浸食と確信
理想の姉と妹との朝食風景まで書き終えた私は、しばしの間筆を置くことにした。不味い。理想ばかりが先行していて、姉妹の描写に現実味が欠けている。誰に見せるでもない文章だが、自身に現実味が感じられなければ、この世界を構築する意味がない。かえって空々しくならないようにあえてそうした部分以外でも、言葉にすることのできない現実感の欠如は如実に表れていた。二人に、血の通った気配が感じられない。行動の裏にある真意がない。描写される場面以外での生活がない。
例えば、朝食の風景。新聞を読みながら朝餉を済ませる景子に、先ほど起きて新聞を開き味噌汁をすすっているという動きが感じられない。この部分の修正は何度も試みたが、駄目だった。どれだけ言葉を、感覚を費やしてその動きを行間に盛り込もうと思っても、却って私のその意思のみが浮き彫りになり、人間が浮き出てこない。だが、その理由はもうわかっている。そうなってしまう理由は既に判然としている。この文章が、私の体験に基づいていないからだ。具象的な意味でも、抽象的な意味でも、私に、姉と、妹が、いないからだ。
そうだ。結局、持たざる者はこの世界でも持たざる者なのだ。どこまで逃げようと、結局私という存在が私の目的の邪魔をする。私が私であるせいで、私はずっと、どこでも私のままなのだ。きっとこの世には、何に関しても、「何かを手にするためには、その同種の何かが最低限必要」という原理があるのだと思う。昔、服を買いに行く服がないと言った、今となっては誰も名前を覚えていない誰かの自嘲が教えるように。
そして私には、姉と妹を空想の世界で手にするための、最低限の姉と妹と過ごしたような体験すらない。歳の近い異性との生活、朝誰かに起こしてもらう日常、無条件に愛してくれる者の存在。そんな経験さえあれば、そこから姉と妹を描写するために必要な抽象的要素を抜き出して、よりリアルな人間を描写することができるのだろう。しかし、皮肉なことに、私はそんな経験がないからこそ、姉と妹を欲したのだ。足りないからこそ求め、足りないからこそそこに達することができない。何というジレンマなのだろう。正直、私はここまでで熱意を失いかけていた。自身の本当に欲するものを、空想の中だけでも得ることに興味を失いかけていた。やはり、こんな無謀な挑戦はやめて、いつものように心に浮かぶ昏い思考を、自身を主格にして語り、無聊を慰めるのが身の丈に合っているのだろうか。
「もう、やめちゃうの?」
突然、耳元で声がした。はっとして、声のした方向を振り返る。もちろん、そこには誰もいない。腹の中にほとんど物を詰め込まれず、ひたすらに待機電力を消費するだけの冷蔵庫が、黒い体に私の姿を映しているだけだ。こたつに腹まで入って、ノートパソコンに向かい、一行に進まない文章を足りない頭で考える、哀れな男の眼差しが、ひたすらに黒い諧調で私を見つめてくるだけだ。その汚らしさを正視できず、すぐさままた画面に目を戻す。考えるべきは、やはり朝食の場面。朝の光に包まれた爽やかな場面。私は、ここにいたい。この場所に、いたい。そのためには、この場所を私にとって本当らしく感じられる場所にしなければならない。しかし、そのためには、他ならぬ私という存在が邪魔だ。ああ、私が私でさえなければ。それか、私に、姉か妹さえいれば……。
「本当に困っているみたいね。手伝ってあげましょうか?」
こんどこそ,耳元で確かに聞こえた。柔らかな、女性の声音。どのような存在も包容する、慈愛の音色。それが確かに、聞こえた。また、振り返る。今度も何も見えないと、ただ寂寞たる自身の肖像がこちらを見つめ返しているのだと確信しながら。そして、それでも、そこにあるかもしれない希望を胸に描きながら。
果たして、希望はそこにいた。まず、目が合った。次に鼻を見つめた。そして眉を愛でる頃には息がかかった。確かな人間がそこにいた。それは、私の思い描いていた理想の姉だった。理想の人間が、人間としてそこにいた。
「どうしたの?驚いた顔しちゃって。実の姉に対して、失礼じゃない?」
眩んだ。なにがと言わず、目が、思考が、心が、体が、とにかく私の全てが制御不能になった。ありえない現実の推移に、現実を生きる私の身体が引き離されていた。なんだ、これは?なにが起こっている?目の前にいるその人物は、まぎれもなく景子だった。私が自作の小説の中で描こうとしていた、理想の姉だった。それが、肉体を得て私の目の前にいる。
「ただいま。ごめんね、遅くなっちゃって。仕事が長引いたの」
言葉を継げない私の様子を、無言の抗議と受け取ったのか、景子はそんな説明をした。違う。私はそんなことを疑問に思っているのではない。私の疑問はそこではない。逆だ。なぜお前がそこにいる?
