3章-10
その後、試合は膠着しながらも、ヴァーレンズがヨミ先輩のヒットから、ファーボール、ヒットと繋いで1点追加。
それでなくても疲れているのに、自分で打って自分で走ってダイヤモンドを一周してしまった。
教師連合は、と言っても、もはや一人も教師は居ないのだが、ついにヨミ先輩を崩して1点を返していた。
現在7回の表。
大興奮の試合に、周りの生徒は声を潰している。俺の横にいる女の子なんかガラガラ声で、TV番組「警察24時」に出てくる飲み過ぎの風俗嬢みたいな声になっちゃってるし。
いえ。思ってるだけで言いいません。
ヨミ先輩は、トレシャツの色が変わるくらい汗ダラダラ。もう気力だけで投げているような状態だった。
スコアラーによると、ここまでに93球投げて、14奪三振。うち9三振は教師からだが、心得のある男子相手に5奪三振は立派過ぎる。
そして、この回を押さえたらヴァーレンズの勝利だ。
会場から「ヨミ、ヨミ」の声援が上がる。いやこれはもう、エキシビションなんて気楽なもんじゃない。『ザ・野球』だ。
一人目のバッターは、甘いコースに見せかけたカーブで打ち取り内野ゴロ。
守備は思ったよりも固くエラーが少ない。これが幸いだった。
二人目はファールが続く。
さすがに球速が落ちてきた。本人は全力だろうけど、体力が限界を超えているんだ。
大きな胸がこれまた大きく上下している。『じゃまでさ』と悲しい顔で俺に言った意味もよく分かる。足が遅いのもうなずけた。
男子のように筋力がつかないから、投げ込んでもフォームを研究しても球速は120キロ台が限界だ。自分のイメージ通りに投げられない、走れないなんて卑下して言ってた事があったけど、だからこそ、今回偶然にも男子との対戦になったのは、彼女にとって願ってもないチャンスだったと思う。
ここで限界まで、いや限界を超えてやらないと絶対後悔する。そう魂が叫んでいる力投だ。
その二人目は粘っていた。キャッチャーの巧みなリードと緩急織り交ぜた投球に、なかなか合わせられないようだが、むしろ逆だろう。
球速が落ちたことで、ファールに出来るようになったのだ。なぜなら、さっきまでコイツは容易に打ち取れていた打者なのだから。
「タイム!」
キャッチャーの子がタイムを要求して、マウンドに駆け寄る。
マスクを跳ね上げ声をかけようとすると、ヨミ先輩は吸い込まれるように、その子にぱふっと倒れ込んだ。
「きゃぁ」
辺りから小さな悲鳴が上がる。
あわててファーストの子が、ヨミ先輩の肩を抱きかかえた。
それに気丈に笑顔で答えるヨミ先輩。
マウンドを中心に、より一層小さくなったナインの輪は、まるでヨミ先輩に力を分け与える儀式のようだ。
ヨミ先輩は、ベンチの選手が持ってきた、ボトルの水を頭からかぶると、一息ついてドリンクに軽く口をつけた。
俺達は、その一挙手一投足を見守るように目で追った。
その間も、キャッチャーの子がヨミ先輩に何か力説しているが、ここまでは聞こえない。
その子の口が止まる。
ほんの数秒、二人は強く見つめ合い、そして同時に頷くと、キャッチャーの子はヨミ先輩を正面からぎゅっと抱きしめ、後ろ手で頭を撫でた。
恥ずかしながらこのとき初めて、解説を聞いてキャッチャーの子の名前を知った。
松方千恵。
部活動報告会で馬術部の結城さんを励ましてた、ちーちゃんだ。そうだ、ソフト部の副部長だった。
ちーちゃんは、ヨミ先輩に何をしたのか分からないが、ヨミ先輩はまた闘志漲る表情を浮かべると、再開した一投目では、持てる力を振り絞った一球を投げた。
本当に振り絞っていたから、投げた瞬間「あーっ」という声が聞こえた。
カーブ!
