1章-7
部活事件以来、マジメに生徒会に取り組む政治。
だが、生徒会室に葵と二人。意識せずと彼女の事を意識してしまう。
それは葵も同じなのか、生徒会の帰り牛丼を食べて帰るという政治に、同伴したいと言い出す。
仕方なく葵を店に連れていくのだが。
先輩とは一瞬ぎくしゃくしたが、神門が間をとりなしてくれたお蔭で、なんとか元の鞘に納まった。
でも元はと言えば、俺が原因なんだよな。
先輩が俺に言ったことは正しいと思う。けど自分の意見が間違っているとも思えない。互いの考えの違いを抱いたまま先輩と会うのは、手の届かぬところに出来た瘡蓋の掻痒のように俺を刺激し続けるが、だからと言って、また話を蒸し返すのも大人気ない。
でも一つだけ言えるのは、あの場で何も言えなかったのは、自分が生徒会長として不甲斐なかったからだ。曲がりなりにも生徒会長なんだから、いつまでも先輩の後ろをついて歩くんじゃなくて、自分で仕事を処理できるようになりたい。
どうやったら、生徒会長として一人前になれるのかは分からないが、止まっているよりはマシだ。という事で、過去の生徒会が残した議事録やメモを読むことにした。
放課後は、速攻、生徒会棟に向かい、夜まで篭って資料を読みふける。
そう決めると、悪魔の誘惑が来るのが常なのね。
「瑞穂~、ゲーセン行かね」
これは昨日の赤羽の誘惑だ。
ゲームは嫌いじゃない。音ゲーとか割と得意だ。
「そういえば生徒会長になってから一度も休んでないなぁ」
「なんだよ、瑞穂のクセにマジにやってんな」
瑞穂のクセには余計だ。
「たまには息抜きでもしよーぜ」
「そうだな、たまには友情でも深めるか、赤羽くん」
「おお、青春の一ページを刻もうぜ、友よ」
だーーーって! 違うだろ! 舌の根も乾かぬうちに!!!
心を入れ替えたんじゃないのかよ俺!
涙を飲んで赤羽の誘いを断る。
その次は山縣。
「秋山先輩って舞踊部なんだってよ。見に行かね。なぁ行こうぜ」
秋山って山縣が、めっちゃかわいいって言ってた子か。これはちょっと行きたい! いや、そんなエロ心からじゃなくて、どんだけかわいいか知りたいだけ。純粋な好奇心ってやつ?
「おまえ、そんな情報を誰から聞いたんだよ」
「俺を甘く見るなよ。とある筋から合法的にだな」
「お前から合法とか、胡散臭いんだよ」
「俺の情報網を甘くみるなよ。この学園には、歴代の先輩から代々受け継がれた美少女リストがある」
「へー」
「それは巧みな情報収集能力と、美少女に対する熱意、そして口の堅い者だけが引き継ぐことが出来る伝説のノートなのだ」
「ほぉ~、じゃダメじゃん。いま俺に喋ってる段階で」
「そして、この俺が! 山縣有里が! 先日、そのノートを継ぐ者として選ばれたのだ! とある先輩に呼び出されてな」
「ふーん」
「ノートは見せられねーからな。極秘事項だし~」
「ああ」
「だが安心しろ。お前の大好きな幕内先輩も書いてあったぞ。去年の二年リストでベストファイブに入っている」
「あ、そう」
「感動ねーな、熱意ねーな。じゃ瑞穂、行くの止めるか。もうドアまで手をかけてるけどよ。舞踊部の更衣室の」
うわー! 話しながら部室の前まで来てるじゃん俺!
興味本意とはいえ、無意識に足が向く自分が怖い。もう開ける寸前だったよ。
心を鬼にして誘惑を断ち切る。ナウマクサンマンダバサラダンカーン! ごめんよ友よ。暇になったら覗きに、いや遊びに行こうぜ。
返す刀で生徒会室に向かう。危なかった。先輩と俺自身の心の約束を、いきなり破るところだったぜ。
生徒会室の本棚には過去の資料が、ごまんとある。
議事録やメモから見るのは、この学園で、どんな事が行われて、それらにどんな答えを出してきたのかを知っておく必要があるからだ。自分の頭で判断をするのは、そのインプットが終わってから。これは先輩の受け売りだけど。
だが記録は膨大で、ここ一年を遡るだけでも広げた両手では収まらないほどの資料がある。
「これ一週間で読み終わるかな」
いや決めないとダメだ。一週間で読み終わる!
