4章-6
翌日の補習は、全く頭に入らず、ただ無駄な5時間を過ごしてしまった。
追試がヤバい焦燥感に胸を痛めながら自宅のアパートの前まで来ると、あれー? 三人が木陰で並んで待ってるんですけど。
「瑞穂ーー!」
恥ずかしいくらい大声で俺の名前を呼ぶのはヨミ先輩。
あんたは子供か、少年か!
「どうしたんですか、三人とも」
「どうしたもなかろう。勉強を教えると言ったのを忘れたのか?」
「今日は、オレが教える番だぜ」
白い歯をちらっと見せて清々しく笑う。これは昨日の事は気にしてないんじゃない?
「水分は?」
「お掃除がまだよ」
ほっ! よかった、セクハラドン引きジエンドオブマイライフかと思ったけど、どうやらそうではなかったらしい。
それが不安で、頭の中、グルグルしちゃってたんだもん。
胸をなで下ろして三人を見ると、麗しき美女たちは、それぞれ何やら大きな袋を肩から引っかけているじゃないか。
「ああ、ごめんなさい。暑い中、重たい荷物があるのに待たせちゃって」
「いや大丈夫だ。先ほどまで水分の車で待っておったのだ」
「怖いガードマンとな」
ヨミ先輩は、表情も怖そうに眉間にしわを寄せ、脅し口調で俺に言う。
「ああ、赤母衣さんですか」
「何で知ってんだよ?」
そのきょとんした口調は、俺が知らないと思っていたのだろう。期待を裏切られたヨミ先輩は、今度は実に残念そうに肩を落とす。そんなヨミ先輩の感情豊かなところは、俺の心をくすぐる魅力の一つだ。
「偶然、お店で会ったんですよ。水分と一緒のときに」
「へー、あんなおっかない人と買い物かよ」
「宇加の父君が心配性でな。安全のため外出の時はいつもいるのだ」
「大変だなぁ」
「不本意ですけど」
つんと澄まして水分が答える。それのどこにヒットしたのかヨミ先輩が、悪戯な質問をする。
「じゃ、下着買う時も?」
困惑の水分。
「……不本意ですけど!」
そんなに冷や汗を浮かべるなら、答えなきゃいいのにと思うが、真面目に答えるのが彼女らしい。
「ふーん、有名人は大変だな」
「ま、まぁ、立ち話もなんですから、まずは中に」
男にはドキッとする質問をかわしつつ、三人を連れて玄関に向かう。コンクリートの照り返しが、目に焼き付いて、玄関のある横手の路地は赤母衣さんの服のように真っ暗だ。
「あの黒服は、子供の頃からいつも?」
「ええ、私が物心ついた時には父はもう議員でしたから。桐花を選んだのもそういう安全上の理由もあっての事と伺いました」
「じゃ、俺がガードマンを減らすよう理事会に進言したのは、マズかったかな」
「学校ですもの、そんな物騒な所じゃないから大丈夫よ」
「なら良かったよ」
ホントと良かった。赤母衣さんは敵にまわしたくない。
「ウチは他にも結構、素封家の子息がいるんだぜ、知ってたか?」
「ソホウカ?」
「資産家の事だ。宇加のように要人の家庭もあるが、良家も多い」
「ヨミ先輩も?」
「ウチはそんなんじゃねーよ。オレ自身、中等部からココだからな」
「お姉さんも?」
「姉ちゃんは、ずっとだよ。両親とも気位がたけーから。あたしは不出来な娘さ」
「そうか、益込家も何かとあるのだな」
「そりゃ二人もでしょ」
俺には分からない世界で納得し合う三人を見ていると、上には上なりの末には末なりの制約や期待があるのだろうと思った。つまらない家庭だったが、そういうのに自由だった俺は、実は幸運だったのかもしれない。
家に入ると三人は、申し合わせたようにテキパキと準備を始めた。
「おほん、瑞穂くん。今日のオレは手ぶらじゃない。ちゃんと早覚えノートもあるからな、ばっちりまかせろ」
「はい、ありがとうございます」
「政治! 私もある!」
「はい???」
