2章-8
風が白い制服の裾をあおる。
遅れて出てきた先輩は、そっと俺の横に並び、俺達はそのまま欄干に体を預けて、街を見下ろした。足元には学園の校舎と施設、遠く遥かに望むは霞がかった山々。こんな気分でなければ、さぞ素晴らしい景色だろう。
「今日は風が強いな」
「ええ」
「ここからは街が一番良く見える」
「そうですね。まさに一望ですね」
口ではそう言うが、ぼんやりと何処を見るでもない。
風が何度も先輩の髪を巻き上げる、砂混じりの風に目を細める先輩。視線の先は、学園の校舎か、その下に広がる高層ビルの街か。
「この学園が出来る前、ここに城があったのは知っているか?」
「いいえ、初耳です」
「連立式の大きな城だったそうだ」
「想像できませんね」
「そうだな。何も残っておらんからな。この記念堂がちょうど天守閣があった場所だ」
淡々と話す先輩。
「いつの話ですか」
「幕末だ。創立の時期を考えてみろ、学園は明治の前に設立されている」
「たしかに」
幕末か。その時代はここから見えた景色も随分違っていたのだろう。こんなビルなどなく、甍の海に結髪した人々が行き交う呑気な風景だったに違いない。
だがその想像は一部違っていた。
「この城主は、海外列強に囲繞される日本を憂い、己が居城を取り壊し、この地に未来の志士を育てる学校を作った。西洋の技術を持ち込み、海外から教師を連れてきて、城下の若人に新しい学問を広めるために」
「先見性がありますね」
「そうだな。動乱の時代に城を放棄するのだ。さぞかし家臣の反対があったろう。それを説き伏せて進めた大事業だったに違いない。城を棄てる覚悟など誰にも理解されない事だったと思う。それでも強い信念を持って未来に託した城主のことを思うと胸を打たれる」
「……」
先見性とか軽い言葉しか言えなかった自分に嫌悪を感じながら、俺はやたら深い心の井戸から言葉を紡ぐ先輩の声に、揺さぶられていた。
「お前も知っておろう。学園の三つの建学精神を」
「……すみません」
全く知らない。情けないが、そのくらいの気楽さで入学してしまったのだ。なんたる落差だろう。
「『学びて国富に努めよ』、『思ひて国政に捧げよ』、『鍛へて国防に備へよ』だ。ちゃんと覚えてくれ」
「……はい」
僅かに口角を上げて、温かく俺を見る。やさしさが痛い。
「ここに学校を作った城主の強い願いが込められているのだ。純粋だったのだろうな」
またゆっくり視線を落とし学園を見る。
「部活が多いのもそのためだ。生徒の自主的な精神を重んじている。十代で本気を出す経験は大いに意味があると考えているのだ。150年前のこの国は、みな大人になるのが早かったのだろう。この学校を出た若人が様々な分野で西洋と伍していくことを願ったに違いない」
風に遊ぶ長い髪を何度も耳にかけながら、遠くの景色を眺めるように俺に言う。それとも自分にも言い聞かせるように。
「詳しいんですね」
「我が一族は代々この学園を守ってきたからな。この学園の創立に深く関わった末裔だ。幼いころから嫌と言うほど聞かされたよ」
横顔が、ふっと苦笑いになった。
「ご令嬢と聞かされました」
「理事会でか」
「はい、理事の方々がそう」
「そうか。理事会の狸どもにはさぞかし評判が悪かったろう。口ではご令嬢と呼ばれるが、最後はあやつらに嵌められたようなものだ」
「嵌められた?」
「やり過ぎた私も悪かったが、現二年の外部生を絞めすぎた。桐花には相応しくない行動が目に余ったのでな。いくら言っても聞かんので最後は反省を促すためにロックアウトしたのだ。生徒会権限では停学にもできんし、教師も総入れ換えになって統制が利かなかった」
