1章-11
あくる日の昼休み。
来てくれと言われた生徒会棟は、玄関の鍵こそ開いていたが、生徒会室はまだ施錠されたままだった。しかたがないので、ホールに配されているビロードの椅子に腰掛けて先輩を待つ。
多くの人の重みに耐え、積年の埃を吸い込んだ椅子は、キシと答えて俺を受け止めると、幾ばかりか古びた香りをふり撒いた。
だが、それもココには相応しく心地よい。
「静かだ」
昼休みの喧騒が嘘のように思える静けさに目を閉じると、さっきまでつまらない授業を聞いていた耳は、自然と自分の呼吸と鼓動を聞きあてる。
規則正しいリズムに、高ぶっていた気持ちが、次第次第に落ち着いてゆく。
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・
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「返事がないから、居ないかと思ったぞ」
ドアが開く音に気付かなかった。そろりと目を開けると背中にステンドグラスの煌めきを背負った先輩が、やわらかな笑顔で立っている。
『聖堂に降臨した天使』
真っ白い衣装も相まって、一瞬、そう思った。
本当に綺麗な人だ。神々しさと怖れのあまり反射的に膝まずいて、その足元に懺悔すらしたくなる程に。
「悪かったな、昼休みに呼び立てて」
「いいえ」
珍しく心に訪れた静謐を携えて、俺はゆっくり椅子から立ち上がった。
「昨日はよくやった。その褒美と言うわけではないが、お前に渡したいものがあるのだ」
そう言うと、先輩は上着のボタンを外し始める。
えーとっ、何をするつもりなのかな?
かな?
かな!?
ご褒美? そして上着を脱ぐ?
ご褒美+脱衣って俺の方程式では、もう答えが一つしかないんですけど!!!
おいおいおいおい! ちょっと待てよ!
イメージとはいえ一瞬でも聖女と思った俺の敬虔を返してくれ!
いや待て、落ち着け! そうやって前回も前前回も俺の勘違いだったんだ。 思わせ振りぶりな態度と発言は先輩の十八番だ。全くナチュラルな振る舞いが罪な女だぜ、先輩は。
騙されない、もう騙されないぞ。
そんな予防線を四方八方に張りつつも、恥じらいながら優艶に上着を脱ぐ仕草を、期待を込めた目でガン見してしまう。あうっ、シャツ越しの胸がっ。ふっくらした張りが、思ったよりおっきい!
こないだまで厨房だった俺には刺激が強すぎます。もう空想の鼻血がっ。ブハッ!
「政治、そんな期待の目で見るな、人前で脱ぐのは……、上着と言えど……恥ずかしい」
「はいいいっ」
なんて乙女チックな! かわいい!!
言われるままに後ろを向いて先輩が服を脱ぐのを待つ。見えないから何をしているか分からないが、先輩は俺の背後で長らくごそごそやっている。まさか上着だけじゃないとかっ! 音だけって思った以上に想像が膨らんでしまう。
下か! 下もか! ブラウスの裾から伸びるむっちりした太もも。もう妄想の裸ブラウス姿に吐血がっ。ゴハッ!
「もういいぞ」
「はいっっっ」
キタッ! もうフィギュア選出よろしく勢いよく振り向く。「きゅっ!」と鳴る靴音。ルッツ決まった! 決まったでしょ!
ところが、そこにいた先輩は……
「あれー、上着きてんじゃん」
ポカーンと期待外れの顔をしていたのだろう、そして、その言葉は口から洩れていたらしい。
「当たり前だ! 政治、よからぬ妄想をしていたろ!」と額に指弾。
「はい、いえっ何も考えていないであります」
「本当か? 怪しいものだ。まぁよい、誤解は双方の問題だ」
いや、男子高校生をよく分かってない先輩のせいです。主に。
我々には、見るもの聞くもの全てがエロに変換される、『エロプロセッサ』が内蔵されているのであります。残念ながら大江戸にも新田原にも。新田原なんかすごい高性能なのがフル稼働してそう。そして神門にも……いや神門はなさそうな気がするな。あいつはコッチの陣営じゃなさそうだし。
もんもんとそんな事を考えていたら、「それよりこれだ。済まなかった。すっかり渡し忘れていた」と差し出したのは、キラキラ光る小さなバッチ?
