5-23章
またスマホが鳴動する。いちいち報告って、赤羽、おまえは某国のスパイかってーの。
と思ったら、今度は水分からだった。
これは珍しい。水分とは夏休みの旅行の時、もしもの事を考えて、お互いの電話とLINEを交換していたが、実はLINEが来たのは初めてだった。もちろん俺から連絡したこともない。同じクラスだし、いろいろあって家に来たこともある。旅行も一緒に行ったのだが、水分の独特の雰囲気に、ちょっと距離を感じていたからだ。
その違和感を埋めたくて、俺のために安達に怒ってくれた水分に、ズバリ『周りの奴らには、冷たく見られてるぜ』と言ってしまった訳だけど、そんな心のヴェールがお互いにあったと思うので、直接、水分から電話があった時は、正直びっくりした。
そんな水分が一体なんの用なんだ。
ある種の期待を胸にスマホを開くと、ぴらりと出てきたのは、また神門の写真。珍しい相手から来た連絡の割に、やっていることが赤羽と変わらないので、わずかに『うげ』とした気持ちになるが、そんな気持ちは、拡大して撮られたある部分に、あっさり上塗りされてしまった。
「神門の名札のシールが! 名前が見えない位になってる!」
その写真の下には水分のコメントがある。
『なんか気に入らない』
おー、水分が不機嫌だ。どうやら神門に与えられたシールの多さがお気に召さないらしい。
その不機嫌な彼女に、コメント返すの? 嫌だなぁ。でも既読になっちゃったから、無視もできないし。
指先をうろうろさせながら、思考を巡らせていると、またヨミ先輩が上から覗いてくる。この人、俺のプライバシーとか全く考えてない。
「へぇ~、神門っち、めっちゃ楽しんでるじゃん」
気になるのソッチ!? いや事実そうなんだけど。それにしても軽いわ~。コメントが。
「ですね。食わず嫌いなんですよ。でも、ああいうの、はまり役だったみたいですね」
本当にそうだったのだろう。あいつの家柄を考えると、サービス業のアルバイトなんてしたことないだろう。会心の笑顔で店の中を駆け巡っているのを見ると、やってみたら楽しかったのだ。写真越しにも躍動感が伝わるくらいに。
「そうだな、ありゃ目覚ちゃったな」
「そうですね、仕事に目覚めちゃったかもですね」
「仕事? さすがにそれじゃ食ってけないって。でも神門っちは声もいいからいけるかなぁ」
「それで食ってる一般ピーポーなんて一杯いますって。それに声色まで求めるんですか? ヨミ先輩はレベル高いなぁ」
「いや普通じゃないから、やるんでしょ。ああいう仕事」
えっ? サービス業が普通じゃない? おかしい。噛み合っていそうでズレてるぞ、この会話。
「ヨミ先輩なんの話ししてます?」
「えっ普通にコスの話しだけど。男の娘の。あれで押し倒しちゃうMっ子なのが、たまんなく萌えちゃうよねー」
「そっちですか!!!」
「そっちじゃなくて???」
もう、ヨミ先輩は俺の親友をどう見てるんだ。この学園の中で特別内部生に対して、妄想でもこれほどの狼藉を働きまくるのは、ヨミ先輩だけだろう。まったくオタ、恐れ知らずなんだから。
あっ、またLINEきた。立て続けに水分からだ。
画面をスクロールすると、今度の写真には阿達が写ってる。が、なんなの? この『労働って素晴らしい!』って、さわやかな顔は!?
