5章-16
水分が来たのは翌々日。あのテラスの一件から2日後だった。
普段より遅めに教室に入ってきた水分を見て、俺は衝撃を隠し切れなかったね。
それはクラスのみんなも同じだった。
「宇加様! 髪っ!」
女生徒がわらわらと水分に集まってくる、その隙間から見えるのは、首くらいのミディアムの長さの水分の頭。
色こそ黒だが、遊びのある髪裾から、細い首筋がしゅるりと見えている。
顎のあたりに掛かる髪が気になるのか、水分はしきりにその毛先を指で触っては後ろに払っていた。
質問攻めにあう水分は、照れ笑いを交えてそれに真面目に答えているようだったが、余りに女子がきゃあきゃあうるさいので、俺にはその話は聞こえなかった。
「おいおい、何の騒ぎだよ」
鞄を肩に担いだ山縣が、クラスに入るなり俺に質問してくる。
「水分が髪を切った」
「まっじかよ! あのサラサラロング! 俺好みだったのに!」
「知るかよ! てめーの好みなんか」
「泣くわ、マジ泣く。俺大好きだったのにー」
鞄をばさりと投げ出し、五体投地に、なだれ崩れる。
アホかこいつ。確かに衝撃的だが、そこまでじゃねーだろ。むしろ色々やらかした事を考えると、そのリアクションは俺が取りたいわ。
大江戸も生真面目な顔をして登校してきたが、ちらっと見えた水分の姿に衝撃を受けたか、コイツも持っていた鞄をぼろりと落とした。
「おい、大江戸。生きてるか」
「……」
「ただの屍のようだ」
と思ったらガバっと俺を掴み上げ「どうしたんだ! おい、お前か! お前がやったのか!」と、反論を許さぬ勢いで俺を問い詰める。
「何でも俺のせいだと思うな! いやちょっとは関係あると思うけど」
「責任を取れ! お前の命で!」
「無理言うなよ! なんの責任だよ。髪切っただけじゃん」
「あ、あのロングがァァァ、俺は好きだったんだ」
お前もか! 一遍死ね。
神門も来た。
「あ、宇加、髪切ったんだ。あの長さは初めてじゃない? 似合うよね」
「な、なに呑気な事いってんだ。ばかやろう!」
大江戸がマジ切れだ。
「歳、落ち着きなよ。3年もすれば、また元通りなんだから」
「そうじゃないだろ。そうじゃ! 俺は、水分の心境が心配なんだ」
ウソだ。ただ好みだっただけだ。ただのロングフェチなんだ。さっきロングが好きだと言ってただろテメェは!
あ、水分がこっちに来る。
「お、おは、はよう。水分……さん」
ヤバイ、ヤバイッス。俺も大江戸も山縣も目が泳いでいる。大江戸なんて「あ、う、あう」しか言えてない。なんて動揺する俺達を余所に神門がさらっと言う。
「宇加、似合うじゃない。ショートも素敵だよ」
「ありがとう」
「瑞穂くんどうしたの?」
「いや、急だったから、ちょっと心の準備が」
「へん?」
「ない! 断じてない! むしろ俺好みだ。かわい過ぎてクラクラした」
「ちょっと、変な事いわないでよ」
短くなった髪をいじって、俯き加減に頬を赤くすると、それに仕草に悩殺されたか大江戸が、
「すばらしいです! 水分さん!」
バカ、大江戸、裏声だぞ。気色悪いっ。
「あなたたち大丈夫、おかしいわよ」
おかしくもなるわ。女は怖い。休んだかと思ったらシラっとこんな衝撃的な事をしてきやがる。
「ちょっとちょっと」と水分を呼び、耳元でささやく。
「どうしたんだよ、それ!」
「切ったのよ」
「見りゃわかるよ。どうして切ったんだよって聞いてんだよ」
「気分転換かしら」
「かしらじゃねーだろ! 自分の事なんだから」
「なんで怒ってんのよ」
「怒ってねーけど、だってあんなことがあって休んでこれだもん」
「びっくりした?」
「したよ、したに決まってんじゃん、禊でもしたかと思ったぜ」
「禊!? どこの風習よ。でも当たってるかも」
「えー、やっぱり。俺のせい」
「そうかな。瑞穂くんにズケズケ言われたから」
「うっ」
「ウソよ。佳子さん、彌子さんに相談して髪を切ることにしたの。軽くなりたかったの。イメージが変わったら、きっと変わるからって」
「昨日か」
「三人でずる休みして、ナイショよ」
「宇加様ーっ!」
女の子達から声がかかる。
「はいっ!」
声も溌剌と軽く手を振って、小走りに俺の元から駆けていく。
何かを吹っ切ったように思える背中。
何となくとっつきにくい雰囲気があった水分だったが、確かに一転したものがあった。自分から明るく話しかけている。いや今までも話しかけていたのだが、心なしか身振りが大きいのだ。軽くなったというのは至言だった。
思えば、水分はいつも壇上に居たり、きっちり座って話しているのが多かった気がするが、同じ目線で話しているのは少なかった。
内部生が「宇加様」と呼ぶと、「様はやめてちょうだい。ずっと恥ずかしかったの。呼び捨てていいわ」と笑いながらお願いしている。
「でもそれでは」と言うのを、「宇加でも水分でもいいの、そう呼んで欲しいの」と言葉も砕けて。
「宇加も高校デビューだね。反動もあると思うけど」俺の横に並んだ神門がそんな姿をみて、目を細めて言う。
「そうだな」
おっ、新田原! いつから居た!