「ロックアウトって、締め出し!?」
「よく知っているな」
「感心する所じゃないです!」
「私が全校集会で札付きの悪どもを名指しで非難したら父兄が飛んできたよ」
笑いながら言う事か!? こんなかわいらしい人が凄い事をする。
「むちゃくちゃですよ」
「そうか? 政治だったらもっと己の志を貫いたろう?」
「俺が?」
「私はお前の……、いやなんでもない。そいつらが多額の寄付をしておってな。その対価として理事会は彼らに内部生と同等の権限を付与したのだ。お前も今なら分かるだろう。この学園の気質を考えると穏便にいかんと」
「先輩なら対処に動くと読んだ? まさか理事会が混乱に乗じて先輩のせいに」
「まぁ理事会もそこまで考えて、あの二年生を入れたのかは分からんが」
「それで罷免だなんて、先輩のせいじゃないですよ!」
「その引責もあるが、年次予算に生半可な覚悟で首を突っ込んだのが命取りになったのだろう。私も命がけで臨まなかったのは事実だ」
「債務不履行の件ですね」
「事実の程は分からん」
俺は言葉が出なかった。理想のために戦って、それは間違ったことじゃないけど、それが命取りになった。誰かがやらなきゃならない事だったから先輩は信じてやった。でもそれは勝ち目のない戦いだったんだ。それを世間は愚かと呼ぶだろうか。それとも立派だと称賛するだろうか。それとも反逆者。
幕末までここに城があったっていうけど、その幕末の志士だって、当時から俺達が知っているようなヒーローだったのだろうか? 或いは今で言うテロリストだったかもしれない。何が正しいかなんて、後世になっても分からないのだ。それでも志を信じて動く。
ああ、だからなのか。だから俺の覚悟が決まるまで何も言わなかったのか。俺が逃げ出すか、それとも勇んで特攻するか分からなかったから。
「後悔してますか」
「後悔か……」
先輩は何も語らず風に騒ぐ木々のあたりをぼんやりと見ていた。あるいは、俺の知らない先輩の時間を見ているのかもしれない。
ゆっくり口が動く。
「分からん。まだやれた事はあったと思う。学園を守れなかったのは後悔だ。無駄死にだったかもしれない。だが自分のした事に後悔はしておらんよ」
「先輩」
先輩の胸中を察する事はできなかった。もたれ掛かる欄干に気持ちを預けて言葉ではそう言ったとしても、変わらぬ事実に唇を噛み締めているようにも思えた。後悔なんて無い筈はない。こんなに学園を思っているなら。
俺は先輩が戦った時間と、同じだけ苦しんだ時間を想い、ただ彼女の横顔をみ続けた。
どこぞのアイドルグループにいてもおかしくない程の容姿だが、表情を失い、風に頬を打擲する髪にも関心を失うと、その輝きは薄雲の隠れた陽光のように薄れ、ぼんやりと輪郭を失っていく。
そうして、無言の時間が流れた。
不意にゴゥと鳴く突風が、先輩の青いリボンを激しく揺らす。その風に押されるように、ふっと此方を向く先輩。
唇がスローモーションに動く。
「政治、鍵を……」
「この鍵をお前にやろう」
「えっ」
スカートポケットから取り出したのは、 さっきここの扉を開けた真鍮の鍵。
「辛いとき私もよくここに来た。学園と街を眺めて自らを奮い起こしたものだ」
「これは先輩の……」
「これはお前に託す。先代がしたように私も未来に託したい」
先輩の瞳はきらりと光るものがあった。その意味は分からないが、先輩の中で何かが終焉を迎えたのであろうことが雰囲気で伝わってきた。
俺は無言で手を出していた。先輩の体温を宿した鍵が俺の手のひらにポトリと落ちる。
「政治に……」
髪に隠れて表情が良く見えない先輩に「大丈夫ですか」と声をかけると、彼女は僅かに赤くなった目で気丈にも笑顔を作って言った。
