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薄暗い通路を歩き、建物の中に入る。最初に目に入ったのは壁際にある水槽だった。透明度の高いガラスの向こうは水が満たされており、水の中には葉が大きい海草とその間や上を悠々と泳いでいる様々な魚の姿が見えた。
ヒロが声こそ出ないものの、水槽の前に駆け寄った。晴生の服の袖を掴んだままのため、晴生は引っ張られるように一緒に水槽の前に行った。薄暗いせいか、晴生の容姿を気にする支援があまり感じられなかった。これなら気にすることなく見ることができそうだ。
透明度の高いガラスは、本当にそこにあるのかと一瞬疑う程綺麗だった。ガラス向こうで泳ぐ魚も、綺麗な鱗と凛とした目をして悠々と泳いでいるのが見える。
ジョンが二人の右横に立って説明した。
「これは相模湾の海を模した水槽なんだよ。ちょうどこの水族館の前の海ね。色々な環境を持っている数少ない海だから、色んな生物がいるんだ。それを再現したのがこの水槽。ここは入口だからちょっと地味だけど、ウニとかカニもいるよ」
ヒロが岩の方を指差した。黒くトゲトゲしたウニがそこに動かずにじっとしていた。
「そう、それ。ウニとかは夜になるとよく動いてるよ。ほら、そこのツボに何かいるけどわかるかな?」
ジョンが指差した所は地面であり、茶色い壺のようなものが置かれていた。よく見ると、壺の中には蛇のような生き物が口を開けたり閉じたりを繰り返して潜んでいた。晴生は見た事ない生き物に興味を持った。身近な海に、こんな生き物がいるなんて。と驚くばかりだった。
「この水槽には二匹ぐらいウツボがいてね。イベントの時間になるとダイバーが抱っこしたりするの。噛んだらとっても痛いけど、人懐こいやつもいるんだよ」
晴生とヒロは一緒にウツボを眺めていたが、ヒロがウツボの近くで泳いでいる小さな魚を見つけて、指で指し示しながらジョンの顔を見た。
町のどこかで見た事があるカワハギに少し似ているような形をした魚だった。口が細長く、鰭をひらひらと動かしながら泳いでいる。
「それはキタマクラ。カワハギに似ているけど、食べたら危険だよ。ほとんど全身に毒を持っているんだ。カワハギに似ているから食べちゃうらしい人もいるけど、見た目はちょっと可愛いよね」
毒と聞いて少し青ざめるヒロを見て、晴生と昌平が少し笑った。表情豊かな子供らしい反応は見ていて飽きない。
このような施設がある事は平和だからこそ存在しているのだろう。水族館は晴生の時代にもあった。行った事はないが、聞いた話では戦争になった時閉館して兵隊が倉庫として使ったらしい。それが戦争が激しくなった際にどうなったのかは知らない。きっと焼けてしまったのだろう。その水族館にも生き物がいたのなら、彼らは海に帰れずに焼けてしまったのだろうか。そう考えると、残酷な話に聞こえる。
少し進むと、同じ水槽だが海草はなく岩だけの場所がある。岩の地面に大きな平たい生き物がいた。皿のように丸く、細長い尾がある。真上に目があり、不思議な模様をしていた。
「エイって見た事ある?」
ジョンが尋ねると、ヒロはコクコクと頷く。同時に、一度手を離してスケッチブックに「本でしか見たことないです」と書いた。
「はは、そうか。ツバクロエイって言ってね、多分この水槽で一番大きい部類かな」
エイは不思議な目でこちらを見ているようだった。時々動いて平たい体をひらりと軽く動かした。口などは何処にあるのだろうと思うと、どうやら真下にあるらしい。
聞けば、エイはサメの親戚のようなもので、見た目がサメなのにエイという名前が付いているものがあったり、その逆もあったりする。サメというものは晴生も知っており、見た事はないが危険な生き物である事は知っていた。しかし、エイとサメが同じ仲間とはあまり想像できにくかった。
「見分けるコツとしては、鰓が横についているのがサメで、腹の方についているのがエイってのが一番わかりやすいかも。今度見てみるといいよ。さ、次行こう」
奥へ歩くと、水槽がいくつもある通路に入った。
手前の水槽には大きなわかめのような海草が森のように生え、その隙間に黒っぽい魚が見え隠れしている。
よく見ると、一匹だけ片眼が白く濁っている魚がいた。戦争が始まる前、近所に住んでいた老人の目を思い出した。目の病で視力がほとんどないと言っていた。この魚も同じなのだろうかと、ついじっとその魚を見た。もう片方の健全な目は輝きを持ち、生きているのを鮮明に映していた。