「思うところあるとはいえ、急に変わるのだ。大江戸、瑞穂、ちゃんと水分のことを見てあげろ。水分は葵様のご友人なのだからな」
「てめー、なにを偉そうに」
だがそうだ、俺は彼女の背中を押したのは俺だ。責任がある、そして俺と先輩が願った桐花の姿に、最初に変わろうと踏み出したのは彼女だ。
だから倒れそうになったら支えてあげたい、疲れたら手を引いてあげたい。きっと先輩もそうするだろうから。
今日は放課後のホームルームで出し物を決めねばならない。いよいよ委員会への最終提出が明日なのだ。
さて、水分に感化されたか、その進行を握る鵜飼さんは、覚悟を決めたかのように腹の座った怖い顔で進行を握った。どうした鵜飼。首から縄でも取れたか!
「もう今日決めないといけません。私達には三つの案があります。1つ目は山縣さんが仰った喫茶、2つ目は凛様が仰った喫茶、3つ目はボランティアのお世話係です。今日、決めないと私たちはお世話係になります。決めるのは皆さんです。では三つの案がそれぞれどのような内容かご説明します」
大江戸は、一言一言を噛みしめながら進行する鵜飼さんの後ろに『休め』の体勢で立っている。何か落としたらフォローするつもりで気を張っているのだろう。ちらちら水分の方に視線が飛ぶのが気になるが。
「……こういう案です。案は大江戸さんや山縣さんとで概略を考えています。凛様にも先ほどご説明しました」
阿達が、ウンと頷く。
大江戸が「各案で達成されること、実行に際しての問題点は説明したとおりです、それも勘案しつて皆さんの意思で選らん下さい」と『意思』の所に力を込めてフォローする。そこが大事だ、鵜飼さん的には言い難いところ。と思ったら鵜飼さんが逆フォローに入れてきた。
「『自分だったらコレをやりたい』ってことを大事にして選んでっ! やるんだったら……どうやったら楽しく出来るかを考えるのも私達に出来る事だと思うからっ」
その伝えきれない想いを含んだ発言は、鵜飼さんが5月から今日まで置かれていた状況への想いもあったのだろう。溢れんばかりの感情が込められていた。
鵜飼さんはクラス全体を見回して、うんと自分を納得させるように頷くと、「じゃ皆さん決を取ります。挙手を」と声を張り上げた。だが大江戸が慌ててそれを止める。
「いや! 投票にする! 俺が短冊を配るからチェックマークをつけて、書き終わったら折り曲げて袋に入れてくれ。袋は俺が持って回る」
「でも、そんな面倒な……」
鵜飼さんが声を上げた。
「そうですわ。挙手でいいじゃありませんか」
阿達は腕を組んで冷たい目でチクリと言うが、鈍感系な大江戸はそんな言葉に惑わされない。
「俺は見た目通り几帳面なんだ、大事な事だから無記名投票でやりたい。それに作ってきたんだから、無駄にしないためにもやりたい。時間もそうかからない。結果は同じだ。手間は俺と鵜飼さんだけだ、問題ないだろう」
珍しく大江戸に気迫がある。
「挙手でも投票でも結果は同じだ」
それに押されて、「よろしいでしょう」と阿達は不承不承と従と従った。
そうして開封した結果は、僅差で山縣の喫茶案となった。
そりゃボランティアはやりたくないもんな。阿達のパフォーマンスもあったとおもうが、男子は内部生も含めて本音では、女子のコスプレが見たいのだ! 例外なく俺だって。
だってうちのクラス、美人やかわいい子多いもん。
その結果を聞いて、阿達は不満の様子を隠さなかった。
もちろん、その不穏なオーラは鵜飼さんにも伝わっている。鵜飼さんが読み上げるペーパーは小刻みに震えているのが、俺の位置からでも見えた。
