4章-22
相手が三人になってからの記憶は殆どない。ただヨミ先輩を守りたかった。その一心だった。
俺はどうなってもよかった。がむしゃらに突っ込み、食らいつき、そしてボコボコに殴られた。
かなり派手に声を出したつもりだったが、残念ながら最後まで人は来ず、完全にぶちギレていた俺は、卑怯かどうかも考えず優男の急所を攻撃、怒った奴は悪人顔をさらけ出して、狂ったように猛烈なパンチを俺に向けて何度も放った。
俺の名を叫ぶヨミ先輩の声が残っている。
泣きそうに、声の限り叫ぶ声。
その声が俺を繋ぎ止めていた。
まだだ。まだ立てる。俺はこの子を守るんだと。
奴は、俺が全身ボロボロになるまでぶちのめして、そこそこ満足したのだろう、荒い呼吸を残すと、「行こうぜ、冷めちまった」とほざき、三人を連れて背を向けた。
地面に突っ伏す横目に、俺が蹴り上げてやった股間を気にして歩くスーツ姿が見えた。
頭がおかしくなっていたのだろう、それが痛快で『ふふふ』と笑っている自分がいた。
もう雑巾のようにボロボロなのに。
勝って追い返した訳じゃない。手を止めたのは、飽きたから捨てた、或はこれ以上はヤバイと思ったから、そのどちらかだろう。
砂利を蹴り上げて去っていく奴等が見えなくなってから、俺は四つん這いになって身を起こし、ヨミ先輩に声をかけた。
「大丈夫ですか、ヨミ先輩」
「……うん。瑞穂は」
「見ての通り。かっこわりーな。ボコボコ」
ヨミ先輩が俺の方に、膝をついてやってくる。そんな砂利の上で痛いのに。
「よかった。顔、思ったよか酷くない……」
「なんだか、元がブサイクみたいな」
「そうじゃねーって。ごめん、オレのせいで」
「俺が弱かっただけっすから。それより、ヨミ先輩までボロボロになっちゃって」
「相手は三人だもん………瑞穂、カッコよかったって」
「あはは、そう言ってもらえるとうれしいかな。ヨミ先輩、立てます?」
安心させたくて笑ってみせるが、ヨミ先輩の言葉はない。ただごそごそと足を崩す音だけがした。
「いっつ!」
「どうしました?」
「足、足くじいた……みたい」
「ちょっとみせて」
と向き直ってみると、ヨミ先輩の髪はぼさぼさ、浴衣の左袖は破けてて、肩が露わに見えている。
女の子座りで座っているが、下駄の鼻緒が切れているのが分かった。どこでどうなったか分からないが、その拍子に捻ったのだろう。骨が折れてなきゃいいけど。
「ちょっと見せてください。骨だったら固定しないとダメだから」
「大丈夫だって」
「いいから! ちょっと触りますよ」
足首から脛、膝までを触ってみると、少なくとも太い骨は折れている感じはない、足首の骨という可能性はなくはないが。
と思い軽く動かしてみると、ヨミ先輩は「ひっ!」と声を出して、びくっと体を震わせる。
「結構痛いみたいですね。もしかして骨かもしれない」
「ごめん、助けてもらって、瑞穂もボロボロなのに」
しゅんとして言う。
「気にしなくていいいですから。野球に響かないといいけど」
そう声をかけると、ヨミ先輩は言葉が胸に詰まったように、ぐっとこらえて「お前」と一言いった。
「先輩達と合流しましょう。ヨミ先輩歩けないですよね」と言って、俺は中腰に立ち上がって背中を向けた。
「はい」
「はい、って」
「おんぶ」
「おんぶ? だって瑞穂だって」
「俺は大丈夫ですよ。ちょっと腹と口が痛いけど、歩けますし」
「お前、口切ってんじゃん」
口に手を当ててみると、指先にねっとりと血が付く。それを見た瞬間から急に口の中一杯に鉄の味が広がった。気づくと急に痛くなるものだ。
