1章-8
葵を牛丼屋に連れて行った事を知った新田原は激怒。内部生の間では、外部生の政治が葵を唆したと噂が広まり、大問題になっていた。
そんな中、政治は水分から手紙を受けとる。そして政治は、事態収拾に奮闘する水分の姿を知る。
思えば何で俺は、通学経路の途中にある店に先輩を案内したのだろう。いくら遅い時間だったとはいえ、学園の奴らに見られる事を考えなかった。
数日後。
「ういーす」
「よう瑞穂~」
同じ生徒会長だというのに、この扱いは何だろう。葵様と言われた先代に比べ敬意の落差が著しいんですけど。特に内部生の視線は冷たい。いいんだよ。いいんだけどね。
肩の重みから一秒でも早く楽になろうと、生徒会資料をたらふく詰め込んだ鞄をドサリと机に置くと、席につく間もなく「瑞穂!」と怒鳴り声が飛んできた。言わずもがな新田原である。
窓際の声の主が、鬼の形相で俺のもとまでズイズイやって来る。あまりに一直線に歩いて来るので、クラスの奴らはモーゼのように、自ら机を左右にかき分ける。
怖い! その姿がナマハゲぐらい怖い!
「瑞穂!」
「なんだよ」
「貴様、来いっ!」
手が出たので、いきなりぶん殴られるかと思ったが、新田原は棚の本でも取る気楽さで俺の襟を掴み上げると、軽くクンと引っ張った。
それだけなのに、態勢を崩して、自然と右足が一歩前に出てしまう。
身構えていたのに!
手際が良すぎて、驚く暇もない!
その勢いのままにをグイグイ引っ張られて廊下へ。そして後ろも振り返ることもできず階段へ。
「おい! おい!!!」
俺の呼び掛けはトーゼン無視。
向かったのは屋上だった。新田原が扉を開け放つと、向こうには額縁に切り取られた一面の青。
始業時間前のひと時なので、屋上には誰も居ない。
時より水木の花びらが、春風に誘われて舞い上がってくる静かな光景の中、俺は屋上のフェンスに思いっきり叩きつけられていた。
ガシャーン
衝撃音が耳をつんざき、横顔が固い緑のトランポリンにバウンドする。
揺れる金網を両手で掴み、新田原の方に体を向け直せば、そこには仁王立ちに肩を怒らせて怒気を吐く修羅がいた。
「貴様、葵様に何をした!」
「……」
「何をしたと聞いているんだ!!!」
「なん、かはっっっ」
また気づかぬうちに襟を取られている。こいつ、なんか武道をやっている、なんて悠長な事を考えてる場合じゃない! 首が絞まって声が出ない。それどころか頭のてっぺんからスーッと冷たいものが落ちて来る!
(落ちる、このままだと)
咄嗟のところで右手を動かし、新田原の腕をパンパンと二度叩く。新田原は、俺が咽る事さえ出来ないと分かったらしく、厳しい送り襟締めを少し緩めたが、制服の襟はまだがっちり奴の手中にあった。
「がはっっっ、はー、はーっ、何も、何もしてねーよ!」
「黙れ!」
言えと言ったり黙れと言ったり、忙しい奴め。
「目撃者がいるんだ」
「何のだよ!」
「しらばっくれるか! 卑怯者め」
「だから、何のだよ!!!」
コイツとは、ほんと馬が合わない、直情短絡的で頭に血が昇ると何に怒っているのか分からない。自分勝手な正義を振り回して食ってかかりやがって!
ふと先輩の言葉が頭をよぎった。『お前に似ている』と。知らねーよ! クソが!