「葵先輩。先輩は掃除担当です。今日の先生はあたしなんだから」
「うむ、わかっておるっ」
ヨミ先輩に押し切られて、すごすごと引き下がる先輩。引き下がった先では水分に、今日の段取りを説明されている。どうも家事は水分の方が得意分野のようだ。
今日の先輩と水分は私服だが、その上からエプロンをして髪を結んで準備を始めた。
水分はキュロットだろう。それにちょっとフリフリがついた白のブラウス。腕の周りにレースがついているのが水分っぽくてチャーミングだ。
先輩は、大胆なハーフパンツだ。これは想像がついた。昨日、ヨミ先輩が足を出していたから対抗心を燃やしたもだろう。
上は、ボーダーのシャツにベスト? ボレロ? みたいのを羽織っている。先輩は水分と比べると肩幅があるので、こういう活動的に見えるコーディネイトは良く似合うと思った。でもエプロンで見えないけど。
「私は、お台所を掃除します。葵さんは奥の部屋からお掃除をお願いします」
「分かった」
「手順はわかりますか?」
「宇加、バカにするな。それほど甘やかされてはおらん」
「そうかしら」
「宇加……」
「はいはい、お任せしますわ」
二年の年の差があるとは思えない会話だ。牛丼事件の時も思ったが二人は仲がいい。いや神門もいれると三人か。
そうだ! 神門を呼べばいいんじゃん! この自宅アウェーから脱出するにはそれしかない!!
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「それで、僕を呼んだの……」
「うん」
「僕の事、暇人だと思ったでしょ」
「うーーー、うん」
あれれ、全員が俺に白い目を向けてるんですけど。更に深まるアウェイ感。
「葵……」
神門が問い詰め口調で先輩に話しかける。
「私は、成り行きでな」
「政治を甘やかすなって言ったよね」
「いや、だが、追試はまずいだろ」
「宇加もなんで、ここにいるのさ」
「わ、私は、葵さんに無理やり……」
「宇加! 違うと思うぞ! それは」
「断れるはずなのにいるんだから、意思なんだね。キミたちの意地っ張りはよーく知ってるから」
「は、はい」
すごすごと小さく首肯。
「ヨミちゃんは、驚くに値しないけど」
「あはは、そう? 自然だった? あたしが居るのって?」
神門は「はぁー」と盛大にため息をついて、それはもう明らかに呆れているようだったが、来てしまった以上、どうにも出来ないようで諦めて俺達に付き合う事を決めたようだ。
「で、僕は何をすればいいの。掃除なんてしないよ」
「居るだけでいいから、その存在が大事なんだよ。すごーく」
「はぁ?」
「神門は政治の勉強を手伝ってくれ。益込だけでは心配だ」
「ああっ!? 葵先輩、なに言ってるんですか」
「お前の学年順位は認めるが、人に教える才は別だ。強引な性格が仇なさんとも限らん」
「いや、強引なのは葵先輩でしょ」
「志の高さは、強引とは異なるものだろう。なぁ宇加」
「葵さん、手を動かしてください。口は結構です」
「……すまぬ」
「にひひひ、葵先輩、頑張って手を動かしてくださーい」
「おのれ」小声で恨み節が聞こえる。
「ヨミちゃんもだよ、止まってるじゃない。口も手も頭も」
「へへー、そうでした、てへ」
そんなバタバタを時々織り交ぜながら、勉強と掃除が進んでいく。
もう2時間以上、ヨミ先生の授業に取り組んでいたのだが、ふと集中が切れると何かいい匂いが漂ってきた。
クツクツと何かが煮える音に俺が顔を上げると、水分も台所の鍋から顔をあげる。
「あら、集中が切れちゃった? ごめんなさい」
ふわっと微笑む。
「この匂い、何か作ってるの」
「ええ」
「でも材料なんてなかったろ。道具だって」
「昨日確認したから、用意してきたのよ」