ボールは鋭く切り込んで、イケると思い強振したバッターを、見事三振に打ち取った。
どわっと、どよめく会場。
もう、感動しかない。
これが最後になるかも知れないバッターが立つ。
2番バッター。丸坊主の屈強な体躯の男。要所で活躍している四番と比肩する強者だ。こいつには何度か打たれ、その度、ピンチになっていた。
気が付けば、ラッパの応援が止まっていた。太鼓の音もない。
いつ止まったか覚えてないが、会場中が二人の勝負を見守っていた。
ヨミ先輩がモーションに入る。「ふんっ」という声とともにボールが放たれる。
「ストライク!」
審判の声がはっきり聞こえる。そして「わいわい」と客席の声。
ちーちゃんから返球がくる。それを受けてマウンドを馴らすヨミ先輩。また会場が静かになっていく。
肩で息をするヨミ先輩の足元がちょっとフラついている。その肩が止まって、また大きく振りかぶり第二球を投げた。
「ボール」
観客から「あー」のトーンの落ちた声がする。坊主くんの応援がないのが残念だが、ここはそういう役どころだと思って欲しい。
第三球。ちょっと汗でボールが滑ったか、大きく外れてボールになった。
ヨミ先輩にしては珍しいミスだ。
「ヨミ、大丈夫だ!」ちーちゃんの声がする。
ヨミ先輩が手を上げて答える。丹念にショートパンツで手を拭いて、ロジンバッグを握る。
足元を白い煙がゆっくり流れて、グラウンドに消えた。
もう一球。
「ボール!」
ボールカウントが先行している。3ボール1ストライク。
「ヨミ! 集中しろ!」ちーちゃんの容赦ない激が飛ぶ。
どこからともなく、「ヨミ、ヨミ」のコールが起こる。それがだんだん広がり、3塁側からも1塁側からも木霊する。
色んな方向から聞こえるから、本当に木霊のようだ。
ヨミ先輩は3塁側からぐるっとその様子を見渡して、最後に俺と一瞬だけ目を合わせて。
そして目を瞑った。
そのまま自分の名前を呼ぶコールを三弁聞いて、カッと目を見開くと、なぜかセットポジションから、一球を放った。
「んなーーっ」
歯を食いしばって投げたストレート。速度は121キロをマークしていた。ここにきてこの力を出すか。この人は!
だが、坊主はそれを打ち返す!
鈍った音を奏でて、ボールは高くライトに上がる。
あの腕が全力でバット振って当てたボールだ。高さもさることながら距離も出てる。
「ああっ」と声を上げる女子生徒。顔を覆う子もいる。
スマホの解説が叫ぶ。
「ファールか! 入るか! それともフライか! 分からない。ここからでは分からない!!!」
ライトが走る、走る、走る。フェンスギリギリまで走る。ボールは見えている。ラインはギリギリのところだ。
ヨミ先輩は、もうボールを目で追う気力もないようだった。全てを守備陣に任せている。
ちーちゃんはマスクを取って、立ち上がり行方を追っていた。
打った坊主も、1塁線上で止まっている。
ライトは壁にぴったり張り付いていた。そしてグローブを高々と上げ……。
塁審の腕は、きっかり90度に曲がっていた。
「アウト!!! アウトだ!!! ゲームセット!!! 2-1でヴァーレンズの勝利!!!!」
同時にスマホから、司会者の声だけが聞こえてきた。
観客もナインも、誰も声を発してなかったのだ。
そして、割れんばかりの大歓声がグラウンドじゅうを吹き荒れた。
ヨミ先輩は!?
