玖
晴明の服はダボダボに伸びていた。ジーンズのボタンが弾け飛ぶなんて……晴明はズルズル下がってしまうジーンズを手で押さえながら歩き、青沼に続いて見覚えのある石の門をくぐった。
殴られた痛みは徐々に引いてきている。殴られた経験はないからわからないが、あれだけ殴られたのに、少しおかしくないかと不安に思った。
「座っててくれ、着れそうなもんを見繕ってくるから」
家に入るなりそういって、青沼は奥へと向かった。晴明は勝手知ったる様子で進むの千太のあとを黙ってついていく。千太は数時間前にも通された和室に勝手に入り、用意された座布団に腰掛けた。千太らしいと言えばらしいが、恐らく千太は何度もこの家に来たことがあるのだろうと思いながら、晴明はその隣に座った。
「なあ、千……」
千太に話しかけようとした瞬間、奥の襖がすうっと開いた。そこから湯気が立っている湯飲み茶わんが、ちょこんと茶托に乗って滑るように入ってきた。
「え、あれ、え?」
見ている間にも湯呑は一人で勝手にちゃぶ台の足を登り、晴明の前まで移動する。よく見ると、何か小さいネズミのような生き物が、お茶を運んで来たということがわかった。
かちゃり、と湯呑がテーブルに置かれ、その姿が露になった。小さな動物に見えたのは、毛皮を着た小さな人だった。黒目の割合が高い丸く大きな目で、とても可愛らしいが、人のサイズになれば、少し違和感のあるバランスになるだろうと思った。
量の多い髪を三つに編んで、ふたつ顔の横に垂らしているから女の子だろうか……考えているうちに、それはぺこりと頭を下げて、すごい速さで居なくなった。
「……え、今の、え?」
「ああ、雛菊ちゃんだよ」
友達を紹介するように言う千太の前にも、温かいお茶が歩いて……ではなく、雛菊によって運ばれてくる。
「ありがと、雛菊ちゃん」
小さな生き物は、千太にも深い会釈をして立ち去った。パニックを起こしそうな出来事なのに、心のどこかが今更驚くようなことでもない、と落ち着いている。
「あれは音杜松という。八塚にわかりやすく言えばコロボックルか座敷童ってとこだ」
部屋に入ってきた青沼が晴明の視線に気づいて言った。河羽視の姿の時ほど声に張りがない、いつもの鷹揚とした青沼だった。ぽん、とジャージの上下を晴明に投げてよこす。
「ねとず、ですか」
晴明は何も考えられず、九官鳥のように青沼の言葉を繰り返した。はっと我に返って、ぎゅっと目を閉じてうな垂れる。
「さっきは、本当にすみませんでした」
何もわかっていないくせに、一人じゃ何もできないくせに、安全な場所から自ら離れてしまった。青沼の好意を足蹴にした結果、雀まで傷つけた。ただ自分の内側にある何かの気配に怯え、今まで積み上げてきたものが崩される漠然とした不安から逃げるためだけに。
不甲斐なさで顔を上げることが出来なかった。その頭を大きな手が撫でる感覚に、晴明はゆっくりと目を開ける。頭を撫でられるなんて何年ぶりだろうか。
「いや、しょうがねえよ。俺の言い方とかもな、うん。悪かったし」
声のあまりのやさしさに、晴明は零れそうになる涙をぐっとこらえた。千太にだけはそんなところを見られたくない。お礼を言わなければならないと思うのに、顔を上げることも声を出すことも出来なかった。青沼はぐりぐりと頭を撫でてから、ぽん、と優しく手のひらを肩に乗せた。
「話を聞く心の準備は出来たかい?」
「はい。いろいろありがとうございます」
晴明は顔を上げて、今度こそとしっかりと頭を下げた。青沼は手を引っ込めると、満足げに微笑んでお茶を一口啜った。
「さて、俺たちが人ならざる者だってことは、もう理解してもらったよな?」
「ま、わかりやすく言うと、妖怪とか、化け物とか、モンスターとか、そんな感じだよ」
青沼の言葉尻に被せるように、千太が軽い口調で言った。口調とは裏腹に硬い表情でまっすぐ前を見つめている。「あたしも棗も化け物じゃない」と言った雀の言葉が晴明の耳元で再生された。
――当たり前だ。雀だって、棗だって、千太だって、化け物なんかじゃねえ