そう決めて頑張っているので、帰る頃には外は星空だ。
先輩の言う通り、この建物は寒い。四月の夜はまだ寒く、紙をめくる手もかじかむ。
「先輩、もう帰った方がいいですよ。寒いですし。暗くなると夜道は危ないですし」
「いや、私が居ないと分からない事も多かろう。それにお前一人にするのも気が引けるしな」
「それは男のセリフです。そういえば男の子の神門くんはどうしたものやら」
「あいつはあいつで結構忙しいのだ」
「何に?」
「はっきり聞いたことはないが、家の事が面倒なのだそうだ」
「ふーん、家柄イイみたいですしね」
「それはあまり言うな。神門はそういうのを気にする」
「そうなんですね。ありがとうございます。気を付けます」
「おお、今日はやけに素直だな。政治」
先輩が意外だという顔をする。
「俺はいつも素直ですよ。あの一件から俺の評価落ちてますよね。先輩の中で」
資料を見ながら雑談っぽく言ってみる。先輩は真面目だから、顔を合わせて話したら気を遣ってしまいそうなので。
「そんなことはないぞ。こうやって遅くまで生徒会に関わってくれるのだ。評価が上がらん訳がなかろう」
「ホントですか」
「うむ、うなぎ登りだ」
「その褒め方は、逆に嘘くさいです」
こんな具合に先輩は遅くまで俺に付き合ってくれている。
二人きりで一つ部屋の中にいると緊張しそうなものだが、なぜか先輩といても緊張しない。これには自分でも驚きだ。
もちろん女性として見てます。美人だしスタイル抜群だし、声も品があって溌剌とした振る舞いがかわいくて、いい匂いするし、一緒に居たら舞い上がってしまいそうな女の子なのに何でだろう。
気高いから? それとも最初の刺激が強すぎたから?
ちなみに今、確認しているのは最近、投書箱に投函された意見書だ。生徒会に対する期待が分かると云う事で、先輩の勧めで目を通している。
「先輩、この投書で環境改善にマルが付いてる件って、生徒会で処理するんですか?」
「ん、どれどれ?」
先輩は席を立ち、俺の横からテーブルに右手を突いて、書類を覗き込んできた。
「仏の……字が汚いな」
意見書を読むために、目を細めた先輩の顔がゆっくり近付いてくる。衣擦れの音とともにもう俺の顔のすぐそこに!
ちょ、ちょっと先輩近い。近いです。近すぎですって。
甘い果実のような香りが鼻腔をくすぐると、俺の胸は激しい鼓動を打ち始めた。
スゥーと先輩の息が聞こえる。
さっきのウソ、やっぱドキドキする! いやだって、こんな美人が真横にいるんだよ。あと少しでほっぺたが触れちゃいそうなんだよ。もう肌なんかつるんと剥きたてのゆで卵みたいで、めちゃめちゃ綺麗なんだよ。ヤバいでしょ!
「ああ、トイレの流れが悪いか。これは投書箱に投函することではないだろう。確かに環境改善だがな。この手のものは緊急でなければ週単位でまとめて用務に回せばよ……どうした」
「いえ、なにも」
俺がカチカチになっているのに気づいて、一瞬いぶかしがった先輩だったが、はたと俺との距離が近いことを意識したようだ。慌てて離れて咳払い。
「す、すまん……」
「いえ……」
俺はといえば、そんな先輩に気の利いたことも言えず、ただ、がっちり視点を固めて正面を向き続けるしかない。
やばかった、俺の理性やばかった。めちゃ舞い上がった。もう少しで誘惑に負けるところだった。
赤・山コンビの誘惑とはケタが違うってコレ!
「こほん、あぁ政治。今日はここで終わりにしないか」
「そ、そうですね」
わざとらしい咳払いに、不自然なまでに素直な返事。
先輩も微妙な雰囲気に戸惑いながら、普段はしない書類の角を合わせなんかして、さも忙しいと無意味なアピールをしている。
俺達は、目には見えないクッションを間合いに漂よわせながら、変に意識しあって生徒会室を出た。
先輩の施錠の所作がたどたどしい。俺も右手と右足が出そうなくらい自分を意識してしまう。
生徒会棟を出ると、外は真っ暗。ピリッと冷える夜風に空は澄み渡っていた。
正門を抜けて学園につながる坂道を、やけに瞬く星空を背負って下りる。大気は街の諸々を溶かし込み、ゴーという渦音となって俺達を包む。
気まずい……実に気まずい。何か言わないと。
「星が綺麗ですね」
「ああ、今日は空が澄んでいるな。あんな小さな星までよく見える」
天を見上げる先輩。その姿が遠くに揺らめく街灯りと相まって艶めかしく美しい。
バカ! いっそう萌えるシチュエーションにしてどうする! 話題転換! 閑話休題! えーと、えーと。
「俺は星空より飯だな飯。腹へったー」
口を突いて出た本音の言葉だったが、高校男子らしくていい。これなら先輩は、『政治はロマンがないな』と言ってくれるに違いない。
ところが、「そうだな、私も空腹だ」ときた。さらに「政治は普段どんな食事をしているのだ」と聞いてきた。
あら想定外。
『星の海に雲の波たち月の舟星の林に君を見ゆ』
俺の方が余程、ロマンチストじゃないか。
「えーと、コンビニの弁当とか、どこか安い店で食ったりしてます」
「今日はどうするのだ?」
「坂の下にある牛丼屋にでも行こうかと、コンビニ弁当も飽きましたし」
「牛丼屋?」
「ええ」
「それは、どんなものだ?」
え? まさか食べたことない? まさか知らない?