「あの荷物! 買ってきたの? いいのに。ごめんな」
「いいわよ、気にしないで」
その会話にヨミ先輩がぴくっと動く。これは先輩も来るか! と思ったら先輩はどこに? 姿が見えないな。
「先輩は?」
「ん? 奥の部屋じゃないの? 掃除しているはずだから」
「それにしては、やけに静かだな」
気になったので、腰を上げて奥の部屋を見に行く事にした。
先輩はどうしてるかな。あの部屋にはエ○本は無いはずだから問題ないと思うけど。
「先輩、どうしました? まさか生き埋めになってないでしょうね」
窓のない四畳半の部屋から蛍光灯の明かりが漏れる。中からは、がさっとも音がしない。
「先輩?」
「ああ、政治か」
先輩は段ボールの前に正座で座わり、背中を丸めて何かを見ていた。それが寂しげでもあり。物憂げでもあり。
「どうかしましたか?」
「いや何でもない」
「ああ、引っ越しの段ボールを開けてたんですね」
「ああ、済まぬ。お前の荷物を勝手に開けて」
「いや、開けない俺が悪いんで」
先輩は箱から出した子供服を膝に置いていた。その服に視線を戻すと、愛おしそうにそっと指先で撫でて「子供服だな」とぽつりと言った。
「ええ、着れない服なのに、こんなのばっかで」
「そうだな。着れない服ばかりだ」
「親父が送った荷物がそんなのばかりで。困った父親です」
「そうだな、困った父上だ」
まるで昔話でも語るように、静かにしっとりと語る。なぜかは分からないが、先輩は母親が子供の寝顔を愛でるような潤んだ瞳をしていた。俺はそれに合わせざるを得ずトーンを落す。
「今日はもういいですよ。随分片付きましたね。納戸にしておくにはもったいないや」
「まだ、床を拭いておらん。明日やろうと思ってる」
「ふふ、もういいって言っても来るんでしょ。よろしくお願いします」
「ああ」
先輩は、手に取った黄色の子供服をそっと段ボールに戻し、丁寧にフタを閉じた。それはまるで自分の心の聖域の扉を閉めるようで、俺はそれ以上、何も聞く事が出来なくなってしまった。
『彼女の大事な何かを守ってあげたい』
だから俺もフタをする。話題を変えなくちゃ。
「先輩、水分がなんかおいしそうな物を作ってるんですよ。食べてから帰りませんか? 俺のおもてなしじゃないですけど」
「んんっ? 確かによい香りがするな。宇加め。着実にポイントを稼ぎおって」
「ポイント?」
「いや。何でもない。あやつは、小さいころから家庭的なのだ。世話好きで甲斐甲斐しい。政治はそういう女性が好きか?」
「っ! 急ですね。質問が」
くりっとした瞳が真剣に俺を見ている。
「嫌いじゃないですけど、俺はそういうのもひっくるめて、いつまでも尊敬できる人が好きです。何かに頑張ってるとか、くじけないとか、誰かのために見えないところで努力してるとか。そういうの憧れます」
「ふふふ、私もだ。私もそういう人が好きだ」
目が合って、言葉を止めて、俺達は微かに笑って想いを交し合った。何が通い合い、訪れる安堵。
「ちょっとー! いつまでも出てこないと思ったら、なにしてんのさ。二人とも」
バタバタと騒がしい人が廊下の段ボールを掻き分けてやってきたぞ。
「何もしておらん」
「葵先輩、覚えてますよね。同盟」
「反しておらんぞ」
「なんですか? 同盟って」
「政治は知らんでよい」「瑞穂は知らなくていいんだよ」
なんかこの二人、前から結託してんだよな。仲がいいんだか悪いんだか。いつか聞き出してやる。
水分が作ってくれたのは、筑前煮だった。ご飯も炊いてくれていたが、炊飯器が2合炊きだったので5人で食べるとちょっとだけ。
あと、先輩が手土産に持ってきていたのは、お重みっちりの卵焼きだった。「私もある!」と胸を叩いてたのは、これか。