「何ですかこれ?」
「生徒会長バッチだ」
手に取るとずしりと重い。
「重っ」
「大きい上に純金だからな」
「ええっ」
「驚く事もあるまい。そのくらい価値のある仕事を我々はしているのだから」
バッチはビー玉より大きく、桐の花が掘られている。中央は立体的に紅玉が配されており、輪郭は枝葉を模して赤緑黄色と碧玉で彩られていた。
「中等部からもう五年間も付けていたからな、すっかり忘れていた」
フフっとテレて笑う先輩を見て、こんな高価なもの付けてて忘れる感覚もズレていると思ったが、生徒会の仕事を、もう五年もやっていることが驚きだった。それだけ周囲に期待されていたのだろう。新田原が言っていたのは本当なのだ。
「本当は、全校生徒の前でこのバッチを引き継ぐ式典があるのだ」
先輩は遠い目をして続けた。
「式典は夕刻の大講堂で行われる。檀上だけが柔らかな明かりに包まれていてな、そこに新旧会長が各役員を背後に従えて列を作って並ぶのだ。前列は旧生徒会役員、後列には新生徒会役員」
俺の前を先輩の靴音が左右する。
「そのバッチは、スポットライトがあたる中、旧会長から新会長に直接授受される。その後は、各生徒会役員の引き継ぎだ。副会長は校旗の授受を行い、そして書記、会計、総務と引き継ぎが続く」
思い出しているのだろう。斜め上を見ながらゆっくり俺の周りを歩いて話を続ける。そして、ぱっと俺の顔を見ると、初めて会った時に見た勝気な瞳で言うのだ。
「クライマックスで、対面する新旧生徒会の列が、一糸乱れぬ歩みで一斉に入れ替わるのは、なかなか感動的だぞ。政治にも見せたかった」
想像するに儀仗兵の交代式のような威風堂々としたものらしい。それを聞くと、俺の任命がいかに異例だったかが良く分かる。
「二人だけの式になってしまったことを申し訳なく思う。だが、私からちゃんと引き継ぎたかった」
「いえ、ありがとうございます」
少し寂しい横顔を俺にみせ、先輩は、うーんと腕を伸ばした。
「付けてみろ」
促されて制服の襟にバッチを付けると、先輩は似合う似合うと嘆賞して、まるで自分の事のように甚くご満悦であった。
バッチを付けただけで、そんなに喜ばれるとこっちが恐縮してしまう。
でも、すっかり忘れていた引き継ぎを『ご褒美』にすり替えるなんて、ちょっとズルくないですか。
「実は、もう一つ渡したいものがあるのだ」
「なんでしょう」
「生徒会室に来てくれないか」
そう言われたら行くわな。別に変な期待をしている訳ではない。本当にしてない。「もう一つのご褒美は、わ・た・し・だ」なんて全然、考えていない。信じて欲しい。
生徒会室まで、先輩のスッと通った背中を追いかける。歩みに合わせて、ふわふわ揺れるスカートが部屋に吸い込まれ、俺もその後に続いた。
「もう一つはこれだ」
そろった指先で指し示したのは、紫色の四角い包み。何だこれは?
「これは?」
「見れば分かろう」
「風呂敷? 何で風呂敷?」
「むむぅ、お前も勘が悪いな。今は昼時だ。これ以上、私に言わす気か」
「え、もしかしてお弁当ですか?」
「……そうだ」
ぽりぽりと掻く、頬が赤い。
「俺に?」
「他におるまいっ」
いいから早く開けてみろと言うので、では遠慮なくと風呂敷の結びをしゅるりとほどくと、中から出てきたのは四段の漆の重箱。
「うわぁ~」
「驚いたか?」
「驚きました」
驚きましたとも、その大きさに。あの先輩、これ……25センチ四方はありますよね。
その大きさに面喰っていると、先輩は自慢げに蓋を開けてみろと言う。嫌な予感がするんですが。
カタリと硬質な音を立てて、一の重から表れたのは、お豆さんに田作り。え、これおせちじゃない? なぜかタラコが入ってるけど。
二の重には卵焼き、かまぼこ、栗きんとん、何かの酢の物。やっぱりおせちでしょ先輩。これ弁当じゃないよ!