「先輩、牛丼、知りませんか?」
「あいにく外食はあまりしたことがないのでな」
「そうですか、牛丼っていうのはご飯の上に煮付けの牛肉が乗ってて」
「なるほど、ご飯にビーフシチューを乗せたものか」
ぽんと掌に手をあてて、すっかり分かったと一人得心している。いや、多分あなたのイメージしているものは違っていると思います。
「ビーフシチューはちょっと違うかな」
「違うか。うむ、違ったか。そうか」
親指の爪を顎に当てて、そうかそうかと頷いている。これは先輩のクセらしい。何かをイメージしているときは、時々こんなポーズをしている。
「なぁ政治、私をそこに連れて行ってはくれないか」
「ええっ!」
「ダメか……」
まだ何も言ってないのに、そんな残念そうな顔をしないでよ。肩まで落としたりして。
「ダメじゃないですが、お勧めはしないかと~」
「何故だ」
「なぜって、目立ちますし」
「目立つ? なぜ?」
「桐花の制服ですし、その先輩ですから」
「制服は気にせん。それより牛丼が気になる」
えー。こんな美人を牛丼屋に連れて行くの~。確かに最近は女の子もいるけどさ。
「行くんですか」
「行きたい」
目を輝かせて言うなよ~。
「どうなっても、知りませんよ」
「構わん」
構うのは俺なんだって。こうなると先輩は頑固だ。説得は不可能と判断し、諦めて一緒に店の暖簾を潜ることにした。
「ここです」
「おお、これか! 通りすがりに見たことはあったが、これが牛丼屋か」
感動してる! こんな店で。
「結構、客がおるな」
「ええ、安くいですから。先輩、注文出せますか」
「バカにするな、オーダーくらい出来る」
ホントか。
「そこの券売機で食べたいメニューのボタンを押すんですよ」
「そうなのか?」
やはり知らんかったか。
「もちろんお金も入れるんですよ」
「そのくらい分かる!!!」
券売機に見入っていた先輩がカッと振り返る。先輩の声が大きくて客がハッと振り向く。こっちが恥ずかしいよ。
「どこに座ればよい? どこでもよいのか?」
「セルフサービスですからどこでも。レストランと言うよりは学食に近い感じです」
「なるほどな」
ふむふむ頷いている。なんだろうこの緊張感、なんで俺が緊張しなきゃいかんのだ。
「あ、チケットはしまわない! テーブルに置く!」
「あ、ああ、分かった」
はぁ~、目が離せない。
店員がチケットを回収して、乱暴にお冷やを置く。
「動線がぶつからないように、店員と客が分離されているのか、合理的なシステムだな」
「ええ、そうですね」
「あれは御御御付けが自動的に出来る機械か。優れものだな。見ろ政治。小鉢がテーブルの中にあるぞ」
「ええ」
知っとるわ! いちいち驚かない。身を乗り出してあちこちキョロキョロ見ない。
「このコップ、妙に軽いな」
変な事いわない! 無視。無視。無視。
流石は、早い安い美味いがモットーの店。牛丼は1分も待たないうちに出てきた。
「もう出来たのか! 間違って他の者のオーダーではないのか?」
「いえ、合ってます。合ってますから、安心して食べてください」
感情を押し殺して説明する。先輩に巻き込まれるほど俺達はバカになっていく。傍から見たらこの二人、常識知らずのバカップルだろう。せめてバカで留まれ、アホの領域には行くなと心に願う。
「そうか、間違っていたら申し訳ないが」
「大丈夫です。俺が保証します」
「分かった。政治が言うのだから間違いないのだろう」
「そうです」
なんとも古風な口調の制服美人が、面白い事を言っているせいで、残念ながら俺達は注目の的だ。みんな聞く耳を立てて俺達の話を聞いているのがヒシヒシと伝わる。
だが先輩は、そんなのお構い無しに、嬉々として初牛丼を楽しんでいる。
俺ばかりハラハラするのは不公平だ!