ヨミ先輩は、そのままバタンと仰向けになり、マウンドに倒れた。
大の字に寝っ転がって空を見ている。
「きゃーー」と歓声を発しながらチームメンバーがわらわらとマウンドに集まってきた。姿を見なかった米星監督も。
客席には泣いている女の子がたくさんいた。なんと男子でも涙ぐんでいるヤツがいた。かくいう俺も不覚にも涙がぽろりと落ちてしまった。
「くそ、ヨミ先輩ごときに」
悪態をついたが、感動したのは本当のことだ。
ヨミ先輩は、みんなに抱えられながらグラウンドに並び、自分達のチームの倍の人数がいる対戦相手に頭を下げると、そのまま救護テントに運ばれていった。
「別にいいよ」と恥ずかしそうに言ってたが、休んだ方がいいということで、大事をとったようだ。
ヒーローインタビューは、そこで行われるらしい。
連れられていくヨミ先輩の後ろを、民族大移動のように、にわかファンが列をなす。
報道新聞部は、すっかりなりきって「放送席、放送席。これからヒーローインタビューです」とまくし立てている。
グラウンドの大型モニタにも中継が映った。
妹の大活躍を取材するのは、益込姉も照れるだろうと思っていたら、そこは線引きがあるらしい。
副部長の真面目そうな男子が、これまた生真面目な調子でインタビューを始める。
「すごい投球でした」
「ええ、ありがとうございます。久しぶりなので本気なっちゃって」
「途中で対戦相手が全員、男子生徒になったのには驚きましたね」
「そうですね。ちょっと。でも、自分の力がどこまで通用するか知りたかったのでよかったです」
スポーツ報道のインタビューってどうして、質問が質問になってないんだろう。何で答えを決めて聞いちゃうんだろう。なんて不思議な日本文化に頭をかしげながら、テレテレに答えるヨミ先輩が、なんとも愛しい。
普段は自分が質問する立場なのに、逆にはてんで慣れてないんだから。
「ウチの部長が、お姉さんなんですよね」
「はい、私が野球を好きなのは知ってましたが、皆には言わなかったようです。わたしも言えなかったですし」
「今のお気持ちは」
「勝てて良かったです。チームのみんなに本当に、ありがとうって言いたいっ」
あわわ、泣いちゃったよ。
傍らで温かく見守っていた、ちーちゃんがハンカチを渡してくれる。
この子、ほんといい子だわ。
「何かファンの方に一言」
「応援してくれてありがとう。すごく力をもらって、おかげで最後まで投げ切れました! それと瑞穂会長、今日の試合をセッティングしてくれてありがとう! あたしやっぱり野球好きだよ!」
運営テントに戻ってスマホを見ていた俺は、椅子から転げ落ちそうになった。
放送で俺のことを個人的に言うなよ!
一緒にミーティングしていた、生徒会と体育委員の視線が一斉に集まる。
女子戦があまりに盛り上がってしまい、その反動で男子戦が盛り下がってしまったらどうしようと相談していたのだが、それが吹っ飛んだ感じだ。
「会長~、個人的な嗜好で仕込みましたね」
体育委員長がチラッと俺を見て、わずかに軽蔑の眼差しを送る。
「いや、違うって」
「だってぇ~、途中でマウンドに駆け寄ったりしてませんでしたか。ねぇ」
ああ、女子の委員からも冷たい目が。
「あれはさ、誰もジャージ取りに来ないからだよ」
「ホントですか、まぁいいですケド~」
「そ、そ、そ、誤解だって」
「あっ! 罰ゲームのとき、ま、まって言っての。あれ益込先輩のことだったんだ!」
「まじっ! 最低~、好きな子のために球技大会つかったんだぁ」
「それはダメっしょ」
違う女子が思い付きを口走ると、憶測が事実のように周囲に伝搬していく。
新田原がそれみた事かと憐憫の想いを言外に伝えてきた。にゃろ! その顔は『バカめ』と言ってる顔だな!
「違うよ。盛り上げるためだって」
「信じらんない」
「だって教師にバスケとかバレーとかできないでしょ、だったら野球かなってなったんだよ。本当だって」
「言い訳~。いいですよ、あとでヨミちゃんに聞きますから」
「ああ、いいよ。やましい事ないから。それより男子の方、考えようよ。ね、ね、ね」
「うそ臭せっ」
「誤魔化してるしー」
そんな変な取引とかしてないからヨミ先輩に聞かれても大丈夫だけど、キャッチボールしてた事とか変に勘ぐられたくないよ。一応、後でヨミ先輩に言っておこう。
男子エキシビションは、予想通り低調に終わった。
女子が感動的すぎんだよ。あんな極限の死闘を見せられた後で、マジ対決って言われたって、なんの説得力もないって。
しかも本人たちも、気持ちで負けちゃってるんだもん。
もう打つ手なし。
俺らにできる事は、もともと9回まで予定されてた試合を、女子戦が伸びたので7回に短縮します、として被害を最小に抑える事だけ。
あとは、何とか吹部に頑張ってもらって、音だけでも盛り上げようとなった。
報道新聞部も、もう終わった気になって翌日の紙面の校正を始めてるらしいし。
なんとなく蛇足的な男子エキシビションの終了を持って、俺達の球技大会は幕を閉じた。
学校長の慰労の言葉をもらって、生徒はなだれ解散してく。
終了を告げる蛍の光が流れ、祭りの後の寂寥感を大いに助長していた。