晴明は思い詰めているような千太の横顔を見る。いや、千太がもし化け物と呼ばれるようなモノだったしても、それがなんだというのだろうか。千太が自分にとって一番大事な親友である事になんの支障もない。そのことがすとんと腹に落ちると、ほかの全てはどうでもいいことのような気がした。
「いや、お前はともかく、あんなに可愛い雛菊ちゃんが化け物じゃ可哀想だろ。せめて言って妖精だよ」
晴明が言うと、千太はゆっくり首を回して、不思議そうに晴明を見た。そして、晴明がにやりと笑うと、ぱっといつもの笑顔を見せた。
「あ? それを言うなら俺だって相当可愛かったろ? 愛らしかったろ? 抱きしめたかったろ?」
千太はお茶を飲もうとして、思い直したように湯呑を茶托に戻した。
晴明の目の前で、徐々に千太の容姿が変わっていった。耳が頭の上に移動して、そこに白い毛が生えた。いつの間にか頭髪も白くなっている。鼻づらが伸びて、目は金色に光り始める。
だが、その金色の瞳は何故か不安を含んで光っていた。この目を晴明は良く知っている。それは、一乃仁に拾われてから、毎朝鏡の前で見続けた自分の瞳だった。家族だと、仲間だと、友人だと認めてもらいたい、居場所のない者の目だ。
そして、晴明をあの孤独から救ってくれた一人は、紛れもなく千太だった。
「すげえ。超カッコイイな千太」
金色の目は一瞬揺らいで、いつもの自信たっぷりの千太の目つきになる。
「だろ? 俺は日轍。駆噛の上位種でめっちゃ強いぜ」
「へえ。いろんな種類があるんだな」
晴明は、お茶を口に含む。実は喉がからからだった。お茶は丁度いい温度で、胃の腑を温める。
「俺は河羽視だ」
晴明が湯呑を置いて視線を移すと、青沼がまっすぐに晴明を見ていた。
「はい」
青沼の肌が緑色に染まっていった。髪は濡れたように波打って胸まで垂れる。白目は茶色く濁り、千太に比べて受け入れにくい容姿をしていた。
それでもやはり青沼の目だと思った。「大変だったな」そうねぎらってくれる青沼の目に違いないと感じる。
「雛菊ちゃんはねとず、千太はひわだち、雀はかるこう、青沼さんがかわし、そんで多分、棗はよすい……」
晴明は、三鍼の治療室での会話を思い出して、指を折りながら言った。
「さすが優等生。説明が楽で助かるよ。そのほかにも、俺たちが把握してないのまで沢山いる。で、それらをまとめて俳と呼ぶ。ひとにあらず、と書く」
青沼はすっと人間のような見た目に戻った。気づくと千太も晴明のよく知る姿に戻っている。
「で、その俳もな、化け物だって食っていかなきゃならん。だからこうして人のなりをして働いてる。納期に追われながら、有名大学卒の能無し部長に話を合わせつつ、な?」
青沼はため息とともに愚痴を言う。この春に本社から出向になっているバーコードという素敵なあだ名の部長が目に浮かんでいるのだろう。にやり、と千太が笑った。
「人間にばれないように、必死で生きてるんだ。俳には人の姿になれないものも多い。なれないものの方が多いかな。だから、皆で生きるために自助団体を作ってる。まあ何でも屋に近いが……それを廿楽と呼ぶ。さっきの連中は皆、うちの廿楽のメンバーだ。ここまでわかるか?」
理解した、と晴明は頷く。
「俳はある程度、固まって住んでる。一匹オオカミもいるが、廿楽のある住みやすい街に固まることが多い。で、このあたり一帯、逆名瀬市全域くらいを仕切ってる廿楽が、俺たち我楽多だ」
「人ではないものが俳、その自警団を廿楽、この町の廿楽の固有名詞が我楽多、ですね。我楽多って……変な名前ですね」
晴明は声に出しながら確認する。最後は失礼だったかな、と思ったが青沼は愉快そうに笑った。
「文句は名付け親の一乃仁に言ってくれ」
意外なところに養父の名前が出てきて、晴明は驚くと同時に納得した。普通の人間が俳の子供を二……いや、三人も育てるわけがない。一乃仁も俳だったのだ。
「この町の廿楽は一乃仁が作り出したんだ。廿楽はその町によって全く雰囲気が違う。……我楽多はいいぞ」
まるで、一乃仁を褒められたように感じて、晴明は誇らしさに胸を逸らした。そして、青沼は自分よりずっと前から一乃仁を知っていたのだ、ということに思い当った。
一息吸い込んで、晴明は一番気になっている質問をしようと口を開いた。