三の重は鯛とエビ。四の重はサトイモの煮物や野菜のてんぷら、卯の花やひじきが入っていた。
みっちりとね。
あの……ご飯が、お米がないんですけど。
先輩の顔を見る。
ドヤ顔だ。
ということは。
「これ先輩が作ったんですか」
「そうだ」
「ホントですか?」
「……まぁそうだ。いいから食べてみろ」
微妙な言い回しとバツが悪そう表情から、誰かに手伝ってもらったことが窺えた。先輩は結構お嬢様っぽいから、料理とかマジメにしたことなさそうだしね。
だが手伝ってもらったのなら味の不安はないだろう。漂う香りも食欲をそそる。
漫画でよく見る、『食べたら気を失うほどマズイ』はないと思いながらも、それでも意を決して箸をとる。
そう、味はともかく問題はコメントなのだ。まずは黒豆を。
んぐ、もぐもぐ。
「あ、意外とおいしい」
「意外と?」
「いえ! そんなことは、ただちょっと大丈夫かなぁって」
「政治~、私のことを信じてなかったな。まぁよい。卵焼きも食べてみろ。好物だと言っていたからな」
あ、そういうことか。俺がちゃんとご飯を食べてないって分かったから。俺の好きなものを聞いたのは、そういうことだったのか。
合点しつつ、卵焼きを箸でつまむと、見た目はちょっと歪だが、ぷるんといい具合に焼き上がっている。
ぱくっと頬張る。
「あ、うまい。俺好みの味だ」
「そうかそうか」
どうやら嬉しいらしい。腕を組んでうんうんと頷いている。
「これ、先輩が作ったやつですよね。ちょっと歪だから」
しまった。またうっかり思ったことをまんま喋ってしまった。どうして俺は、思った事、口にしちまうんだ。悪い癖だと分かっているのに。
だが先輩は、少しむぅと唸ったが、それも嬉しかったらしく相好をほころばせてくれた。
「そっちの煮物はどうだ?」
これも食べて欲しいという気持ち満々に俺に勧める。たぶんこれも先輩作なのだろう。どうやら俺の心配は杞憂なようなので、こんどは大きめのサトイモを掴んで丸ごと頬張る。
が、『う、これはしょっぱいっ』。
ダイレクトに醤油の味がするよ。作ったときは味が染みてなかったから、濃くしたんだろうなきっと。
先輩は期待の目で俺を見ている。こりゃ絶対「おいしい」を期待している目だ。一所懸命作ったんだろうな。正直に言ったら先輩落ち込むだろうな、キラキラな瞳で俺を見ているのに。
「どうだ」
「……」
「口に合うか?」
「……しょっぱいです。煮物は冷えると味がしみ込んじゃうんで」
落ち込む顔は見たくなかったが嘘は言えなかった。残念ながらそれが俺だ。先輩は、きっと肩を落とすだろうと思ったが意外な事に「正直に言ってくれてありがとう。不味いものを食べさせてしまって済まなかった」と気を遣って謝ってくれた。逆にそう言われると、こっちが痛い。
「煮物は難しいですから。でも、この酢の物はおいしいです。ぱりぱりとした歯ごたえと酸味が絶妙で。お店に出しても恥ずかしくないです」
「それは我が家の料理人が作ったものだ」
ガッデム! なんてこった! この中にプロの品があるのかよ。それじゃ全然フォローになってねーじゃん! 一層、傷、増やしてどーすんの!?
ならば明らかに先輩が作ってそうなのを。
この鯛は先輩作だろう。飾り付けが適当っていうかエビに比べて明らかに雑だから、尻尾も焦げてるし。
「お魚! この鯛もおいしいです。身が締まってて味がぎゅっと濃縮されていると言うか?」
「それは焼いただけだ。下ごしらえは料理長がしてくれた」
えー、そんなのアリ!? 迂闊なコメント言えねー! どれが先輩が作ったものかわかんない! どんなババ抜きだよこれ。
「さ、魚はさばくの大変ですもんねー」
「政治の好きなもので埋めたかったのだが、卵焼き以外に分からなくてな。それで色々と思ったのだが、とても一人では作れなくて」
済まなさそうに頭を下げる。
「そんな、こっちこそ御免なさい」
「いや! 私こそすまぬ。食べにくくしてしまった」
「いや、俺こそ」
なんか昼のメロドラマみたいにお互い交互に頭を下げて謝っているのが妙に面白くて、途中から僕らは二人で笑いあった。そうなんだ。それでいろいろ入れたらおせちになっちゃったんだ。おせちになっちゃったのはアレだけど、俺の事を考えて作ってくれたのがうれしい。なら、誰が何を作ったかなんて関係ないじゃないか。
「俺のためにこんなに頑張ってくれて凄く嬉しいです。全部食べてもいいですか」
「もちろんだとも!」
雲間から顔を出したお日様のように、ぱぁと眩しい笑顔を向ける先輩を見ていると、コメントとか小賢しいことは抜きに、全部おいしく頂くことが気持ちに応えることだと思えた。思いのままに箸をとる。
様々なおかずがあるが、いや、全ておかずなのだが一通り食すと煮物以外は全部おいしい。