「この赤いのはなんだ」
「紅生姜です」
「生姜はこんなに赤くないぞ」
「赤いのもあるんです」
「なぜ赤くする?」
「……」
「なぜ?」
「……」
「どうして」
「……」
「政治、なにゆえ」
「庶民の生姜は赤いんです!!!」
「……なぜ?」
あんた子供か! なんで『なんで、どうして』って聞いてくるかな。
無視していると、「政治、何故だ。どうしてだ。どうやって赤くするのだ」と更に激しい追及が来る。好奇心が止まらない。ああもう!
「食紅で赤くしてるんです!」
「何故?」
うがー!!!!!!
「古くなっても、おいしそうに見えるからっ!」
言い放つと、対面のメガネのおじさんが、ふっと苦笑いをした。くっそ! きっと適当な答えが間違ってたからだ。
だが先輩は「成る程な。それは知恵だな」と満足げ。このままだと、次は一味唐辛子に、なぜなぜ攻撃が来そうなので、紅生姜と一味とうがらしを強引に先輩の牛丼にぶっかけて「ハイ」と渡す。
「食べてください」
「ああ、すまないな」
「ところで……」
「まず、食べる!!」
「あ、ああ」
口を塞ぐために、強引に食べさせる。先輩は俺が無言で渡した割り箸を上品に横にそろえて割ると、背筋を正して丼を手に持って食べ始めた。
そっとつまみ上げたチリチリの肉を右から左から眺め、パクっと口に運ぶ。これほど、しげしげと肉を観察して牛丼を食べる人を俺は見たことがない。
「おお! ペラペラな肉だがこれは美味い」
うわーーー! 店の中でそういう事言わない!
客がぷぷっと笑らっている。もう赤面だよ。
「これはシチューと言うよりは、すき焼きだな。牛丼屋ではなく『すき屋』だろう」
にゃー!!! ここでライバル店の名前言うか! 大声で! 無意識にやっているのがマジ怖いわ!
先輩はおいしいおいしいと、丼を手にパクパクご飯を食べている。場末の店など遠慮がないものだ。真っ白い制服を着た桐花の美人が豪快にご飯を食べているのは、さぞ珍しいのだろう。チラチラどころかガン見だ。
先輩は、そんな視線など全く関係ないと言わんばかりに、あっという間に牛丼を食べてしまった。
「政治はいい店を知っているな。今日は紹介してくれて感謝するぞ」
「こんな店ならいくらでも紹介しますから」
でも制服は遠慮して欲しい。俺の精神が持たない。
「だが、少々栄養が偏っているように思うぞ。ちゃんと野菜も食べろ。果物や乳製品も食べないと体を壊してしまうぞ」
それを、ここで言う!? 店内のお客さま全否定ですよ。しかも営業妨害でしょ。俺、もうここの店来れない! 脇汗びっしょりだよ。
「ところで、いつも弁当や外で食べていると言っていたが、家の者は遅いのか」
「遅い? いえ一人暮らしなんです」
「そうか地方からこちらに来ているんだったな。なぜ上京を?」
「そんな理由なんかありません。田舎が退屈だったらからもしれませんし、何かに踏ん切りを着けたかったのもあったし」
そんなもんだ。田舎の中学には俺の望んだ平穏はあったが興奮はなかった。自然も沢山あって初夏には水田の蛙の大合唱、ガキの俺は遊びたい放題に遊んだ。
周りは好い人ばかりで、我が家は近所のお世話になりっぱなしだったが、それでも誰も嫌な顔をする人はいない。子供にとって贅沢すぎる環境だったが、何かが足りなかった。
「一人暮らしとは思いきったな。寮か?」
「寮は高いのでアパートです」
「では本当に一人ではないか! それは母君がさぞかし心配しているだろう」
「お袋は俺が小さい頃に亡くなってますから」
そんなつもりはなかったが、しんみりした言葉に先輩が恐縮する。なぜか店の客も。あんたら俺達に思い入れすぎだよ。
「もし気にしていたなら悪いことを聞いてしまった。許してくれ」
「いえ気にしないでください、小さい頃の話ですから母親が居ないのは慣れてます」
そう慣れた。この話になると周りが悪いことを聞いたという顔をするのにも。寂しいとか、何で俺にはと思った事が無い訳ではないが、これが俺の普通なんだと思える折り合いはとうの昔についている。
「そうか。同情ではないが無理はしないで欲しい。父君は里か」
「はい、何をやっているのか忙しいようで、仕事が大事だから高校はお前一人で行けと言われました。まぁ実家でも一人は多かったので慣れてますけど」
なんか複雑な表情が返ってきたぞ。先輩はテーブルに手をついて体をこっちに向けると、ずいっと寄ってきて、潤んだ瞳で、「政治! 困ったことがあったら言ってくれ。いつでも力になろう!」と力強く告げた。イスが高いからバランスを崩しそうで怖い。
「え、はい、でも余り困ってませんけど」
「そう言うな。遠慮することはない。何かないか!」
「はぁ。じゃ先輩、ここのお客さん、全員俺達の話に聞く耳を立ててるんですけど、もう出ませんか」
何事もなかったように、一斉に丼と向き合うお客様ご一同。隣の奴なんか丼がカラっぽだろう。大分前に食い終わっているのを俺は知ってるぞ! 大体、俺達が話し初めてから客が一人も店を出ないのは異常だろ。とっとと帰れお前ら!