「ご飯は……、その様子だと食べちゃったみたいね。いいわ、何か簡単なもの作って食べるから、小説の手伝いはその後でしてあげる」
そう言うと、景子は流しに立って料理を始めた。その様子を私は呆けた頭で見ていた。こちらに向けられた背部に、想像通りの艶めかしさを感じ、その拙劣な感情をはっきりと自覚したところで、私はようやく、彼女が幻覚なのではないかと考えだした。自分の部屋という外部と隔絶されたパーソナルスペースに、自分の劣情に即した女性が存在している。それもいつの間にか。幻覚でないわけがない。そう理屈をひねり出したとき、私の胸中の恐慌は、不思議と穏やかになっていった。狂ってしまったと自分で結論づけた割には、安堵の思いが満腔に満ちていった。幼少の砌から、おかしい人間だ、変わった人間だ、どこにいても違和感のある人間だと言われ、その周囲の認識を自覚しているが故に、自身の狂奔には人一倍注意していたが、何のことはない。限界が来たのだ。今まで腹蔵していた狂気が、ついに私というくびきを捨て、外界へと沁みだしただけなのだ。なんだ、そういうことだったのか。簡単なことだ。私は化け物になったのか。ちょうど、朝起きたら巨大な芋虫へと変貌したあのセールスマンのように、日常の地続きの上で私自身が不可逆に変貌したのか。それならば、話は簡単だ。りんごをどてっぱらに喰らって死ねばいい。真に拒絶されるに足る理由を身に受けて、ありとあらゆる存在からの否定を受ければいい。つまり、それは、解放だ。よかった。ようやく、ここまで来られたのだ。
しかし、景子の周囲の現実は、そんな私の安堵を裏切った。まず、調理器具が動いた。この部屋を借りて一年、ろくに使われもしなかったIHクッキングヒーターが唸った。フライパンを加熱している。そのうえに引かれたた油を焼いている。そして、はぜる音。余熱に焼かれた油が跳ねている。まぎれもない熱が、そこに生まれていた。音も、感じる温かさも、少し香ばしい匂いも、全てが本物だった。だから、そっと近寄って
ためらいなく、そのフライパンに右手を置いた。
光が走るような痛み、生物の表皮が焦げる匂いと音。そして直後に襲ってきた後悔。本物だった。景子は幻覚などではなく、本当に料理をしていた。自分の肉体を焼いて、それを確かめた。どういうことだ?彼女は幻覚ではないのか?この痛みが本物だとしたら、彼女は一体なんだというのだ。
「なにやってるのっ?!」
戸惑いと焦りと疑問と心配の声。景子が、突如奇行に走った私を見て叫んだ。すぐに私の手をつかんでフライパンから引きはがし、蛇口をひねって流水に浸す。油が引かれていたことが幸いしてか、私の手はフライパンから容易に剥がれ、比較的簡単に冷やすことができた。しかし、一秒はフライパンに当てていたので、深部熱傷は避けられないだろう。これからの不便な数週間を想像すると、先ほど感じた後悔が、一層重いものになった気がした。
「いきなり……こんな、ああ、痛かったでしょう?なんで?どうしてこんなことしたの?」
赤く膨れた私の手を見て、景子は心底辛そうな顔をしている。目には涙を浮かべて、なぜ、このような自傷をはたらいたのかと問うてくる。それは、自分の存在こそがその理由だとは、つゆとも想像していない顔だった。そう、彼女は当たり前にそこに存在していた。当たり前に私の部屋に現れて、当たり前に料理をして、当たり前に私を気遣い、当たり前に涙を流していた。ああ、それでは、間違っているのは私の方なのか。彼女は、景子は、姉さんは、私の知覚の狂いにより生じたこの世界の間違いなどではなく、そう結論付けてしまう私の思考の方が間違いだということなのか。そうか、なら、話はもっと簡単だ。
「ごめん、姉さん」
受け入れろ。姉さんを。私の、この現実に確かに在す、理想の存在を。
「手が、滑ったんだ」