4章-16
ばぁばの家の鶏と共に目を覚ます。日の出に鳴く鶏の声で目を覚ますなんて、そう経験することはないだろう。
普段なら目覚ましでも起きない俺だが、先輩の別荘にいる緊張のせいか、ぱっちりと目が覚めてしまった。
スマホを見ると、まだ朝5時。さすがに早いと思い、しばらく布団の中でもぞもぞしていたが、誰も起きないので、先に着替えて田園を散策する事にした。
「んーっ」
そっと玄関を出て、軽く背伸び。
夏と言えども山が近いせいか、空気はまるで高原のよう。深呼吸をすると清涼な空気が体に満ち、体の澱を追い出して行く。
はぁー、空気がしっとりしてて気持ちいい!
一歩踏み出すと、足元の砂利音が凄く耳に近くて、それが新鮮であり驚きであり、なんだか俺だけ知ってる朝の秘密に、ちょっと嬉しくなってしまう。
それをじっくり楽しみつつ、足の裏でゆっくり石を踏みしめる。
別荘の屋敷林を出ると、田畑には腰を曲げた老人がおり、すでに仕事を始めていた。
愚直である。
こんな生活をもう60年、70年と続けてきたのだろう。それが仕事だと言えばそれまでだが、一つの事を続けるというのは、およそ並外れた忍耐を要するものだ。
それが思い通りにならない、自然相手の農業だと思うと尚更だと思う。
彼らの姿には畏敬を感じずにはいられない。
「ああいう人たちに支えられてるんだなぁ」
誰に言うでもなく、心裏に去来した感動を口にすると、思いがけず後ろから声がした。
「そうだな。私もあのように黙々と働く姿に頭が下がる」
はっと振り返ると、そこには、ちょっと寝癖を残した先輩がいた。
「先輩」
「別に付けてきた訳ではない。早くに起きたら玉石を踏む音が聞こえたのでな。気になって見に来たらお前が居たのだ」
「早起きなんですね」
「ふふ、普段は寝坊だ。母上にいつも怒られる」
「え、先輩が!?」
「そうだが?」
「なんていうか、先輩はもっと完璧な人かと思っていたので」
先輩はふーと軽くため息をつくと、胸の下に腕を組んだ。柔らかにふわっと持ち上がるブラウス。
「そんなことはない。謙遜ではないが、私はそれほどできた人間ではない。むしろ弱いと思う」
「そんな」
「皆、知らぬだけだ。誰かの為に軽々とハードルを越えられたら……、そう思うことしきりだ」
口許を緩めて言った言葉だったが、少なからずの失望と、伏せた瞳に僅かな責めがあった。何か苦い思いがあるのだろう。その思い先が自分なのか俺なのかは分からない。
「先輩は学園の為に、我身も顧みず頑張ってるじゃないですか」
慰めではなく、ありのままの思いを伝えたが、先輩はゆっくり首を横に振り、静かに否定した。
静かだからこそ、その否定には反論を許さぬ説得力があった。
それでもと、俺が言葉を付け足そうとすると、先輩は「政治」と名を呼び、軽く爪先立ちになって俺の耳元にふっと口を寄せる。
「いつぞや、予算編成で痩せる思いをしたと言ったろ。あれはウソだ。あの時の私はストレスでやけ食いをしてしまってな。随分、太ってしまったのだ。神門にこっぴどく怒られたよ」
にっと可愛く笑う。
「え、怒られちゃったんですか」
「この学園の生徒会長が、そんなに露骨に弱みを見せるなと」
「ひでっ」
「もっと酷いぞ。あやつ、私を見ては『葵のデブ』とか『一週間で痩せないと縁を切る』とか言うのだ」
「中学生でしょ、あいつ。厳しいなぁ」
「神門は、そういうところは達観している。それが不安でもあるが、私にとっては救いでもあった。心配してくれていると感じられるから」
先輩は後ろに手を組んで、俺に真摯な眼差しを向けた。
「私はお前の方がすごいと思う。親許を離れて一人で立派に暮らしている。辛い決断をして、ときに孤独になりながら、それでも乗り越えてここにいる」