口の中でホロリと崩れる角煮。香ばしい薫りが口いっぱいに広がるほうれん草の胡麻和え。昆布豆などはしっとり昆布出汁を吸って実に滋味深い。自然と箸が進む。
「男の子は本当に良く食べるな。見ていて気持ちがよい」
ぱくぱく食べる姿に先輩はご機嫌だ。だが、相当食べているが、食べても食べても減らないんだけど、この量。さすがに、ちょとペースが落ちてきた。
「あの、食べさしで言うのも何ですが、先輩も食べませんか? 俺ばかり食べるのは申し訳なくて」
「遠慮するな。お前のために作ったのだ、私のことは気にせずに全部食べて良いぞ」
違うんです。食べきれんと言ってるのです! だが先輩の笑顔が全部食え、残さず食えと、完食しろとプレッシャーをかけてくる。
げふっ。
食べ続けて久しいが、もう限界。胃が張り裂ける。喉までおせちでみっちりです。
シャツ越しにも自分の腹が突っ張っているのが分かるくらい、もうパンパン。ベルトを緩めてるけどもう入らない。
昼からそんなに食えるわけないって。だって四段だよ。四段みっちりだよ。むしろ二段以上は食べた俺を褒めて欲しいよ。
もう限界、ギブアップ宣言と思っていたところ、「ハーイ、葵~、政治の胃袋は掴んだかい」と陽気な声が聞こえてきた。
神門ちゃ~ん、キミなら来てくれると思ったよ~。
「わお、張り切ったね。こんなに作ったんだ。すごい量だね」
「ああ、年頃の男子は食う量が半端ないと聞いたものだからな」
「でも四段はないでしょ。おせちじゃないんだから」
でしょ。そうでしょ。これお弁当じゃなくておせちなんだよ。
「新田原誠に聞いたときは、毎日どんぶりでご飯を食べていると云っておったからな」
「誠は柔道部だよ。いくら高校生だからって政治は何もしてないんだから、僕よりちょっと多いくらいでいいんだって」
「だが、政治はお前より大分大きいぞ」
「体の大きさでご飯の量を決めたら、近衛くんとか僕の倍になっちゃうよ」
「ふむ、確かにそうだ。神門の言う事も尤もだ」
アホの会話だよ~。それより米をくれよ。味の濃いおかずだけで四段って結構キツイんだぞ。つっこむならそれだろ。それ!
そんなツッコミを入れたいが、いま喋って口を開けたら、おせちが逆流してきそうなんで、ぐっと飲み込む。
「でもこの量なら僕の分もありそうだね。葵の所の料理長は腕がいいからさ。卵焼きと煮物は絶対食べないけどね~」
「神門、それは私の料理がマズイということか」
「受け止め方は本人のご自由に」
正解は卵焼きと煮物の二つだったか。その二つでこの弁当を作ったというのは言い過ぎですよ。でも、先輩的には本当はこっちの弁当を渡したかったのか。生徒会長バッチはエクスキューズに過ぎないのね。先輩も素直じゃない。でもそういうところが、かわいいんだけど。げふっ。
口を手で押さえつつ、ふと神門と話す先輩の左手を見たら、人差し指に絆創膏が見えた。お重のインパクトで気づかなかったが、やっぱり料理は得意じゃないんだ。それなのに、こんなに一生懸命やってくれて。きっと、何度も失敗したのだろう。包丁だって覚束なかったはずだ。
こんなのを見せられるちゃうと、もう……。
「先輩、包丁、大丈夫でしたか」
「これか。大事ない」
「でも、得意ではないんですよね」
「やってみたかったのだ。私もお前に恥じぬよう前に進みたい。それと。私を庇ってくれたことへのお礼をしたかった。ありがとう……」
ちらっと手を見て、恥ずかしそうに両手を後ろに隠す。
お礼か。牛丼事件のか、それとも代表委員会のかな、そんな気にしなくてもいいのに。俺としてはお礼をされるように事をした訳じゃ……
あっ!
気づいてしまった。
『恥じぬよう進みたい』の意味を。それは、俺が先輩に投げた『自分を騙して』の答えだ!
感情に任せた、先輩の生き方を否定するような暴言だったのに、彼女は丸ごと受け止めたんだ。そんな言葉の凌辱されず、彼女は輝きを失なわないで前を見ている。
何より、その言葉をぶつけた俺を信じてくれている、俺を以上に。
それに気づいてしまった。
「私は、政治の横に立てそうか?」
しっとりと、先輩が俺に聞く。
全身に流れるビリビリとした電気が止まらなかった。鳥肌がさざ波のように起きては引いて繰り返した。
バカだ。
俺は何を見ていたんだろう。外にばかり目を奪われて、彼女の魅力や素晴らしさを何も分かってなかった。自分は被害者だとばかり思って、頭の中で正義だとか真理だとか振り回して、努力もしないで上手くいかない事を人のせいにして。4月から自分の事ばかり考えていた。
結局、ガキの頃から何も変わってなかったんだ。無関心を決め込んだって。ただ逃げているだけだった。
『先輩の期待に応えたい、生徒会の仕事で成果を出して先輩の喜ぶ顔が見たい。手渡された生徒会長バッチ重さに負けないようにやりたい』
もう決めるしかなかった。
確かに俺は先輩に胃袋を掴まれたようだった。