「あっ、でももう止まって」
「ちょっと黙ってろ」
ヨミ先輩は、そう言って切れた左の袖で俺の口を拭こうとするものだから、それでは折角の浴衣が汚れてしまうので、その手をぱしっと取り「大丈夫です」と言い返して、自分の浴衣で口を拭う。
代わりにヨミ先輩のバサバサの髪を手櫛で直してあげる。
「やさしいですね。ヨミ先輩は」
「当たり前だろ! バカ言ってんなよ」
思ったよりサラサラの髪を手櫛で直すと、ちょっと潤んだ目が見えた。
「強がらなくていいんですから」
みるみる瞳に涙があふれ出す。それを堪えて
「ああ……」と。
この人は素直になれないときは、「ああ」というのだ。だから俺は中ば無理やりヨミ先輩の手をとり、背負追ってやる。
「下駄は自分で持ってくださいね」
よっと立ち上がると、自分が思ったよりもダメージを受けてる事が分かった。足がふらっとするが今更辛いと言えない。でも弱ってるとは思われたくないので、失礼ながら冗談を言う。
「重っ、ヨミ先輩、想像以上に重いです」
「重くない!」鼻をすすりながら怒って見せる。
「昨日みたいに肉ばっか食べてるからです。ダイエットしてください」
「重くないって!!!」
ふらつく足に力を込め、五本指で下駄をつかんでバランスを取る。それでもスムーズに歩く事ができない。
よっこらよっこら歩くリズムが、背中からヨミ先輩の匂いを運んでくる。シャンプーなのかな。それとも浴衣の匂いなのか。
少し汗の感じもする、ふわっと甘酸っぱい香り。
そして背中に感じる、ふくよかな感触。それが歩みに合わせて揺れ、俺の背中を優しく押す。
腕に伝わる柔らかさ。
こんなぼろ切れになって、傷ついた女の子を背負っても、ムラムラしたものを感じるのだから、男とは現金なものだ。
暫く押し黙って歩いていたが、
「ぷっ、ヨミは俺の女だって」
ヨミ先輩が急に拭いた。
「ちょっとー、急にー。それ言いますか」
「俺の女に手を出すなだっけ」
「そんなこと言いましたっけ、言ってないっすよ」
「いいじゃん、そんなこと言った気がするんだよ」
「もう、夢中だったから覚えてないなぁ」
二人で、そんな即興のお芝居を思い出して、クスクスと笑い合う。
「……瑞穂、ごめん」
「……」
「ごめん」
「……」
「ごめんな」
「なんで謝るんですか」
「あたしのせいで、こんなになっちゃったから。それなのに」
「……」
「あたし何もできなくて」
「相手は男ですもん」
「力、強くて、ぜんぜん抵抗できなかった。肩とかお尻とか触られて、そしたら震えて動けなくなって。あたし男に負けたくない、負けないって言ってたのに全然で。やっぱあたし女なんだって」
「当たり前じゃないですか。ヨミ先輩は、かわいい女の子ですよ」
「……」
納得できないのか、言葉が返ってこない。
「ヨミ先輩は自分が男みたいだって思うんですか? それともそうなりたい?」
「そんなの……」
「男とか女とか、どうでもいいじゃないですか、ヨミ先輩はヨミ先輩で、すげー魅力的な女の子で、野球が超うまいスーパー女子高生で、真剣に生きてるのが俺は好きですよ」
「へんに気張らなくたって、誰もバカにしない。誰もヨミ先輩は壊せないいんだから。ヨミ先輩が野球にコンプレックスがあっても、誇り高い生き方をしてるの、俺は知ってるし」
「ううん、そんなことないんだ。誇りなんて。バカにされたくないって気持ちだけでやってる」
「でも野球が好きな事にウソはないんだから」
「うん」
「見たでしょ、球技大会の時。みんな感動してましたよ。うちのクラスの子なんか泣いてましたもん。それがヨミ先輩がここまでやってきた結果じゃないですか。張り合って、こだわって、でも逃げずにやってきた。好きだから」