「岩礁の水槽っていうの。海藻は海のうねりで揺れるんだけど、そこを住み家にしてたり、卵を産みに来る魚がいたりする。地上の森とそんなに変わらない海の中の森ってやつさ」
「この、目が濁っているのは大丈夫なのか?」
晴生が尋ねると、ジョンはその魚をじっと見た。
「あー、こいつはちょっと俺にもあまりわかんないなぁ。でも目も綺麗だし健康そうだ。大丈夫だよ!」
見ただけで魚の状態がわかるような言い方に、晴生はジョンが何をして過ごしているのか気になった。思えばやけに生物に詳しい気がする。しかし、今それを質問する必要はないと判断して口には出さなかった。色々な生き物の事を教えてくれて、それなりに楽しいから無駄にはしたくない。
他にも、鮮やかな明るい色をした珊瑚礁にいる魚や干潟にいる生物の水槽を見て、ジョンは丁寧に教えてくれた。ヒロはそれを熱心に聞き、目を輝かせながら水槽の中の生物を観察していた。たまに後ろで見物している昌平に頼んで写真を撮ってもらったりもし、思い出を残そうとしていた。
晴生は微笑ましく思いながらも、この空間に自分がいてもいいのかと疑問に思ってしまう。時代が違い、本来なら死ぬはずだった自分が未来の日本にる事が。ヒロを含めるこの場にいる者達の空間や思い出の中に存在してもいいのだろうか?全く関係のない人間、部外者であるのに。
深く考えようとしても、ヒロに引っ張られて途中で中断されてしまう。まるで考える事を許さないように。晴生は押し寄せる罪悪感さえも、ヒロによってかき消されているような気がした。
通路が終わり、広い場所に出た。薄暗い中、青色の光の方を見ると晴生とヒロは呆然とした。そこにはこれまで見て一番大きな水槽だった。見上げなければいけない程大きく、その中には無数の魚達が泳いでいた。群れで泳ぐ魚、自由に一匹で泳ぐ魚と様々だった。海の一部を切り取ったかのようなその光景は、晴生にとって今まで見た事ないものだった。片目でしか見られない事が悔しく思う。
ジョンが嬉しそうに言った。
「これが、えのすいの人気の一つ。相模湾大水槽だ!中でもイワシの群れが人気でね、大体八千匹ぐらいいるよ。綺麗でしょ?」
「すごい・・・これも、作ったものなのか・・・?こんな大きなものを?」
晴生の言葉に、ジョンは一瞬首を傾げたがすぐに笑って「そうだね」と言った。
「俺も初めて日本に来てこれ見たらすげぇと思ったよ。もっとすごいのも沢山あるんだろうけど、この水槽の生き物はほとんどが漁師や飼育員が採ってきて繁殖させているって所がすごいよね」
「この水槽の生き物全部?」
「うん。えのすいは漁師さんとかの繋がりが深くてね、漁師さんから生物を提供してもらったり、船に乗って一緒に行ったりして採ってきたりするんだ」
「・・・すごいな」
そう言うと、晴生はヒロがそわそわと動いているのに気づいた。人が多いせいで背の低いヒロは水槽全体を見る事ができないらしい。人ごみの隙間から辛うじて見ている。
晴生自身は背が高く、見る事に困らないがこれではヒロがつまらないだろう。
少し考えた後、晴生はヒロの手を握った。驚いたヒロが一瞬だけびくっとした。小さくて細い手が、すっぽりと自分の手に収まっているのを感じた。
「少し前へ行こう。見えないとつまんないだろう」
晴生は他人を不快させない程度に人の波を掻き分け、なるべく水槽の前まで移動した。人を避けるようにして動くから手を離してしまわないか不安だったが、無事に水槽全体が見える場所まで移動した。あと三、四歩で水槽に触れる事ができる距離まで来るとヒロは顔を上げて水槽の中の世界を見ていた。後ろで昌平とジョンも見ていた。
青と白にキラキラと輝く水の中を、時間やそれらに縛られる事もなく悠々と泳いでいる魚達。静寂と光がある世界。晴生が最後に見た炎や赤色の世界とは真逆の、平和で安らかな場所。それが作られた場所だとしても、その中にいる魚達はそこが自分たちの世界だと受け入れているかのように生きていた。
安心する程美しいその水槽を眺めていると、視界の端に小さな指が見えた。見ると、ヒロが水槽の上の方に向かって手を伸ばしていた。何かを掴みたいわけでもなく、ただ手を伸ばしていた。そこに秘められている意味を、晴生は僅かながらに感じつつも考えないようにした。この子供の感じるままにさせておきたいと思った。
しばらく二人で鑑賞していると、ジョンが晴生の肩を軽く叩いた。
「もっと綺麗なやつ見る?きっと気に入るよ」