特別内部生の顔を潰し、鵜匠の首縄をむりやり引きちぎったら、どうなるかは誰もが想像がつく。
でも、それでも出した答え。鵜飼さんも高校再デビューしようと踏ん張っているのだ。
さて生徒会の方である。
大江戸が発行した、桐花祭株は順調に消化され、資金は随分集まってきていた。
落ちぶれたとはいえ、お金持ちが多い学園である、『生徒の自主的な活動』というお題目がつくと、ならばと買ってくれる親御さんが多く、1枚1,000円固定にも係らず、すでに3000枚近くが売れていた。
億の金が動く学園からすると、300万円なんて端金かもしれないが、ありがたい限りです。
「ねぇ歳、配当も無いし売買も出来ないんだから、株と言っていいのかなぁ」
「今更いうな! いいんだ雰囲気なんだ、決算後に償還するんだからそれがキャピタルゲインだと思ってもらえればいい」
「でも、それじゃ本来の株じゃないよ」
「いやむしろ、ベネチアで株式が発案された時に近いだろう」
「言われたらそうかもね。じゃ歳はメディチだ」
「そのたとえは悪くないな」
また俺を置いて神門と大江戸が楽しい会話を。俺も混ざりたい!
「おーい、帰えってこーい。俺には分からねーぞー、新田原もヨミ先輩も」
「そんなことないよ。メディチって聞いたことあるもん」
「えー! ヨミ先輩! ヨミ先輩って時々俺を裏切る!」
「薬の語源となった家だろ。イタリアに行ったとき聞いたもん」
「イタリアー!!! 旅行ですか、旅行に行ってんですか!!!」
「うん、家族でだけど」
「なんっすか! 最近の若い子は、小さいころから贅沢を」
「んだよ、お前の方が若いだろ。時々、瑞穂はじじくさいんだよ」
「そうだ。瑞穂。感性は爺臭いのに、頭は子供だ。お前はコナンくんか」
「逆だろ! あれは体が子供、頭が大人だ! しかもじじいじゃねー。頭がじじぃだったらコナン君、薄毛になるだろ」
「あははは」
あははじゃないよヨミ先輩。あんた、ここで能天気に笑ってる場合か。
「それより俺はヨミ先輩の家庭が心配ですよ」
「オレ? 大丈夫だよ。ねーちゃんとは口きいてねーけど、今までも、そんなに仲良くねーし」
「なんとか仲良くやれないんですか」
「なんでさ」
「だって、いやでしょ。姉妹で」
「小っちゃい頃からだもん、慣れたよ。グーで殴られないだけ、今の方がいいって」
「えー! 女子同志なのにグーで殴るの!?」
「あ、ああ、うん。口喧嘩か段々酷くなるとさ」
「怖いな。ウチは男二人兄弟だが、兄貴は俺をグーで殴ることはなかった」
新田原には例の兄貴がいる。
「まじっ! 俺は足蹴にしてんのに!」
「ああ、兄貴は人をちゃんと見る男だからな」
「うわー、さりげにディスったね」
新田原は俺の返しを、さらりと受け流し俺も聞いてみたい事を口にした。
「どんなことで喧嘩になるんですか。益込先輩の家では」
「他愛もないことだよ。オレが御飯のおかずを多くとったとか」
「なんと、ワイルドな姉妹ですね」
「ねーちゃんがいちいち張り合うんだよ。オレもいいじゃんと思うんだけど、オレがから揚げ3個食べたら、ねーちゃんは4個食べないと気が済まないんだ。私の方がお姉ちゃんだからヨミよりたくさん食べれるって。さすがに今はないけど。小学校の時とかな」
「うーむ、そうは見えんが」
「オレがねーちゃんの身長を超えた時は、すげー不機嫌だったもん」
「中身、男じゃん。その発想」
「だよな。親父は残念だろうな。三人姉妹なのに、みんな男っぽく育っちゃって」
「ははは……」
笑うに笑えない。
「ねーちゃんはさ……おれが瑞穂と仲がいいのが気にいらないんだ」
「はい?」
気に入らない? どういうことだろうか?