「それは先輩だって」
ふるふると首を振る。
「私にはお膳立てをしてくれる者がいた。私に期待してくれる者も。私が歩んできた道は、そういう立てられ守られた道なのだ。それではいかんと一人で無茶をしたこともあった。だが政治はそんな事をせずとも一人で歩んでいるではないか。逞しく。強く。だから、そういうお前が眩しい」
「俺も先輩がいないと、きっとダメです。神門やヨミ先輩や他の奴等も。そんな優秀じゃないですし、強くないですし」
「そんなことはない」
そう言って、先輩はすっと俺の頭に手を伸ばした。
「素直に受け止めてくれ。政治は強い」
髪を梳くように俺を撫でる、柔らかな手。
「今も昔も、私のヒーローだ」
俺は何もしてないのに、俺の内側は先輩と比較し落ち込んだり有頂天になったり、大したことも出来ないのに、いっちょまえの生徒会長気取りで、やった気になっているだけ。
俺こそ仲間が居ないと何も出来ない。そんなの俺が一番知っている。なのに、潤んだ瞳で見られたら本気になってしまうじゃないか。
「俺は何もしてません」
「覚えているか? 子供の頃、あの石のトンネルを抜けて、政治が見せてくれた世界を。あの道が今の私に繋がっている。そして泣き虫で内気な私を慰めてくれたこと。あの日、政治が私を救ってくれたこと」
また、俺の知らない昔の話し。
「お前は突然、消えてしまったが、今も政治が私の背中を押してくれる。不安で胸が張り裂けそうなとき、私の名を呼ぶ政治の声が聞こえてくるのだ。『葵ちゃん行こう』って声が」
「なら、先輩も俺のヒーローです。いつも先輩が俺の背中を押してくれます。俺は先輩の背中を見てここまで来ました。先輩は俺のヒーローだから」
先輩が、ん? と妙な顔をしている。
「私は女だぞ」
「あっ、ヒロインか! でも違うんです。おこがましいですが、一緒に並んで戦いたい存在というか」
あたふた訂正すると、くふふと笑いを堪える先輩。
「お前のそういう所も好きだ。飾らず、ひたむきで、頑張っているところが。私はそう生きている人が好きだ。い、いや! その……今のは、い、一般論だぞ。今のは!」
「はい、ありがとうございます」
「う、うん、分かればよい」
先輩は、ごほんごほんと咳をすると、さも水田に面白いものであるように目を移した。
寝癖の髪を、今更直しながら。
「ふふ、先輩、挙動不審ですよ」
「そんなことはない! この自然の景色を目に焼き付けようとしているだけだ」
「そーですか。それは良く見ておかないとですね。それと先輩はきっと、ぽっちゃりしてても可愛らしいと思いますよ」
「ば、ば、ばかなことを言うな! 先輩だぞ! 私は」
「はいはい」
朝焼けの紫の空の下、ぽつぽつと砂利の路を歩むのが心地よくて、無駄に遠回りして歩いた。
何処までも何処までも二人で歩きたい。この生まれ変わった空気のような、この気持ちでずっと。二人で。
「もし神門や水分、俺といることが先輩の救いになるなら、俺はずっと先輩の横にいます」
「ああ、ありがとう。叶うなら、いつまでも共に」
「こっちこそ、いつまでもあなたの横にいさせて下さい」
朝日を浴びた先輩の目に光るものがあった、それを見せまいとしてか、ふっと斜め下を向く。
「バカ、それでは求婚ではないか」
「あっ、いやっ!」
俺達が別荘に戻った頃には、既に皆が起きていて、水分が神門と朝食の準備をしていた。
前も思ったけど、二人とも華奢だから姉妹? 兄妹? とにかく同じ種族の生き物に見える。
「政治、葵、お帰り。朝ごはんできてるよ」
くるっとショートボブの髪を翻して肩越しに振り向く。
やめて、神門! そのエプロン姿! 刺激的すぎる!
