2章-35
「辞めたよ」
「え、野球部じゃなかったんですか? ああ、シニアリーグに集中して?」
「野球、辞めたんだ」
「辞めた? どこか怪我でもしたんですか?」
俺が言葉と共に投げたボールは、締りの悪い音を発してヨミ先輩のグローブに納まる。
そして、それっきりボールは返ってこなかった。
「違う。もう、無理だったから」
「無理? なにが無理だったんですか」
「……」
「もったいない、野球が好きで、男子より上手いのに」
「そんなの、しょせん女の中でだよ」
「好きなんだから、また、やればいいじゃないですか。なんなら、桐花で女子野球部とか作って」
「お前には、わかんねーよ」
急にお前扱いで不機嫌に言うので、俺も少々、ムッとして、つられて不機嫌に「なにが」と答える。
ヨミ先輩は、ムラっけが多いので、気分が山の天気のようにコロコロ変わる。それに振り回されるのはいつも俺なのだが、それが魅力だから悪いとも言えない。それに、またコロッとご機嫌になる。だから、今回もいまつもの気まぐれ。
「わかんねーよ! 男のお前にはっ」
少し様子が変なのは分かったが、そんないわれのない理由で怒られてはたまらないと、つい悪態には悪態で「男は関係ないでしょ!」と言ってしまった。
だが、ヨミ先輩はそれに過敏に反応した。
「ずるいって言ってんだよ!!! 男は!!!」
キンキンと頭に響く大声。いつもの気まぐれじゃない。
『男』を強調する怒りに、鈍感な俺も、やっと彼女のトラウマに触れていることが分かった。
油断していたと思う。平然と野球の事を話していたし、彼女は、そんなことを気にする人じゃないと思い込んでいたから。
大好きな野球を辞めたんだ。それほどの事があって。
どうしたらいいか分からないが、とりあえずグローブをその場に放り投げ、ヨミ先輩の元に駆け寄る。
「どうしたんですか、ヨミ先輩」と声を掛けるが、なんてバカな問いかけだろう。何かあったのは間違いない。だから、彼女は殻に閉じこもったのに。
だが、他に言葉を知らなかった。
俺が手を伸ばせ届くところまで来ても、彼女は近づく俺には意識も向けず、ただ力を込めてグローブとボールを見つめていた。
「俺で良ければ話してください」
「……」
「ヨミ先輩」
ヨミ先輩を振り向かせようと、肩に手をかけそうになるが、「男が!」と言った言葉を思い出して、出した手を引っ込める。
もしかして、関係があるかもしれない。
俺は棒立ちのまま、ヨミ先輩が口を開くのを待った。このまま何も言わず帰ってしまうのではないかと不安になるが、それを自分の中で打ち消し、彼女は必ず俺を見てくれると念じて待つ。そう思うと、自然に自分の表情が柔らかくなると思えたから。
ヨミ先輩は、暫く躊躇ったが、やがて天を仰ぎみてポツリと重い口を開いた。
「オレさ、野球が好きだから。だれより練習したんだ。だれより。どの男子より。真剣に」
「楽しかった。監督にしごかれるのも。出来なかったことが出来るようになって、んで試合に勝ってチームのやつらと大喜びして」
「クラブに迎えに来た親父と、手繋いで夕焼けの土手を歩いて」
体の重さに身を預けて、ぶらっと俺の周りを歩く。
「でもさ、女なんだよ。頑張って一緒なのはガキの頃だけさ。あつら、どんどんデカくなる。力も強くなって足も速くなって」
昔を思い出すというよりは、まるでそこにリーグの子達がいるように、その姿をありありと見るように話す。
「そんな頑張らねー、努力もしねーのに、出来るようになっていくんだ。俺が出来ないことなのに」
ああ、そうか。体が……。
「悔しくて、もっと練習した。朝走り込んで筋トレもやって。夜は真っ暗になるまでさ」
「ええ」
「でも、届かねーんだよ」
悄然と言う声が胸に迫る。
「そしたらさ、一緒にやってた、オレより下手クソな奴が、『女のくせに野球なんかやるんじゃねーよって』言うんだ。その頃は、あたしの方がセンスあんのに、体力でそいつに負けてたよ。もうダメだと思った」
「けど、諦められなくて。それでも頑張って……」
俺が代わりに言葉をつなげると、ヨミ先輩は悲壮な表情を浮かべて無言で頷く。
努力してもどうにもならない事がある。好きだから、より一層辛い。
ふと先輩が、学園の為に理事会と戦って罷免されたことが頭をよぎった。関係ないことだが、二人は同じ世界に居る気がする。