「オレ、誰かと付き合う事とかなかったんだ」
躊躇うように言うのだけど、いや、付き合ってないし。
「ウソかと思うだろうけど、オレ、男の人苦手なんだ。ほんとは……怖い」
ああやっぱりと思った。夏休みの神社の境内でヨミ先輩が男三人に捕まったとき、彼女はガクガク震えていた。あの時は脅されて連れてこられたから怖くて震えていたのかと思ったが、運動神経がいいヨミ先輩が、倒れ掛かって相手に飛び込むとか変だと思っていた。
BLが好きなのに、でもマンガとかアニメとか全然好きなようには見えないし。友達も女子ばっかりで、クラスを覗いても男子と喋っているのを見たことがなかった。
「だから、ねーちゃんはあたしが男の友達と親しくなるなんて思ってなかったんだよ」
「お姉さんは、あんな人当たりだっていいし、巨乳なんだから、彼氏の一人くらい」
若干ヨミ先輩が冷ややかな目線を寄こす。
「たぶんいないと思う。分かんないけど。友達はいると思うけど、仲のいい男友達は知らない」
そうなんだ。益込先輩は寂しい人だと思った。比較と競争の世界が全てで、上にいないと気が済まないのだ。阿達と同じだ。そこにしか安心がない。足場が揺らぐと周りから必死になって安心を集める。自分が優位に行けなきゃ相手を蹴落とす。それに血眼になる人生。
「三人姉妹ですよね。末っ子は?」
「朝陽? あーちゃんは自由だからなぁ。オレもねーちゃんもどうでもいいんじゃね?」
うわぁ、こりゃ両親は大変そうだ。年子で三人とも濃そうだし。
「朝陽さんは野球をやるんですか?」
「やんねーよ。あいつは超女子だもん。いっつも赤かピンクでひらひらだぜ。部屋とかすんげーもん。あいつの部屋から出ると、壁が緑に見えんだよ」
「?」
「補色というやつだ。色相環の反対に位置する色で、外科医が白衣ではなくて薄緑の手術着を着ているだろう。あれは血の赤い色の残像を消すためだ」
「聞いてない」
「は?」
「きいてないから、大江戸」
「ガーリーな友達もいっぱいいてさ」
写真を見せてもらう。あ、制服が違うのね。ベージュのニットベストにミニミニのスカート、ちょっと脱色した髪。前屈みにカメラに寄って、目元でVサインなんか作って。写真なのに『イエ~』なんて聞こえそうである。
珍しく三姉妹でとった写真だそうだ。
左にいる益込姉の不機嫌そうな顔。たじたじのヨミ先輩が朝陽さんの後ろで暗めのライティングで小さく映っている。
三人で一番かわいいのは誰だと言われれば、どの子も美人だが、真ん中の朝陽さんだ。
なんとなくイケてるオーラがある。
「瑞穂、オレよりあーちゃんの方がかわいいと思ったろ」
「そんなことないです……よ」
「うそつけ、目が嘘をついてる」
ほんとか、女はそんな芸当ができるのか。
「お前、女子女子したやつ好きそうだもんな。でも、オレの方が胸がでかい!」
「みろ、写真を」
「たしかに、朝陽さん、ぺたぺたかも」
「だろ、あいつの弱点は胸だ。でも絶対言うなよ、めちゃくちゃ怒るから」
そんな耳元で言わなくても。いいませんよ。
「とにかく、いいんだよオレたちのことは。どうせ半年もすりゃ、ねーちゃんは卒業だし。それまで邪魔者を押さえ込めばいいんだから」
それはそうだが俺は良くない。大事な人がいろいろ問題を抱えているのは見過ごしたくない。
先輩に相談してみようかな。でも先輩は益込には近づくなといっていたし。でももう一度だけ、話を聞いてみようか。
「葵先輩も。同じ、あと半年だぜ」
俺にとっては、そっちの方が衝撃的な一言だった。俺は急に現実を見せつけられた。