「学園の中でこの建物だけが幕内家の所有だ。だからよいのだ、これだけは私の好きにしても」と。
それを最後に俺たちは、強い風のなか、夕日になるまで学園と街を眺め続けた。運動部の走り込む声が聞こえなくなり、東の空に一番星が見えても、俺たちはそこにいた。時より先輩が俺の方を見るが、俺は目を合わせない。逆に俺も時より先輩を見るが、先輩も俺と目を合わせない。何を待っているのかも、分からない時が過ぎる。
150年か。どんな思いだったんだろう。お殿様が全てを捨てて、漠とした未来に賭けた心境は。
普通に考えたらご乱心。下手すりゃ幕府の反逆者だ。よく先輩のご先祖様もオッケーしたもんだ。
でも、それは成功したんだ。間違ってなかったから、この学園は今もあるし、スゲー偉い人も一杯輩出している。そしてそいつらが、この国を作ったから、俺もここにいる。それが、たった一人の願いからなんだよな。そいつは同じようにここから街を眺めて思ったんだ。この国の未来を思いながら出来ることは何かと、それに命をかけたいって。
……スゲーな。
思い付きで丸裸になっちまうなんてスゲーよ。
城まで壊すとか、スゲーバカ。
バカ。
ほんとバカ。
大バカだ。
とんだ大バカ野郎でいいよ。そいつ! そのお殿様!!!
何かが自分の中で弾けた。
こんな奴が作った学校なら、どうなるか分からない未来のために、全部捨てることになってもいい気がしてきた。そうやって作った学園なら、同じように未来に賭して終わったっていい!
そうだよ、俺はゼロなんだから知った風な事なんかしないで、ゼロからやりゃいい!
千本くじのタアリを引くような手応えがあり、紐に繋がる言葉が俺の口を借りて、するすると流れ出てくる。
俺が大事にしたい事、そんなの決まっている!
「先輩、俺、生徒会長やります! とにかく、この学園を潰さなきゃいいんですよね」
「ああ」
急に勢いよく喋り始めた俺に、先輩は驚いて目をぱちくりさせている。
「先輩の大好きな、大事な学園ですけど、俺の好きなようにやっていいですか?」
「ああ、か、構わんが……」
「泣き虫のお嬢様に頼まれちゃ、断れないですからね」
「泣き虫っ!」
彼女は、らしくない甲高い声を上げた。
「だって、さっき涙ぐんでたじゃないですか」
「泣いておらん!」
「ちゃんと見てましたよ」
「違う! 風が強いから埃が目に入って……」
「いいんですよ。葵先輩、もう頑張んなくて。もう十分頑張ったんだから、あとは俺や神門が何とかするんです。神門は頼りになります。あいつは先輩が思っているより凄い奴です。飄々としているけど細かいところも良く見ている。新田原も、あいつはバカですが、ほんっとにバカですが嘘をつかない。ぶん殴りたくなりますが信じられます」
俺が一気に話たてると、さっきまで子供みたいな言い訳をしていた先輩がふっと脱力する。
「大丈夫、俺を選んだのは先輩ですよ。それを信じて。自分が信じた自分を信じてください!」
ぽかんと俺を見ていた先輩だったが、次第に表情を取り戻すと、口元をほころばせ、徐に両手を伸ばして俺の頭をぐちゃぐちゃとかき回した。
「うわっ、なに!?」
「やられたら、やりかえす!」
「え、なにを!」
「私をビックリさせた!」
「知りませんよ、ビックリしたのは先輩でしょ」
「そうだが、やりかえす!」
訳の分からない理由だったが、こんなに無邪気で楽しそうな先輩は初めて見た。こんな人なんだ。葵先輩ってこんな人なんだ。もっと表情豊かで、もっと子供みたいで、もっと繊細な女の子。
「でも、これからもっとビックリしますよ。それでも俺でいいですか?」