「でさ、ある日、バックネット裏で聞いちゃったんだ。『あいつ、おっぱい大きくなったよな』って。皆で笑って話してるの」
「……」
「次の日、辞めたよ」
辛かったと思う。皆と同じだと思っていたのは、自分だけだったと知った瞬間。
誰より野球が好きで、誰より頑張って、だから裏切られた時のダメージも大きかったと思う。
ヨミ先輩は真剣だから、人より傷ついて受け止めきれなかったのかもしれない。
「あたしさ結構、胸あるじゃん。ねーちゃん程じゃねーけど。じゃまでさ。走るのもどんどん遅くなってたから、もう潮時だったんだと思う」
「それで……」
「それっきりさ、女子プロ野球もあったけど、そんな勇気なかったし。でもさ、胸に穴があいちゃって、なんも手につかなくて。でも野球から離れられなくて、それで野球のマネージャーやったり部員集めしたりして、野球って楽しいよって伝えてたら、皆にヨミちゃん説明が上手いねとか、乗せるの上手だねなんて言われちゃって、それで新聞だよ。案外、野球より才能あったんじゃないかな。いまやってることって」
泣きそうな顔で屈託ない風を装って笑って話すのが、いっそう痛い。
「ヨミ先輩……、そんな、自分の事なのに笑わないで。そんな苦しいのに笑うなんて」
「瑞穂」
「あーもう、俺、どうしたらいいっすか。俺も一緒にヨミ先輩と……いや、そうじゃなくて」
ダメだ、俺の方が苦しくて悲壮な気持ちになってきた。これじゃ励ますどころかだよ。
「余計なお節介かもしんないけど、ヨミ先輩のために俺が出来ることないですか。何でも! 俺でよければ。男だからヨミ先輩の気持ちは分からないけど、そんな辛い事をそんな顔で話しちゃダメです。それにヤメちゃダメです。野球。俺がヤメさせません。いや、そのまえにそのリーグの奴らですよ! 一所懸命努力してるのに腹立つ! そいつら今どうしてるんですか。この学園にいるんですか? 野球やってなかったらぶっ飛ばす。ああ、でもヨミ先輩は野球やってないけど別です」
俺が挙動不審にも一人でギャーギャー騒いでいると、それを見ていたヨミ先輩がプっと笑う。
「瑞穂、なんて顔してんだよ、お前が苦しまなくていいんだよ」
「でも、何かしたいじゃないですか!」
ヨミ先輩は肩の力を抜いて、俺の胸にポンと手を置いて言った。
「あたしさ、なんかわかっちゃった。一所懸命やってるのが好きなんだと思う。大変な中、もがいて、それでも夢を追って頑張ってる人って好きなんだって。でも、あたしがそれを捨てちゃった。だから」
「だから?」
「だから苦しかったんだと思うし、瑞穂はいいんだと思う」
「えっ、俺!?」
なんか、変なこと言った。この人!
「俺がいいんですか?」
「バカ、恥ずかしい事、二度、聞くな!」
先輩は顔を隠すためか後ろを振り向いて、意味もないのに背伸びをして「あーあ」と、さも自分が退屈な話をしたと装った。
その明らか過ぎる態度に、どう対応していいか狼狽えていると、ヨミ先輩は。また変な事を言い始めた。
「おい! バカ瑞穂。おまえキャッチャーできるか」
「はっ? はい? できますけど」
「一球、全力で投げさせろ」
「ちょっ! 全力って、そんな速いのは取れませんって」
「大丈夫だ、構えたところに投げる! いいから向こうに行ってしゃがめ!」
「ちょっと!!」
「5秒待つ。1、2」
「分かりました! 分かりましたから、もう!」
俺の言ってる何かしたいっていうのは、キャッチャーをやることじゃないんだけど。
そう思いながら、走って元の場所に戻り、しゃがんでグローブを構えると、ヨミ先輩は満足そうに頷き、ベストを脱いで地面を足で馴らし始めた。
目線が下がると、ヨミ先輩の溌剌とした良くしまったふくらはぎが見える。
きっとまだ野球をやってるんだ。もう9人でやることはないけど、一人で練習しているに違いない。
「いくぞ!」
「はいっ!」
先輩は大きく振りかぶって左の肘を上げ、ぐっと胸を張った。
綺麗なフォームだ。
あ、でもその短いスカートで!? ちょ、ちょっと太もも! 丸見え! 見えるって見えるってパンツ!
「先輩、見えますっ! 見えてますって!!! パンツーーー!!!!!!!」
と言った時には時遅し、何か黒いものを太ももの上に捉えたと同時に、俺はブラックアウトしてしまった。
不覚……。