2章-15
神門は益込さんがカメラに手をかけるのを横目に捉えると、横から俺の胸に体を預けてきた。俺はその重みを受け止めきれず、そのまま草むらに倒れ込む。
そして……。
『え、え、えーーー!』
声を出そうにも声が出ない!
なぜって、俺の口は神門に唇で塞がれているのだから。
突然の事に、ただ硬直し下草を固く握る。
目だけがパチクリしちゃって。
乙女ですか? 俺、乙女でしたか!? 逆でしょう! その役はそっちでしょう。
『えーーーー!』
神門は長いグレーの睫毛を臥している。やわらかく暖かな唇の感覚が、焼きマシュマロに似てるかもなんて思うのは、頭の冷静な部分が全部ふっとんでいるからだ。
ああ、甘い香りがする。昼に食ってたプリンのカラメルかな~。
ふっとんでます。俺の理性。カムバック、ボーイ!!!
けっこう長い時間、神門に唇を奪われていたと思う。余りの衝撃に益込さんがシャッターを切ったのかも分からない。
なすがまま……
神門の唇がそっと離れる。僅かに口先が触れる瞬間が妙に敏感で、艶めかしさを感じてしまった。
ヤバすぎる。ヤバすぎるって俺。
ややあって銀髪の隙間から益込さんが見えた。彼女は顔を真っ赤にしてカメラを口元に置いたまま、ぽーと立っている。ゆっくりと手が降りてくると、その向こうにはポカンと開いた口が。まるで先輩がぶら下げていた、チンあなごのキーホルダーみたいに。
「写真は撮った?」
神門が俺の肩を腕枕にして、益込さんの方を振り返りかえる。その神門の顔も紅潮していた。
「な、なんだよ、これ……」
「この写真は僕の最大のコンプレックスだよ。知っていると思うけど僕にはこういう噂が常にあるんだ。自分でも自分の事を女の子っぽいと思うもん」
「……」
「この写真はキミが好きに使っていいよ。これがあればいつでも僕らを落とすことができる。学園のサイトに流してもいいし、それこそ報道新聞部に売ってもいい」
赤くなりながらも、益込さんは無言で俺たちを見ている。
「もう一度、取引をしよう。生徒会の事を掛け値なく伝える新聞を作ってほしい。けど記事はヨミちゃんの自由だ」
「あたしも確認させてくれ。しゅ、趣味のことは」
最後は声も小さく、もごもごと言葉に詰まりながら当然なる心配をする。
「ご心配なく、取引が公正である限り公開はしないよ。僕らは汚い事をしてキミに新聞部を作らせた。その意味も分かるよね。それと、そこの本はキミのロッカーや鞄から取ってきたものじゃない」
ほっと胸をなでおろす益込さん。やっと落ち着きを取り戻したようだ。
「もしこれが大々的に出るときは。分かるよね。僕らの取引」
「分かっている。けど素直にお前に従うのは納得できない」
「途中で諦めていいの? 今度も」
「くっ……うるせーな」
益込さんは顔を顰めると口の中で「ちっ」と舌打ちをした。
そんな益込さんの仕草を追いながら、やっと俺も衝撃から醒めて頭が回り始めてきた。マジ真っ白ナッタヨ~。
蚊帳の外の俺には二人の会話はサッパリだったが、諦めるという言葉に反応する益込さんをみると、神門はBL以外にも彼女の弱みを握っており、痛いところを強引に暴いて無理矢理、取引に持ち込んだのは間違いなかった。
唇に集中していた意識が、周りに広がるにつれて益込さんが受けたショックも感じられるようになってきた。
そうだ。益込さんは女の子なんだ。別にBLは隠すべきだと俺は思わないが、本人は知られたく嗜好だったのだろう。それを暴かれ辱しめられたのだ。
そりゃ、相当のダメージだったに違いない!