そんなことにも気づかず、鷹揚と周りを見回した先輩は、「ここは、そういう店かと思った」と、またズレた事を言って俺を赤面させると「では出よう」と言って軽々と席を立った。もう、ほんと調子狂うよ。
だか、そのまま硬直。
「どうしました?」
「政治。この後、どうするのだ?」
「どうって、帰りますけど」
「このまま帰ってしまうのか?」
え、どういうこと? どこか寄って帰るってこと? まさか俺の家に来たいとか。そうか! それでウチのこと聞いたのか。いやいや、ちょっと待てって、急に来られても困る。こっちにはこっちの準備が。男には男の秘密があるのだ。片付けないと色々ヤバい。
「先輩、色々準備もありますし 、急に言われても困ります」
「困ることか? むしろその方が気持ち良くなれるだろう。お互いに」
気持ちいい!!! ちょーっと、こんな店でなんてことを!
「あわわ、だめですって! いや嬉しいですけど、こんな夜更けに、いや夜更けだからってのもありますが、ボクらまだ高校生でしょ、まだ出会って間もないというか」
「ん? 何を言ってるのだ」
「まずは、そ、そう! 手を繋ぐところから始めましょう。ねっ、ねっ? そんな刹那な快楽に身をやつしてはいけません」
「んん? お前、何か勘違いしていないか。私は店主や料理人に礼も言わずに出て良いのかと聞いているのだが、このまま帰っては失礼だろう」
そっちかよ!!!
焦った! 紛らわしいわ!!! まじでアチコチかたくなったわ! みろ! 店のやつらも全員誤解してるって。この顔は同じことを考えてた顔だ!
「そのまま、出ていいんですっ! そういう店なんです! コックなんていないんですから、その方が喜ばれるんです!」
「そうか。ならばお前に従おう」
うう、超恥ずかしい。もう絶対ここ来れない。満足げな先輩とは対照的に、小さくなって店を出る俺。すっかり憔悴しきった。
「ありがとう政治。今日は少し政治の世界に近づけた気がする」
「そう言って戴けてなにより……」
「なぁ政治、お前はどんな料理が好きなのだ」
「俺ですか、卵焼きかな。いやでも食べたいと言ったら煮物とか煮豆とかひじきとか食べたいかも、随分、食べてない気がするから」
実はそんなに和食が好きな訳じゃない。でもダシと醤油の香りはお袋の味って感じがする。もちろんお袋の料理は食べたことがないので、懐かしい訳などないのだが、それでも郷愁を感じるのは、俺も日本人だからかもしれない。
「煮物か」
「先輩は何が好きですか」
「私か? 私も卵焼きは好きだ。だが実はチョコレートが好物でな。ニキビになるから自制しているのだが食べ始めると止まらん」
「へぇ~」
「意外か?」
「少し」
先輩は、ゆっくりとした歩みを止め俺に言う。
「政治、またお前の行く所に連れて行ってくれ。今日は楽しかった」
こくっと小首を傾げて、はにかんだ笑顔を見せて髪を揺らした。
それは俺を心を射抜くには、十分すぎる威力の笑顔だった。
でも。
先輩の一面を知れたのは興味深い経験でしたが、本音を言っていいですか。
もうこりごりです。
先輩のキマグレに付き合っていると、俺のいける店がなくなって餓死してしまいます。生徒会の仕事を覚える前に、餓え死ぬことだけは無いように、これからは気を付けよう。
そう思い帰路についたのだが、この気まぐれが思いもよらぬ形で俺を揺さぶり始める。