「こっちも、いい顔だな」
だ・か・ら! 俺のスマホ勝手に見んなよ。勝手に! 横からジャマなくらい、ひょいと顔出して。しかも近いって。
近すぎるから、ちょっと腕を引いてヨミ先輩に当たらないように気を付ける。そういうのは、女であるヨミ先輩が気にすべきなのなに。
それでも、まだ近いので少し体を開いて、しょうがなくヨミ先輩にスマホを見せてやった。
「こいつ、当日まで超イヤがってたんですよ。それ以前に、喫茶だって猛反対だったのに」
「知ってる。阿達凛ちゃんでしょ」
勝手に俺のスマホをピンチして、ズームアップする。
「へー、あいつ有名なんですか?」
「ヨミちゃん情報網をナメちゃいかんよ」
「ああ〜、考えてみりゃ、あいつ特別内部生ですもんね。知ってて当然か」
「もう! 特別内部生だからって、全員名前が売れてるわけじゃないって。そこはさすがヨミ先輩って言うところだろ」
そんな不満を漏らすヨミ先輩をちらっと上から見る。ぶーぶー文句をいう姿も、案外かわいい。
なんて思っちゃダメだろ! 俺! 先輩済みません! 済みません! 浮気してませんから!
「あっ、メッセージもきた」
柱に頭をぶつけて、土下座級の陳謝をしたい俺をよそに、ヨミ先輩は勝手に俺のスマホの画面をスクロール。
『なんなのこの変わり身。モヤモヤします。凄くモヤモヤします』と水分様のコメント。
「宇加のやつ、やけに機嫌悪いじゃん。珍しいなー」
やっとそこに気づいたかヨミ。しかしその着目点は正しいぞ。つい最近まで水分は、誰かのために義憤に駆られて、怒ったり苦言を呈する事はあっても、自分が気に入らないという理由で、愚痴ることはなかった。だが阿達とやりあってから、ふとした拍子に俺だけには自分の気持ち吐露することがあった。たとえばウチの模擬店に、お兄さん来た時とか。
「あいつ、最近、自分のことで怒ったりするんですよ」
「へー、宇加がね。あいつがかぁ」
「でもこれは寝不足のせいで、自制心がふっとんでるのかもしれませんけど」
「ふふふ」
ヨミ先輩が、含み笑いの声を漏らす。
「何ですか」
「お前といると皆、そうなっちまうな」
「なんか、俺が悪いみたいじゃないですか」
「そんなことないって」
「ホントですか?」
「ホント、そんなことないよ。自然にペースとられちゃうけど」
ヨミ先輩は、なんだか満足そうにひとりごちた。そして嬉しそうにひょいと前に進み出て、クララのようにくるりと回ると、下から俺を覗き込んで、にっと笑う。
「ところでさ、相談なんだけど。急いで巡回して瑞穂のクラスいかね」
「何で!?」
「うししし、神門と光源氏が見たい!」
「やっぱり」
「いいじゃんっ、いいじゃんっ」
俺の肩をゆっさゆっさと揺さぶり、もう駄々っ子のようにせがみまくる。ダメだこりゃ。もうこうなったヨミ先輩は、九回裏まで止められない。
「わかりました、どうせ言っても聞かなんいんでしょ」
「よく分かってるじゃん」
そんなの当然お見通しです。ペースを取るのはヨミ先輩の方が十八番なんだから。
何度か「本当ですか」「他に見る所あるんじゃないですか」と確認したが、ヨミ先輩は絶対行くと言い張るので、俺は移り気な彼女を我クラスに連れて行くことにした。
にも係らずだ。
「あっ、瑞穂~、海の家だって。見にいかね?」
急いでって、言ったじゃん!!!
「もう、ウチのクラスに来るんでしょ」
「いいじゃん、ちょっとくらい寄っても~」
「ハイハイ、ちょっとね。で、そのちょっとは何回目でしたっけ」
俺の言葉を尻まで聞かず、ヨミ先輩はお店に駆けて行く。
もう、面白そうな出し物を見つけると、すぐ好奇心を抑えきれず、目を輝かせて飛び込んでしまうんだから。そのたび出し物を満喫してくるものだから、おかげで、なかなか前に進まない。
誘蛾灯に誘われる真夏の虫ですら、もう少し躊躇するわ!