「葵様をファストフードに連れて行った事だ。しかも牛丼だと!」
「ああ、それか」
「貴様、どこまで葵様を愚弄すれば気がすむ!」
また、襟に力がこもり息がヒューヒューという。
「何でそれが愚弄になるんだよ」
「あのような所は、葵様が行くべき所ではない!」
「そんなの押し付けだろ! お前の勝手なイメージだっ」
ぎりぎりの声を絞り出して反論すると、奴はまた俺を金網に叩きつけた。ぶつけようのない思いに当てられる俺はエライ迷惑だ。
「高貴な方には高貴な振る舞いが求められる。野卑なよそ者には分からん」
「じゃお前には分かるのかよ、それに先輩はそう思っていない」
「違う!!! 気高いお方だ。学園の範として立たれ、誰にでも平等に接せられる。お前とは住む世界が違うのだ!」
「知らねーよ、向こうから来たんだからよ」
「バカな事を言うな! 全てお前のせいだ。お前が現れるまでは葵様は! 貴様が葵様の純粋さにつけ込み、いらぬ事を吹き込むから葵様は……」
俺はマーラーか? それともサタンか? 俺と話したヤツは、皆、イカれてしまうとでも言いたいのか。
新田原は俺に唆された哀れな姫君を思い慟哭している。思い込みの激しい奴の心理は分からん。怒っているのか泣いているのかさえ。
だがヤツの感情に乱れが起きたのは確かで、ふと締め上げる手が弱まった。その隙を突いてヤツ手首を取り、逆に後ろに腕をひねりあげる。子供の頃、誰かから教えて貰った唯一の護身術だ。
「くっ! 瑞穂」
立場逆転。今度はコッチが主導権を握る番だ。
「瑞穂ね。名前で呼んでくれて嬉しいぜ新田原。『お前』から昇格だ。先輩の事は俺も分かんねーよ。何で場末の飯屋に行きたがったのかも」
「行きたがっただと!」
「そうだよ。行ってみたいと言われた」
「葵様から……だと」
「俺だってバカじゃない、そうでもなきゃ桐花の女子をあんな所に連れて行くかよ」
新田原の抵抗が弱まる。おいおいショック受けてるよ。コイツ。
「おい、大丈夫か」
「貴様に心配などされたくない! 離せ!」
「あいよ」
手首をぱっと離すと、新田原はゆらりと体を起こした。もう俺への攻めはない。バカ力め、喉仏が折れるかと思ったぜ。
「本人に聞いてみればいいだろ」
「聞けるわけがない。それは俺の信頼に関わる」
「そうかよ、じゃ好きにしろ」
新田原は呆然として、ぽろぽろと独り言を落とし始めた。
「葵様はなぜ……お立場を分かっていながら」
先輩は、自分の行動や発言が周囲からどう見られているか、よく分かっている。それが故に俺と口論になったのだから。
「なら、分かってるから行ったんじゃねーの」
「なぜ……」
「さーな、自分が祭り上げられるのが、イヤになったんじゃねーの。お前らの女神さまは、デキの悪い信者に愛想が尽きたのかもな」
普段差別されている怒りを込めて、目いっぱい嫌味を言ってやったが、あながち外れてないと思う。先輩は俺といる時は普段と違う。強気な態度も、上からの話し方もない。むしろ外部生の俺に気を使っているくらいなのだから。
「だからサロンにも……」
新田原とは、それ以上、話さなかった。こいつと話しても、先輩の胸中を知る事は出来ないと思ったからだ。
始業のベルが鳴り、俺は新田原を置いてきぼりにして教室に戻った。クラスの奴等は俺が新田原に引きずられて行ったことで持ちきりのようだったが、教師が来たため否応なく沈黙となっている。
「新田原くんは、休みですか」
教師は独り言のように出欠をとり、無慈悲にも出席簿をつける。誰のフォローもない。もちろん俺も。奴が戻ってくるかどうかも分からないのだから。
俺の前に座る神門がピクリとも動かないのも怖い。普段面が笑顔な分、止まってると感情が読めねーからマジ怖えーんだよ。
粗麻の服を着せられたような、チクチクした気持ち悪さ全身に感じながら、今日こそ授業が終わらないで欲しいと思ったことはなかった。
この時間が終われば、口さがない奴等が俺の元に駆け寄って来るだろう。向こうは聞きたがろうが、こっちは何も話したくない。
新田原も戻ってくるかも知れない。そして、また絡まれるかもしれない。
神門には、どんなことを言われるだろうか。
だか、時は冷酷に秒を刻み、つまらない授業はいくら長く感じようと着実に終わりを迎えている。
