2章-32
水分は、両親にこの事を報告しなければならないと言って、迎えの車で帰宅した。
俺達は、水分が呼び出した黒塗りの車が、見えなくなるまで頭を下げて見送った。
いつもは、水分の方が先輩に頭を下げている気がするが、今日の彼女は後部座席にちんまり座り、正面を見据えたまま、最後まで俺達と目をわせることはなかった。
ムムム、ご立腹かもしれない。
「水分、怒ってますよね」
「怒っておらんよ」
「本当ですか?」
「ああ、本当に怒るときは宇加は笑っている。だが目が怖いのだ。私も背筋が凍る思いをする」
「こわっ」
「態度こそあの様だが、宇加ももう分かっていたのだ」
「そうだといいんですけど」
「余りに急だったから気持ちの整理がつかなかったのだろう。なに、宇加は強い。明日には笑っているだろう。さて我々も生徒会室へ行こう。お前には止められたが、今日くらいは私もよいだろう?」
「ええ」
初めて先輩に連れられて入った、森の小道を言葉無く進む。あの時はキリキリとスカートを揺らせて歩く先輩のお尻を追いかけてここに来た。
今は力なく、まさにトボトボという擬音がふさわしい足取りで俺達は歩く。
ゆっくり、ゆっくりと。
意外に遠い生徒会棟に向けて。
生徒会棟の前には、新田原、大江戸、そして神門が出迎えて待っていてくれていた。
意外~。
「遅いぞ! 瑞……。葵様!!!」
相変わらず優しさの欠片もない物言いと、おかしい程、先輩に謙虚な新田原の美声が響く。
「俺が誘拐でもされたと思わなかったのかよ。心配くらいしろ!」
変な勘繰りをされないために、あえてふざけて答えてやる。
「学園内で誘拐などありえん」
お茶目を言ったのに、正論突破とは……大江戸らしいツッコミ。けど、こういう気持ちのときは、寧ろそんな応対の方が安心する。
「政治、おかえり」
一方、神門は優しい。同じ修羅場を越えた仲間だもんねー、みーちゃんっっっ。
なんて一度も言ったことのない愛称を喉の奥で言ってみたり。
「もう、みんなに話したのか?」
「まだだよ、政治を待ってた」
それでじらされて俺を待ってたのか。別に心配してたワケじゃねーのか。ちぇっ。
「わたしには、おかえりはないのか? 神門」
納まりのよい腰に両手を当てて、先輩が口許を緩める。
「なに? 改まって。いつも言ってるじゃない」
神門は前屈みに先輩の顔をまじまじとみると、何か閃いたようにトーンを変え、控えめな笑顔を先輩に向けた。
「うん、たまにはちゃんと言ってあげるよ。葵もお帰り。お疲れさま」
「ああ、ありがとう。お前にはいつも感謝している。今まで、ありがとう」
「なんだか、気持ち悪いなぁ」
「たまには、ちゃんと礼を言いたいのだ。そうでなければ恵まれた環境への感謝を忘れてしまう」
なんかヤバいぞ。先輩が死亡フラグっぽい事を言い始めたので、ハイハイと無理やり話を打ちきる。これから理事会の一部始終を話さなきゃいけないので、先にお陀仏されちゃ困る。
その前に落ち着けと、新田原がお茶を淹れてくれた。
こいつはいつまで経っても俺をリスペクトしないので、お茶は必ず先輩から出す。
すると先輩が、「新田原、政治から出せ」と言い、すると新田原が「葵様にお仕えしておりますので」と答えるという、お決まりの伝統芸が毎回繰り広げられるのだが、なんと、今日は俺から先にお茶が置かれているではないか!