『謝らなきゃ』
咄嗟の衝動に、神門を押しのけて立ち上がり、指先をズボンの織り目に揃えて頭を下げる。こんな事をしても謝罪にはならないと思うが、俺にはそれしかできなかった。
「益込さん! 本当に済まなかった。ごめんなさい。こんなやり方は間違っていると思っている。神門を止められなかったのは全て俺が悪い。俺は学園の問題に全力で向き合おうと思っている。だけど、だからといって手段を選ばず誰かを犠牲にするつもりは本当になかったんだ。もし腹が立っているなら、俺を思いっきり殴ってもいい。けど、この取引は真剣に検討してくれないか」
「腹、立ってるに決まってんだろ。あんな事されてニコニコできるほど、あたしはお人好しじゃない」
ムッとした口調で言いながら一歩前に。
「じゃ遠慮なく行かせてもらうぜ!」
ふわっと広がるショートヘアの残像が見えた瞬間、ドスっと体幹に響く振動がやってきた。
「ごうぇっ」
ビンタじゃない!? しかも思わず声が出るほどいいパンチ。
「ふにゃふにゃの腹だな。油断したろ、あたしがやらないと思って」
「ぐぐ、まさかボディとは……」
「鍛えてんだ。あたしを甘く見んなよ」
拳を握り直して、勝ち気な目で告げる。
「益込さん、俺を殴った分……考えてくれると……」
キリキリの声で、もう一度お願いしようとするが、上がってくるものを感じて言葉と一緒に飲み込んだ。やべ涙も出てきそう。
「それとこれとは別だ。今のはあいつの無礼に対してだ。新聞はあたしの意思でやる。それに」
「それに?」
「カッコつけた正義感は信用できない。まだ、あいつの方が信頼できる」
「……」
なんだよ~、それ~。じゃ俺は殴られ損かい~。うえっ、昼飯の唐揚げが上がってくる!
「失望するくらいなら見届けてよ。政治が率いる生徒会を」
「だったら、あたしは遠慮なく部説も書くぜ。いいんだろうな」
「いいんじゃないの。ヨミちゃんらしくて」
「知らないくせに」
「そうかな? キミが思うより僕はキミのことを知ってるよ。なんで報道新聞部だったのかもね」
痛みと吐き気に頭を下げる俺の上で、二人の会話が飛び交う。
「分かった。ボールはあたしが持ってる。あたしがピッチャーであんたがキャッチャーだ。あたしがどんな球を投げても取るんだぞ。忘れんな」
「いい例えだね。朗報を待っているよ」
「ほんと、腹立たしい」
「ありがとう」
なんか二人の話がまとまったらしい。何やってるんだろう俺は。しゃしゃり出て女の子に強烈なボディをくらって。偉い人の仕事はアタマを下げる事だと誰か言ってたけど、これは違うだろ。明らかに。
この状況では、俺だけこの場に戻れない感じだが、いつまでも腹を擦って最敬礼という訳にもいかないので無理やりだが話題に入る。不甲斐ない。
「考えてくれたら嬉しいです。それと神門、もうやめてくれよ、あんな事。いや、やめるんだよね」
神門は人差し指を、ほっぺたに当てると上目づかいに「うーん」と唸る。
「どうしようかな。政治の唇を奪ったらなんか興奮しちゃったし」
「え、俺のファーストキスなのに!?」
「それに、政治が受けで僕が攻めの方がいいって分かったしね。こんどはこっちで」
驚く俺の顔を神門は、くいっとこちらに向けると、両手で頭をむんずと掴むと下に下に引っ張ってくる。
「やめてくれ! もうなし! あれはなしだから! 益込さん、そこで固唾を飲んでないで止めて!」
「あたしは居ない。続けて」
「いるでしょ。目の前にいるでしょ」
「攻めだったら、僕のコンプレックスはないしー」
「いやーん! 今度は俺がコンプレックスになるから、俺の操がぁ~」
「ところで、そこで棒立ちしている短髪の子は大丈夫なのか?」
「ああ、実くんね」
新田原は、この光景にオーバーフローしたらしく、頭から湯気を出して真っ白になって立ち尽くしている。
「大丈夫、たぶんなーんにも覚えてないから」
「そお? たしかに免疫なさそうな子だけど」
「この三人が生徒会の枢軸メンバーさ、あとはヨミちゃんの目で判断して」
益込さんは、「考えておいてやる。じぁあな」と言って、我々に背を向けて駆けていった。桐花の女の子で土を蹴って走る子は少ないので、その後ろ姿は妙に新鮮に映った。それがすがすがしくもあり、異質でもあり、俺はこの出会いに手ごたえを感じていた。
まぁ間違った手ごたえも感じてしまったけど。