にしても、以前の大きなお重がまたココに。それに卵焼きだけを入れてくるのが先輩らしい。
その先輩が、満面の笑みで「政治は好きだろう」と俺に言う。
先輩ってこんなワンコ体質だったろうか。顔が褒めて褒めてフェイスなんだよね。
水分が横目でそれを見ている。
「ありがとうございます。俺、先輩の卵焼き好きなんで、うれしいです」
「うむ、そうだと思って一杯つくってきたぞ」
もう、誉められて大満足って顔だ。
「おい、瑞穂。先輩の卵焼きってなんだよ」
「それはですね……」
「政治、それは私たちの秘密だな」
「え、えっ?」
「秘密だなっ!」
「は、はい」
水分が、また横目でそれを見て、神門と小声で話している。
身長が同じくらいの二人がは、まるで姉妹だ。時々、俺に分かるように表情を作ってサインを送るところなんかもよく似ている。
その顔を見ると、おおかた「葵さんはどうしてしまったの」「最近、ヨミちゃんと競り合ってるんだよ」「なにがあったの」「政治のせいだよ」「それは分かるけど」「困った三人だよ」みたいな事を言ってるに違いない。
と思ったら、違った。
「あのさ、政治の追試が終わったら、みんなで遊びに行かないかい?」
神門の想定外の言葉に、純粋に驚く俺達。
「皆って?」
「この五人だよ。いや男子が少ないと問題だから実と大江戸くんも連れて行こうか」
「どこに?」と、ヨミ先輩が問う。
「どこでもいいよ、山でも海でもキャンプでも」
「海っ!」と弾けるヨミ先輩。その宣言に先輩と水分が頬を赤らめている。
「んー、でも瑞穂の期待に応える水着はちょっと恥ずかしいなぁ」
ヨミ先輩、変な事言わないでっ!
「それは、違いますって。神門が誤解するでしょっ!」
「お二人はスタイルが良すぎるから、私はちょっと」
「見ないから、そんな目で見てないから俺は」
「これ、なんの空気なの?」
俺がわたわたしていると、とうぜん意地悪な神門が、ここはいじり所だと言わんばかりに興味を向ける。
「なんでもない、なんでもない。海は止めよう。そう水分の警備も大変だし、きっとご両親がOKしないから」
「ならばウチの別荘はどうだ?」と、先輩。
「とんとん拍子だけど、ちょっと待って、なんで急にそんな話になったの? 神門」
「だって、このまま毎日来られて困るでしょ」
「毎日? 補習が終わって掃除が終わったら……」
三人がうんうん俯いている。来る気ですね。補習が終わっても来る気だったんですね。
「そう言う事だから、仲良く一緒に遊んだ方がいいんだよ」
「おっしゃる通りで」
「別荘なら季節使用人もいるから大丈夫でしょ。ヨミちゃんのご家庭の方針は知らないけど」
「大丈夫!!! 家出しても行くから!」
「それはやめてくれませんか。俺が誘拐犯になっちゃうんで」
「じゃ友達と行くと言っておきます!」
何で敬語かな。
「葵はどこの別荘の事を言ってるの」
どこの別荘って。別荘が複数あるんかい!
「うーむ、岐阜か駿府かどちらかだな」
「どっちも、いいところだね。場所は葵にまかせるよ。日取りは10日後くらいにしようか、それまでに政治の追試が落ち着かなければ、政治は居残りだね」
「それは困る」「そりゃナシだろ!」先輩とヨミ先輩がハモる。この二人はやっぱり仲がいいんじゃないのか、もしかして。
「じゃ、先に押さえないとね」
「分かった。私が全力を持って政治の教育を受け持とう。身命にかえても」
「お、オレも無理やりでも、ひっぱたいても勉強させる!」
「み、神門~」
「よかったね、政治」
なに感情殺して棒読みで喋ってんの。キミのせいで俺の命が削られようとしているのに。
「さぁ、政治、覚悟するんだな」
やめて、二人とも指とか首とか鳴らさないで。女の子なんだから~~~。