頭をぐしゃぐしゃにした手を、ゆっくり戻した先輩が、真っ直ぐ俺を見ている。
「うん」
「先輩、絶対、怒りますよ、いや泣くかな」
「怒らない、泣かない」
そう言ってるうちに、もうポロポロ泣き出している。
「先輩は、泣き虫だなぁ」
コクと頷いて泣くままに、口元を震わせている。
「泣き顔も可愛いですよ、葵先輩」
「バカ」
涙声の先輩は、何度もハンカチで涙を拭いては、目を真っ赤にして、「恥ずかしくて帰れない」と言って俺を責めた。笑いながら。何度も何度も。
そして、俺は先輩に何度も何度も胸を叩かれ、「バカ」と言われた。
気が付くと、もうあたりは月明かりで影が出来るほどの暗さになっていた。もう遅いので真っ暗になる前にと先輩を先に帰らせ、自分は記念堂の戸締まりをする。冷たくなった真鍮の鍵をゆっくり回し展望デッキの扉を閉めると、後ろに人の気配を感じた。
「神門か」
「見ないで、よく分かったね」
「ああ、このパターンは慣れっこだ」
「でも、もう一人いるよ」
振り向くと新田原もいる。
「長すぎだ、何時間待ったと思う」
「別に待ってくれとは言ってねーよ」
「お前を葵様と二人にするのは危険すぎる」
「ずっと見てたの? 趣味悪いねー」
「監視だ!」
「そっか。見てたか」
鍵をパチンと締めると同時に振り返り、新田原を見据える。それを挑戦状と受け取ったか、新田原も俺の眉間に照準を合わせて真っ正面から瞳を射ぬく。
「見てたんなら分かるよな。そういうことだ。新田原! 生徒会に入れ! 先輩のためにお前の全ての力を遺憾なく発揮しろ!」
「ふん、お前の指示には従わんぞ」
「構わない! お前の判断で先輩と学園を守ることになると思えば、お前の信念に従って行動しろ。お前の本気を試してやる」
「俺を入れた事を後悔するなよ」
「お前こそ」
分からないものだ。最悪の出会いなのに何で俺は、こいつと組むんだろう。新田原もそう思っているに違いない。
「良かったじゃない、実くん。これで堂々と監視できるよ。いや、葵にお近づきになれるねー」
「そんな下心などない!」
「じゃ、ポケットの写真はもう要らないね」
「なぜそれを!!!」
素早く上着の胸ポケットに両手をやる。こいつ反応が素直だなぁ。
「え、なにお前、まさか先輩の写真とか持ち歩いてんの? うわ、キモっ! ストーカーじゃねーの」
「実くん、まさか写真相手に変なことしてないよね、例えば……」
「するか! 瑞穂じゃあるまいし!」
「そこで俺を出すのが怪しいわ。神門、なんか証拠ねーの」
「あるかなー。調べてみようか?」
「やめろ! 人のプライベートを詮索するとは卑怯だぞ」
「やかましい、やましいから狼狽えるんだよっ」
「まさか、僕の写真はないよね」
「あるか!」
いちいち、全部に真面目に答えてやんの。ホント嘘のつけない奴だわ。飽きないし。胸倉掴まれない限りにおいては、面白いヤツ。
「あははは、お前がいると俺が神門にイジられなくて済むからいいわ、やっぱり必要な人材だよ。おまえ」
「お前のためには働かないからな。葵様のためということを忘れるな!」
「ああ、じゃ改めて頼む。新田原。本当に期待しているぞ」
手を出して握手を求めると、新田原はその手をパーンと払い「貴様との約束ではない」と拒んだ。いいね、こいつは。筋が通っている。そうこなくっちゃ。
よしっ、やるぞ。なんか俄然ワクワクしてきた。
お前に託すか。
なら先輩に託された創始者の思いってやつを、本気でやってやろうじゃないの!
「政治も、くだらないプライドは捨てたみたいだし、僕も少しは頑張ろうかな」
「あ、ああ。頼んだ!」
口では平静を装ったが、心裏を突かれてドキッとした。だが、虚像の自分なんか、もう完全に吹っ切れた。