「ど、どうした。理事会からワイロでも貰ったか? それとも道祖神に供えられた饅頭でも拾い食いしたか!?」
「食うか! 何を動揺している」
「相変わらず口は悪いが、なぜ俺から」
「大役への慰労だ」
「若干上から目線を感じるが、俺はどうしたらいい。黙って受け取るべきか、それとも謙って拝んだらいいか?」
「だから、何を動揺しいるんだ! 生徒会長として堂々としろっ」
「ツンデレに慣れていないので、つい卑屈になってしまうのだよ」
先輩がクスクス笑う。
「政治、胸を張ればよい。政治は、余人には出来ぬことをしているのだから」
「いやぁ、それは皆のおかげであって俺は。寧ろ足を引っ張ってる方ですし」
「それはよく分かっているが、曲りなりにも瑞穂の旗のもとに集まっているんだ。組織のトップがへたれではこっちもたまらない。まぁ慣れるんだな」
なんという尊敬の欠片もない諌言だろう。もはや大江戸には怒る気にもなれない。
「お前ねぇ、普段は学生社長かもしんないけど、ここでは俺がトップなの。言い方ってものがあるでしょ」
大江戸はわずかに首を傾げると、ふむと唸ってメガネを人差し指でツイと上げた。
「……そうだな。もっともな指摘だ。すまなかった」
「なんか怖っ。その優しさと素直さが。みんな最後に俺を食ったりしないよね。宮沢賢治のアレみたいに」
俺が椅子から身を引いて大げさに慄いてみせると、大江戸は珍しく悪戯な口調で俺に言った。
「そうだな。むしろ『きつねのおきゃくさま』を期待しているが」
「なにそれ?」
「政治は知らぬか。私は子供のころ母上に読んでもらったことがあるぞ。たしか、きつねがひよこを助けて、そのひよこを太らせてから食べようとする昔話だ。最後はキツネがひよこを守ってオオカミと戦うのだ」
「嫌な予感がするけど、キツネはどうなるの?」
「死ぬ」
「やっぱり!!!」
「大江戸! おまえ俺を人柱にしようとしてるな!」
「そんな迷信じみた事をするか! 利用するなら金のために労働させる」
「ダメだ! こいつキツネじゃねー。蛇だ、白蛇だ」
「瑞穂、いいから理事会の話をしろ! そのためにこの時間まで待ってるんだ!」
ちょっと無理矢理オドけていたのだが、一人、真面目ちゃんの新田原が怒り始めたので、ここでお開きにして本題に入る事にした。
お前は知らないだろうけど、こんな話でも挟まなきゃ、俺も先輩も冷静に話せねーんだよ。
「まぁ怒るなって。遊び心だよ。遊び心」
「何が遊び心だ。高校生にもなってお前は子供か! まさか理事会との交渉が上手く行かなかったから誤魔化そうとしてるんじゃないだろうな」
「するか! それこそ子供だ。結論から言うと、俺達の主張は全部、受け入れられたよ。開始時期はどうなるか分からないが、削減案も動き始める。部費ももぎ取った。文句なしだ」
「本当か!?」
素っ頓狂な新田原の声。
「本当だよ」神門が付け加える。
「資料はどうなんだ」
大江戸が冷静に聞きかえす。
「資料も出すそうだ、ちょっと待てと言われたがな」
「そうか。それまでは待ちだな」
「そうだな、大江戸には『部活予算および申請番号報告書』を作ってもらうが、それまでは財務分析の方はストップだ」
「報告書は今日中に作ろう。エクセルのマクロを組んでおいた。20分もあれば印刷は完了する」
大江戸は俺の分からない事を自慢げに語って、早速、ノートパソコンの電源を入れる。
「政治には待てと言われたが、我々は引き続き資料は探そうと思う。必ずしも正しい資料が出るとも限らん」
「よろしくお願いします。先輩、頼りにしています」
俺がそういうと先輩は、とても嬉しそうな顔をして「まかせろ!」力強く自分の胸を叩いた。
大丈夫だ、死亡フラグは立ってない。そして解任の事は、まったく顔に出していなかった。
強い。この人は強いと思う。俺が凹んでしまう事をスッと胸の奥に仕舞ってしまえる。可哀そうな程、強い人。
「新田原は、風紀の強化と球技大会の進行を頼む」
「分かっている。大江戸にも手伝ってもらっているが、去年はどうやったか分からん事も多いのだ。葵様も全てを知っている訳ではないからな」
「そうだな、もし必要ならお前が一緒に仕事をしたい奴を採用してもいい」
「そうだな……」
言葉にはしなかったが、顔に葵様と書いていた。それは俺も同じだよ。いつまでも一緒にやりたいと思うのはさ。