「さて授業はここまでです。宿題ではありませんが、次のページの漢詩を読めるように予習をしておいてください。今日はとても集中してました。素晴らしいと思います。以上です」
教師の的外れな褒め言葉が空虚に響く。集中なんかしている訳ないだろう。ただ俺らへの好奇心を宿して想像を膨らませているだけだ。
細身の好々爺ぜんとした教師が終わりの言葉を言い終わると同時に、ピタリと終了のベルが鳴った。授業は退屈なのに、こういうところばかり職人になっている事に軽い侮蔑の念が沸き起こる。
教師が退出すると、悪友どもがワラワラと俺の席に集まってきた。女子は来ない。まぁ知ってましたけどー。
「瑞穂! 今度は何やらかしたん!?」
俺が悪い前提かよ。
「何もしてねーよ。新田原の日頃の鬱屈が爆発したんだろ。端からあいつとは馬が合わなかったからよ」
「だよな。あいつ内部生のワリに、お前以外にはイイヤツなんだけどな」
マジかよ。とんだ依怙贔屓野郎だ。俺のことは名前で呼ばないわ、いつもギリギリ睨んでくるわ、口を開けば難癖をつけるわ、初日からこうなのだから。
「新田原はどうしたんだよ」
「知らね、まだ屋上なんじゃねーの」
「ぜってー、瑞穂やられてると思ったわ」
「悪かったな。無事で」
他に数名が同時に話しかけてくる。
「上で何してきたんだよ」「新田原のやつ目がマジだったわ」「あんなに怒るなんて普通じゃないぜ」「何でやらかしたんだ」「素直に吐けよ」
ああっ、どいつもこいつも! ヘラヘラと薄ら笑いを浮かべやがって! うざい、うざい、うざい!!!
「幕内先輩の事だろ」
「押し倒した!? 遂にやっちまった!?」
「葵ちゃん、瑞穂の事、お気にだもんな」
適当な憶測が飛び交う。
なんて身勝手なのだろう。後先考えずに行動した俺のせいかもしれないが、先輩が俺のせいで辱められる事を笑って済ませられる程、俺は無感情じゃない。
傍観者のお慰みになるなら、いっそ新田原みたく当事者として俺に挑んでくる方が、溜飲も溜まらぬというものだ。
男子が俺の周りでワイのワイの言っているとは別に、女子は女子で何人かのグループに分かれてヒソヒソ話をしている。だがここまで聞こえてこない。それが気にならないと言えば嘘になる。
それを察してか、ふらっ偵察に行ってきた山縣が、女子グループの方をちらっと見ながら俺に様子を教えてくれた。
「瑞穂の方が分が悪いぜ。アイツの方が真面目だし女子の面倒見もいいしな。実際」
なんだよそれ。どんな噂が広がっているのか分からないが、ようは俺が悪者って事らしい。
そんな感じで休みごとに、新田原はまだ来ないのか、真相を暴露しろと詰め寄られていたのだが、ふとスマホのメッセージに気づいた。差出人は神門。
『今日は生徒会室に来なくていいから』
ブルッと鳥肌が立ったね。
面白がるなら当事者の方がまだ良いと言ったのは誰だよ! こいつ、めちゃめちゃ怒ってんじゃねーの。普段なら直接話すのに、敢えてスマホでこんなメッセージを。もしかして俺のやったことを知って、新田原と同じく思ったんじゃね。
やばかった。軽率だった。こうなることを予想して無理にでも先輩のお願いを断ればよかった。
でもそれでよかったのか……それで。
断れば今日みたいな事は起きてないと思う。でも先輩の気持ちはどうなる。それじゃ俺も新田原と同じだ。先輩を周囲の理想に押し込めて、それで穏便な日々を手に入れても、皆の笑顔の陰で先輩は苦しむだろう。
だとしたら……。
昨日は気紛れレなんて思ったけど、先輩は凄く喜んでた。あれは先輩が本当にやりたい事だったんだと思う。
先輩は、俺と牛丼屋に行ったら、どんな事が起こるか分かっていた筈だ。それなのに自分から、どうしても行きたいと言った。
あれは挑戦だったんだ。きっと。期待される自分から飛び出すジャンプだった。
楽しかったって言ったのは、そういう決められた枠から飛び出す、高揚みたいなものだったのかもしれない。
ならやっぱり、俺は先輩を連れ出して間違ってなかったと言うことだ。けど、間違っていないことで安心していいのだろうか。
いやいや、正しい事と安全なことは別だ。俺のセンサーは、神門だけには逆らうなと警報を鳴らしている。
散々、悩んで出した結論は……。
今日は大人しく帰ろう。