいつは時期が来ると女の腹を食い破って出てきてな。女をすべて平らげて、記憶も姿も全て元通りの陰奴になる」
青沼が苦しそうに眉を潜めた。晴明は目の前が暗くなるのを感じた。それなら自分は記憶を失った陰奴、朱纏ということになるのだろうか。母親である誰かを食い破って生まれてきたのか。
「そうか。だから一乃仁は俺に全部秘密にしてたのか」
「まあ、陰奴は嫌われ者だから。そうと知ってれば誰も近寄らねえからな。でも、お前は陰奴じゃないぞ」
千太がきっぱりと言い切った。
「そうだろ? 蓮角」
千太の目は厳しい光を湛えていた。千太は青沼を「青っさん」ではなく「蓮角」と呼んだ。青沼が片手で目を隠し少しの間そのまま固まっていた。やがて、目頭を掴んで揉むようにしてから、再び深いため息をついた。
「八塚、十二歳以前の記憶はどうだ?」
「それはさっぱり」
晴明は目を細めて記憶を探ってみる。だが、思い出そうと試みてみることすら、馬鹿らしく思えるほど何もなかった。
「まあ、十二歳からとはいえ、子供時代があるってことは陰奴とは考えにくいな」
「うん。朱纏だとしたら弱すぎだしよ」
ぷ、と千太が笑った。光が差し込んだ気がして、晴明は目を見開く。しかし、それとは別の疑問が沸いた。朱纏でない、自分のあの姿は何だったのだろうか。
「じゃあ、俺は一体、何なんですか?」
晴明はじっと自分の手を見つめた。肌色で骨ばった、いつもの自分の手だった。赤くなれ、と念じてみても何も変わらなかった。千太が、とん、と湯呑をちゃぶ台に置いた。
「そんなん知らねーよ。つか、俳なんて皆そんなもんだぜ。俺だって親の顔なんて知らねえ。つか、何が親なのか、親から生まれたのかもわからねえけど、どうでもいいことだよ」
「俺たちは人みたいに自分たちの事を調べつくしたりしないから」
どうでもいいことだ、と簡単に言う千太に、青沼も同調する。俳は人間とは考え方が少しズレているのだろうか。だとすれば自分のルーツを知りたいと思う自分は人間に近いものなのだろうか。考え込んでいると、千太はじっと晴明の目を覗き込んだ。
「多分、昨日の夜の河羽視は逆恨みだろうと思う。陰奴は恨まれてるからな。で、荊忌や三年前の奴はお前を朱纏だと思って連れさろうとした。あいつら仲間意識だけは強いからマジでキモいんだよ。でも、狙われてるのがわかってれば対策だって打てるし、もう何も心配する必要ねえよ」
千太は新しく運ばれてきたお茶を啜りながら言った。青沼が脱力したようにはあ、と大きなため息をつきながら姿勢を崩し、腕を後ろについて首を回す。
「だなあ。ま、そのうち分かってくることもあるだろうし。わからんことを考えるのは無駄だし」
青沼は工場で「何故、不良が出るのか」の話し合いをしている時と同じ調子で言った。
「そうそう、って、腹減ったよ。ラーメン食いに行こうぜ、はる」
千太も二時間残業終わりのようなことを言う。一気に現実味を増した会話に、晴明は自分の肩の力が抜けていくのがわかった。立ち上がろうとする千太を青沼が制止する。
「あ、雛菊たちがなんか準備してるから食っていけよ」
「え、いいんすか?」
「雛菊、酒持ってこい。あと座椅子くれ」
青沼はどこかの飲兵衛親父のように、言いつける。雛菊たち? あれは沢山いるんだろうか? たくさんいてもあのサイズに座椅子は無理じゃないだろうか、と思っていると襖がすうっと開いて、目の覚めるような美少女が入ってきて座椅子を三つ並べていった。
「おかしよなあ。こんなボロ家に住んでる、うだつの上がんねえ河羽視のくせに。一人俺にくれよ」
「断る。日轍は根無し草だから悪いんだ。ああいうのは家につくんだよ」
ち、と千太は舌打ちをして、晴明に向き直る。
「お前もずるいぜ。駆噛に夜吹だ。一人くれよ」
「意味わからん。絶対にダメだ。……なあ、俳って皆、こんなに呑気なのか?」
どうやら、議論は「わからないものはわからない」で終了したらしい。俳とは何なのか、人から俳になったとはどういうことなのか、雀や棗の親はどこにいるのか……考えている自分が馬鹿馬鹿しくなる。どうやら俳そのものがそれをわかっていないらしいから考えるだけ無駄な気もする。
晴明の呆れ声に千太がははっと声をあげて笑った。
「ああ、こんなもんだ。人間は難しく考えすぎなんだよ。今日が楽しきゃいいじゃねえか。ほら飲めよ、はる」
先刻の美少女の手によって運び込まれた酒を、千太はなみなみと注ぐ。
驚くほどに美味しい料理がちゃぶ台一杯に並んだ。
「雀と棗に食わせたいな」
思わず心の声が外に漏れだして、晴明は慌てて目の前のから揚げを口に放りこむ。二人が苦しんでいるのに、自分だけ、という気持ちが沸き上がる。二人の傷は大丈夫なのだろうか。
「夜吹は回復力が並じゃないんだ。まず心配ないよ。雀ちゃんはさほどの傷じゃないし、二人とも三日もすればよくなるって」
千太は晴明を安心させるように笑った。それから、「二人の体調が戻り、話しを聞けば少しわかることもあるかもしれない」だとか、「陰奴に見つからないための手段」であるとか、「恐らく二十歳になったことで、一乃仁のかけていた何らかの祝が解けて場所がばれたのだろう」、などという話を聞いた。
質問したいこともあったが、言われていることを理解するだけで精一杯だった。何より飯は旨いし酒は旨いし疲れているしで、晴明はあっという間に話に集中できなくなった。
青沼の俳談義を夢うつつに聞く。
「えと、どうぶつがわざおぎになっらのがあ、かるこうでえ」
「まあまあ、青っさん。あとは明日からゆっくりでいいっしょ。おーい、雛菊ちゃん、冷のおかわり持ってきて」
まだ飲む気なのか、晴明はぞっとして千太を見る。顔色が一つも変わっていない。悔しくて、少し意地の悪い気持ちになった。
「……いいことおしえてやるよ、せんたあ」
「あ?」
「あしたは……げつようびれーす!」
部屋がしーんと静まり返った。
「雛菊! 俺は燗!」
怒鳴る青沼の声が遠くに聴こえた。こいつらの肝臓は絶対に少しおかしいと、晴明は思う。明日は月曜だ。恐らく土曜も休出になるから六連勤になる。今まで以上に働かなくては……入院費が二人で二十万と、アパートの修理に……そこまで考えて晴明は、がばっと起き上がった。酔いが一気に引く。
「俺のバッグ!」
「ああ、あれだろ?」
千太が部屋の隅っこを指さす。晴明はずりずりと這いよって中身を確認した。厚めの銀行封筒を見て、ふう……と安堵のため息をついた。
「課長、これ立て替えてもらったアパートの修理代です。これでら(足)りなかったるあしあ……」
青沼に封筒を手渡しながら、晴明は完全に沈没した。眠りに落ちる寸前に「晴明君、明日は今日よりずっと良くなるよ」と笑う一乃仁の声が聞こえた気がした。