「そんなんじゃ、いつまでたっても着きませんよ」
「いいじゃん、チェックも兼ねてだよ。それに瑞穂だって、女の子に吸い寄せられてるくせに~」
「そんな事ありませんよ、生徒会長としてどんな出し物か確認してるだけですから」
「うっそでー」
なんて、うりうり小突かれたりして。
確かに俺も、かわいい子を見つけると、つい覗きに行っちゃうわけで、でもそうとは分からないように、「ちょっと営業が怪しくないですか」とか、「列が長すぎますね」とか言い訳をつけてたのに。
むむむ、ヨミ先輩って鋭いんだよな。
そんなこんなで、何件の店に入ったか。
「うう、もうおなかパンパン……」
ヨミ先輩ったら、ブラウス越しにも、ぽんと出たお腹をさすって苦しそうに唸っている。
学生の店は飲食が多い。店に入る度、何かを食べてくるものだから、俺もヨミ先輩も食べ続けだ。
「俺も結構、おなか一杯っス。ヨミ先輩、のぞくだけいいじゃないですか、なんでオーダー頼んじゃうんですか?」
出てきた教室の暖簾をくぐって俺が言うと、
「だって食べてみたいじゃん。海鮮やきそばとソース焼きそばは違うんだよっ」
分かる。分かるけど。「あー、おなか一杯」「もうムリ」って、その前の店で言ってたのに、なんで忘れたようにはしゃいで買っちゃうんだ、この人。ボケてんか? ボケてんとちゃうか? それとも何か? 食欲を抑えられない病気か?
「そんな興味のままに食べてたら太りますよ、絶対。ていうか言いたかないですけど、太りましたよね」
はっと静まるヨミ先輩。
「俺、ずっと思ってたんですよ」
「……」
ヨミ先輩のこめかみから、たらり、冷や汗が流れてきた。
「なんかほっぺったの辺りがぷにっと。さっき腕掴んだ時も思ったんですよ。なんかふあふあだなって」
「いうなぁーーー!」
ほっぺたを両手で押さえて、ぶんぶん頭を振る女性、ここにありけり。
「あ、だから今日ベスト着てないんだ。なんか制服の肩わまりが窮屈そうでしたもんね」
「だ・か・ら・いうなぁーーー」
「もしかしてトレーニングしてないんですか?」
ジト目で俺を見る。そんな目で見たって真実は変わらないゾ。
「だって足の捻挫。あれ筋やっちゃってて練習出来ねーんだもん。けどご飯の量は変わんないから……」
「あうっ、それ半分は俺のせいっスね。けど、残り半分は自分のせいじゃないですか。ご飯なんて減らせばいいだけなんだから」
「できりゃ苦労しないって! だってー、胃のサイズは同じなんだよ」
胃のサイズって……。たしかに結構食べる方なのは知ってたけど。
「おなか、空くんだよ」
「はぁ」
「半分にしたら、寝る前におなかグーグーだよ」
「水でも飲みゃいいじゃないですか」
「瑞穂! ひどい! そんなんじゃ、我慢できないよ!」
「知らんですよ! 人の腹なんて! だいたい体動かしてなかったら、腹なんて減らないです」
「違うって!」
いや、そこで力説されてもなぁ。
「じゃ気持ちの問題でしょ。意思です。全部意思の問題です。ヨミ先輩は意思が強そうで弱いんです。結構周りに左右されますよね。俺と食べ比べして吐きそうになるまで食べたり。好きなのにバレないようにBL本読んだり。いいじゃないですか、自分がいいと思ったら、それが自分で」
大食いの正当性を力説されても困るので、好き勝手バカスカ食ってしまう、ヨミ先輩の意思の弱さを突いてみる。
ところが突き放したつもりが、ヨミ先輩は虚をつかれた顔をして、ぽかんと口をあけた。そして口許にはっと両手を当てる。
えっ、まさか気持ち悪くなって吐くとか!?
そっと後退りし、もしもの惨事に備えるが、その予想はハズレだった。
「……そうかも。そうだよ! 意思だよ」
えっ? 急にどうした? 何を言い始めたんだ?