「好きだから……」
ヨミ先輩は消え入りそうな声でそこだけ反復する。
「そ、好きな事に素直だから、真剣だから、みんな感動するんでしょ」
「そうか、そうだな」
ヨミ先輩が俺の背中に重みをかけてきた。ふわっとしたやわらかさとともに、彼女の全部が俺に伝わってくるように。
「ちょっと、ヨミ先輩」
「いいじゃん、こうしてたいんだよ」
「だって俺、汚いですよ」
「汚くないよ。瑞穂は俺のヒーローだもん」
浴衣一枚から伝わる、ぴたりとした生々しい感覚と、肩甲骨にとっぷりとかかる重さ。さらに肩に顔を埋めてくる。
それが心地よくて、俺はヨミ先輩のするがままにされていた。
「甘えん坊、先輩なのに」
「うん」
「女だもん、好きなやつに甘えたかなんだよ」
えっ! 今なんて言った!? 聞き間違え!? これは一般論だよな。いや、危険を感じてドキドキするのと好きを勘違いするという、いわゆるつり橋効果じゃねーのか。
俺がそわそわしてたら、遠くに花火が上がった。
ぱっと空が赤く染まると、どどんと開花音が空に広がる。
「ヨミ先輩、花火」
俺の背中で顔をあげるヨミ先輩。
「ああ、綺麗だな」
「ええ、でも思ったより小さいですね」
「そうだな。でも、今の俺たちに合ってる」
「ですね」
首だけ振り返ると、そこには赤いほっぺたを汚した小さな顔があった。それは花火で赤いのか、別の理由で赤いのか分からなかった。
花火が明かりが切れると、ヨミ先輩の息づかいが耳をざわめかせる。早く打つ鼓動か背中まで伝わりそうだ。
「政治ーーー」
花火の明かりで分かったのか、遠くから神門の声がした。
俺がヨミ先輩をおんぶしてるのをみて、急いで振り返り、手で声を集めて遠くの皆に教えている。
そうして、五人が俺達の所に駆け寄ってきた時には、俺達は参道の真ん中まで来ていた。
「どうしたのだ!!! 怪我をしているではないか!」
真っ先に驚いたのは先輩。驚愕と動揺で目を丸くしている。
水分も背中にいるヨミ先輩を見て、「どうしたの!? ヨミさん!」と驚きの問を発した。
すっかり冷静になっていた俺達が、それに答えようと顔を合わせていると、まだなにも答えていないと言うのに、先輩が矢継ぎ早に問いを投げかけてきた。
「なぜ私たちを呼ばなかった! どこに居たのだ! 何があったのだ!」
その先輩を新田原が「落ち着いてください。葵様」となだめている。
「神社の裏で、ヨミ先輩が男に絡まれてて……」
「絡まれただと!!! 何人だ! 何人いたのだ。そいつらはどうした!」
「葵、落ち着きなよ」
神門に肩をぽんぽん叩かれてやっと息を吐き出す。
「裏手で三人の男に囲まれてたんです。それを俺が見つけて。皆を呼びに行こうかとも考えたんですが、俺が居ない間に、ヨミ先輩が連れ去られたらまずいと思って」
「瑞穂一人で戦ったのか!?」
大江戸が珍しく興味を示す。水分はまだ俺の背中にいるヨミ先輩に声をかけていた。
「ヨミ先輩も加勢してくれたよ」
「相手は! 相手はどうした」
「三人とも何処かに行っちゃいました。きっと興ざめしたんでしょう」
「俺がいれば、三人とも一網打尽にしてやったものを」
新田原が剣道の構えをして腕をまくる。
「オレ、恥ずかしいけど、足がすくんじゃって、なにも出来なくて。でも瑞穂が来てくれて。瑞穂、強かった。悪いのはオレなんだ、ぼんやりしててスキだらけで、あんな奴等につかまっちまって」
「まぁ、その原因を作ったのも瑞穂だけどな」
新田原め!