はぁはぁ、お前ヤバイよ。神門との新婚生活、想像しちゃったじゃないか。
その恐ろしく似合う姿の向こうでは、大江戸が呑気に新聞を見ながらコーヒーを飲んでる。お父さんですか? あなたココの家の大黒柱のつもり? 生意気で気に入らないわー。
新田原は、俺が先輩と出かけた事に甚くご立腹のようで、居間につくなりキャンキャン吠えていた。聞かないもんね。何を言っても。寝てたお前が悪いんだもんね。
そして、ヨミ先輩は……。難しい顔をしてお腹をさすっていた。
「ヨミ先輩、お腹痛いんですか?」
「うう……瑞穂。胸やけする。食欲ない。気持ち悪い。お腹がまだ引っ込まない」
一気にご不満を並べ立てる。
「そんなに競って食べるからです。ヨミ先輩は女の子なんだから。先輩に聞きましたよ。俺達と張り合って食べ過ぎたって」
「……」
への字ぐち。
「そんな顔されても。それと、あの、言いにくいんですけど、そのパジャマ。上から見えるんです。胸元が。凄く」
はっと自分の胸を見て、合わせをがばっと寄せるヨミ先輩。みるみる真っ赤に。
お腹をさする前屈みの姿勢だと、ほとんど下着まで見えるのだ。
「う、う、う、バカ瑞穂!」
「いやバカって、見せてるのヨミ先輩だし」
「うわ~ん! 女心を弄びやがって~」
本当にうわ~んと言って、自分の部屋に駆けていってしまった。
「あら、ヨミさんどうしたの?」
「油断してパジャマで居間に来ていたのだ」と、先輩。
「あらそう」
あらそうって水分さん。他人事ですね。
「お前らも何で言ってやらないんだよ。大江戸」
「言えるわけなかろう。だから新聞を読んでいたのだ」
「新田原」
「あ? 何だ? 気づかなかったな。そんなことは」
こいつの目は先輩以外の物が見えないらしい。
「ヨミの家は女三姉妹だからな、うっかり普段が出たのだろう」
「まぁまぁ、大変ですわね。みなさん卵はスクランブル? サニーサイドアップ?」
「水分、おまえヨミ先輩の失態に興味ねーだろ」
「そんなことないわよ。ベーコンも焼きます?」
ぜってーねーな。コイツ。
そうこうしているうちに、不機嫌なヨミ先輩が着替えを終えて戻ってきた。
「おはよう……」
そして俺をみると、ちっと派手な舌打ち。
「ヨミ先輩」
「デリカシーがない」
「俺っすか?」
「もっと言い方があるだろ」
「勇気を出して伝えた俺を褒めて欲しいくらいですよ。この二人なんて見て見ぬふりですよ」
男性二人が、むっと俺を睨むが放っておく。
「見えても言わないのが優しさなんだよ」
「それじゃ、ヨミ先輩、気づかないじゃないですか」
「わかんねーかな。そっと言うとか、葵先輩から言ってもらうとかあんだろ。オレだって女なんだから」
「そうですけど」
難しい人だなぁもう。男と張り合って気持ち悪くなるまで食べて床に寝てるのに、女の子だから気を使えと言ったり。ブラ紐出してんのに、ちょっと胸の谷間が見えたくらいで怒ったり。
「政治、お前が悪い。謝っておけ」
ソファの隣に座る先輩が小声で俺に話しかける。
「いやでも」
俺も先輩の耳元で答える。
「確かに気配りが足りておらん。お前はストレートに言い過ぎる」
「でも、うわべだけ謝ってる感じになっちゃうというか」
「だが喧嘩したままも気まずいだろう」
「そうですが、謝るなら自然なタイミングで」
「そこっ!!! いちゃいちゃすんな!!!」
「俺!?」
「私か!? いや! 今だ!」
と言うと、先輩が俺の脛を蹴り上げる。
「いて! はっ! ごめんなさいっ! ヨミ先輩。以後気を付けます! ハイ!」
「あっ!? ああ、うん。いいよ。べつに分かれば」
「はい! ありがとうございますっ!」
そんな俺達を意にも介さず、水分がスリッパをパタパタと鳴らしてやってくる。
「まぁまぁ、あっという間に仲直りしたのね。はい、ヨミさんはサニーサイドアップでよかったかしら」
ほんと、どーでもいいわ。
「うん。パンはいい。まだお腹に昨日のお肉が残ってる感じだから」
「あらまぁ。胃薬とかあるかしら。葵さん」
「たしか……」
こんな騒がしい朝が毎日だったら大変だよ。俺、一人暮らしの一人っ子で良かった。