「前はこういう練習できない時って、もっと辛くて、練習しなきゃ、練習しなきゃって悩んで、ご飯なんて喉を通らなかった。でも今は違う。ちょっと一休みしてるだけで、また走り出せるんだって思える」
「あのー、ヨミ先輩?」
「それって、わたしが自分で選んだからなんだ。そうじゃない時は、いつもダメなんだ、誰かに振り回されて。クラブとか、部活とか、ねーちゃんとか。無理して疲れて、苦しくなって」
回想が走っているのだろう。自己と対話するような独り言が続く。
「私が選ばなきゃダメなんだ。私ってそうなんだ」
俺にはヨミ先輩が、何に納得したのか分からなかった。だが何について言っているのかは分かった。
球技大会で野球をやると決めたこと、舞先輩に振り回されてきたこと、生徒会に入って面倒ばかりなのに楽しんでること。そして今の彼女には出会った頃のような、ピリピリした感じはもうないこと。ヨミ先輩はそんな軽くなった自分に今更気づいただろう。
口許に寄せた手が、ふわりと落ちて肩の力がすーっと抜けて行く。
胸いっぱいの大きな呼吸を一つ。
「ばっかみたい」
それは自分に対する嘲りではなく、この秋空のようにスカンと抜けた一言だった。
自分の事は自分では分からない。だが自分の事だからこそ、溜まりに溜まった感情や経験がある分、解るときは堰を切ったように一気に解るに違いない。ヨミ先輩の顔はそんな顔だった。
そんな突然一人でぴょんと飛んでいったヨミ先輩に、かける言葉を失っていると、彼女はぱっと俺を見て「ありがと。瑞穂のおかげだよ」と、状況もわからぬ俺に急に感謝の言葉を向けた。
そんなありがとうと言われても、言われた本人に自覚がないのだから、受け止めようがない。
それ以前に『先輩が卒業したらどうするのか』問題に答えすら出せない俺が、人様に感謝されるなんて、おこがましい限りだ。
「俺は何も。ヨミ先輩自身が踏み出したからじゃないですか。俺はただそこに居ただけです」
「でも横に瑞穂がいてくれたのが嬉しいんだ。だからやっぱ瑞穂のおかげだよ」
どうにも俺のお陰にしたいらしい。
俺はヨミ先輩じゃない。ヨミ先輩の頭の中も心の中も分からないのに、俺は関係ないと言い続けるのはむしろ無礼だ。だから気恥ずかしいが、その気持ちを有難く受け取る事にした。
まんま俺の気持ちを伝える。
「どういたしまして。そう言ってくれると嬉しいです。俺もヨミ先輩の力になりたかったから。俺は笑ってるヨミ先輩が好きだから」
彼女は、頬をピンクに染めて目を丸くした。
その瞳が俺の眼を見て、躊躇いがちに窓の外を見て、また俺を見る。
幾千言を湛えた顔が、しっとりと伏せられていく。
その前髪で見えなくなった面さしに、どんな表情が刻まれているか、俺には想像できなかった。
チチチチと名の知らぬ秋の鳥が鳴いて、空の向こうに飛んでいく。鳴き声が風に紛れて消え、生徒とお客さんの声が次第に耳に大きくなる。
止まった時が再び動き出し、ヨミ先輩はゆっくり静かに顔を上げた。
そして、なぜか大の字に足を開いて、むんと腕を組んで、白い歯を見せる。
「バカ。じゃオレがちょーっとだけ、ぽっちゃりしたのも瑞穂のせいな!」
ポカンとした。ギャルゲーのワンシーンのような美しい陰影と振舞いに、全くそぐわない言葉だったから。
益込世美。
やっぱりヨミ先輩は、俺の知ってる、俺の好きなヨミ先輩だ。
だから俺も言い返す。
「いや、それは勝手にヨミ先輩が太っただけですから。しかも、相当です。そ・う・と・う」
「太った、いうなーーー」
気持ちは軽かろうが、体はさにあらず。
ちょっとだけ重くなったヨミ先輩を、俺はそうして受け止める。