「ヨミさんは悪くないわ。あら、もしかして叩かれたの!? ほっぺた」
ほっぺたが赤いのを見つけて尋ねる。
「……あ、いや、そんな怪我はしてねーど……」
俺がヨミ先輩を背中から降ろすと、よろめく彼女を水分は受け止めて「かわいそうに、女の子に手をあげるんなて、ちっとも恥ずかしくないわ」と、それはもう自分事のように真剣に嘆き怒り、ヨミ先輩を支えてくれた。
「ヨミ先輩、すみませんでした。あんなタイミングで言う言葉じゃなかったですし、なにより、もっと早く見つけれていれば」
「政治、それはわたしも同じだ」
先輩は毅然と言うと、ヨミ先輩に支えに行くすがらに「よくやった」と一声かけてポンと俺の肩をたたくと、ヨミ先輩の横に立った。そして「ヨミ、すまなかった」と深々と頭を下げた。
「葵先輩、なんで」
先輩はそれには答えず「もう大丈夫だ、安心しろ」「可愛そうに、怖くなかったか」「助けてあげられず済まなかった」と何度も言ってはヨミ先輩を抱きしめて、後ろ頭を優しくさする。
二人ともいい大人なのに、まるで小さい子供のように。
普段、喧嘩ばかりなので、その姿が意外だ。
ヨミ先輩は惑いながら、ああ、うんと対応している。時々、俺を見ながら。
抱き合う女の子三人を眺める俺の横には、大江戸達が集う。
「何のための携帯だか。二人のうっかりには困ったものだ。だが、無事でよかった」
「無事じゃねーだろ。結構、アザになってるってこれ、腕も腹も足も」
いつもの大江戸らしい分析だ。
「でも大活躍じゃない」
「見つけたのが神門じゃなくてよかったぜ。お前だったら、俺は二人も助けなきゃならなかったからな」
「そうだね、僕はきっと戦力にならなかったよ」
なにを自慢そうに。
一方、新田原は柄にもなく、俺を心配してくれている。
「他に怪我をしているところはないのか。ちょっと見せてみろ」
ぶっきらぼうな物言いだが、奴なりの気遣いなのだ。
「顔はガードしてたようだな。お前は、思ったより喧嘩慣れしてるな」
「ガキの頃な、ちょっと粋がってたから」
そして、足や腕の浴衣をまくって診察を始めた。
「今は大したことないが打撲は後で痛くなる。帰ったら冷やしておけ。膝と肘は擦りむいているか。口は腫れるぞ。覚悟しておけ」
驚くほど優しいぞ。怖いぞ。
朝顔が咲く空の残像を背景に、先輩が振り向き告げる。
「政治、帰ろう。お前の傷の手当てをしなければ」
「大丈夫です。せっかく花火があがってるんですから」
「だが、お前、血が出ているだろう」
「でも、たいした事ないですから」
確かに血は出ているが、そんな大袈裟な出血ではない。寧ろ酷いのは打撲。これは帰ったって良くはならないし。
「瑞穂くんは、こういうところは強情ね」水分はため息をつくと「赤母衣!」と背中に声を掛けた。すると影から大男がすっと現れる!
「はい、お嬢様」
「赤母衣。友人が居る前で、お嬢様は止めてと言っているでしょう」
「申し訳ございません」
「瑞穂くんの応急処置をしてあげて」
「はい、かしこまりました」
本当に居たんだ赤母衣さん。巨木のような体躯を小さく折ってしゃがみ、胸元から応急措置の道具を取り出す。
「貴方が居ながらヨミさんを危険に合わせてしまうなんて」
「私はお嬢様のボディーガードですから」
水分が頭に手を当てて困った顔をする。
「ここにいる皆さんは私の大切なご友人です。私と同じく守ってくださいな!」
良く見えないが赤母衣さんが、困った顔をしている。
この要望に返事がないのは、本当に困っているからだろう。
「ヨミ先輩、浴衣、破れちゃいましたね」
「ああ、でもいいんだ。瑞穂も無事だったし」
「ありがとうございます。あそこでヨミ先輩が体当たりしてくれたから、このくらいの怪我ですんでるんですから」
ヨミ先輩がニコっと微笑む。
「ヨミさん、浴衣。直しましょうね。ピッタリで素敵なんですし。せっかく見せたくて奮発したのだから」
茶目っ気たっぷりに言う。
「宇加~!」
その二人の目をかいくぐり、先輩がそっと俺の横につく。
「政治、また助けられたな。やっぱりお前は私のヒーローだ」
俺だけに分かる声で、そっと。そして極上の笑顔で俺をよこした。
ヒーローか、まったく冴えない英雄だよ。
花火は、青や赤に煌めき、さんざめく。
こんな事があったものだから、俺達は声を出さずに花火を見上げた。
花火に照らされた瞳は、それぞれの思いを乗せて輝く。
いろいろあったけど、上々だったろう。
だってヨミ先輩が、無事だったんだから。
翌朝、俺が怪我をしたものだから、残念ながら旅行は早めに切り上げて帰ってきた。
帰る間際に、松平さんの提案で別荘の庭に紅葉の苗木を植えた。
まだ膝丈もない小さい紅葉。
「次にいらっしゃるときは、身の丈ほどにもなっていると思います」
松平さんが言う。
だが、俺がここに来ることは、もうないだろう。
それでも紅葉を見るたび、思い出すのだ。
生意気にも背中に感じた重さと温もりを。二人の頬を照らす花火を。紅葉の柄の強がりな美少女を。そして、幸運にも同じ時を分かち合うことができた、六人の親友を。
願わくば、この関係がいつまでも続きますように。