大水槽から少し離れた場所に移動し、先程よりやや狭い部屋に案内された。そこには変わった形の水槽がいくつも並び、天井には青い生き物の模様があった。真ん中には流れる水に覆われた球体の水槽があり、その中にも生き物がいた。
入ってすぐ横の水槽には、丸いお椀のような形をした半透明の生き物が揺れたりほわほわと浮遊していた。見た事ない生き物だった。目や口がどこにもなく、長い紐のようなものをひらつかせながら泳ぐものもいた。
「クラゲのコーナーだよ。最近はここドラマとかにも使われるの。そこにいるミズクラゲとか特に人気」
奥に入って左側の隅、その水槽にミズクラゲはいた。大きな水槽に白っぽく丸い形をしたクラゲがゆっくり回りながら浮遊している。真ん中にある花のような模様が特徴的で、四つのものがほとんどいるがたまに五つだったりするものもいる。ヒロが見つけたものにはハート型という変わった形をしたものもいた。
クラゲという生き物は見る限り謎に包まれたもので、生き物なのかどうかすらも疑いたくなるような姿をしている。しかし、どこか幻想的で時間の流れを忘れさせてくれるようなそんな不思議な魅力を持っている。
同じ空間にいる人々も、笑っていたりうっとりしたような表情をしながら鑑賞している。不思議と癒しを与えてくれる存在なのだろう。
「クラゲの飼育ってのは難しくてね、今も研究中なんだ。今のクラゲの事は、ほとんど昭和天皇の研究によって受け継がれているんだ」
「天皇・・・!」
晴生はジョンの方を見た。天皇という言葉は記憶に刻み込まれているぐらいに聞き慣れている言葉だ。神と同じ存在だと信じていた日本の頂点。天皇の為に戦っていたと言ってもいい程、崇拝されていた存在。全てが謎に包まれ、よく天皇が住んでいるとされる場所の方角に向かって敬礼をしたりしていた。それはどこでも同じ事をしていた。戦争が始まって、晴生にとってお国の為に戦う事は天皇のために戦う事を意味していた。
謎に包まれているはずの天皇が、この未知なクラゲの研究をしていた事に驚きを隠せなかった。そもそも、天皇がしている事が一般的に公開されているのが不思議でならなかった。
「天皇が研究していたという事を、世間は知っているのか?」
「えっ?うん、知ってるよ。この部屋の隣には、その昭和天皇が発見したクラゲがいるよ。写真とかもちゃんとある」
情報が、公開されている。謎に包まれ、誰も知らないはずの天皇を誰もが知っている。それは、晴生の時代ではありえない事だった。国の事は偉い上官などの人間しか知らなかったし、天皇の姿や声はほとんど隠されて公開された。国の為に戦い、働いている者達さえもあまり国の事を知らぬまま過ごしていた。
それが今、知らない方がおかしいとでも言うように当たり前に「情報」が公開されている。
晴生はしばらく黙っていたが、大きなクラゲの水槽を見ながら口を開いた。
「その、天皇がいなかったらクラゲの飼育はできなかったのか?」
「んー。そうかもね。だって、彼らのエサとか水槽の工夫とかはほとんど天皇が見つけたみたいだしね」
すると、ヒロが紙に何か書いてジョンに見せた。
『くらげは何をたべるんですか?』
「えっとね、小さいプラクトンなんだけど、そこにいるブラックシーネットルとかはねクラゲも食べる」
「それ、共食いなのでは・・・」
「ははっ、だってクラゲもプランクトンだもん。あ、あとね、ミズクラゲのその花みたいな模様なんだと思う?それ、クラゲの胃なんだ。4つとかすごいよね」
ヒロと同じように、顔には出さないものの晴生も海の生き物について驚かされる事ばかりだった。何も知らないでいるよりも、知った後に見るものはどこか感覚的に違う。知っていると周りに教える事ができ、その面白さを共有できる。面白さだけではない。悲しさなどの重い感情も共有すれば、何かを乗り越えられるのではないだろうか。戦争の時、それができていただろうか。誰かと感情を共有したりしただろうか。思い当たる事が、なかった。
火の海の中、いつ死んでしまうかわからない中で、誰かの事を考える余裕はなかった。自分の事しか考えられず、ただ必死だった。それだけだ。
くいっと袖が引っ張られ、ヒロの方を見る。クラゲの部屋は薄暗くてその紙の文字が見えにくかったが、水槽の僅かな明かりで見る事ができた。
『おもしろくて、たのしいです。はるおさんは、たのしいですか?』
晴生は数秒動きを止めた。初めてヒロに名前を呼ばれたような気がする。そして、少しだけ心を読まれたような感じさえした。
子供は周りに敏感で、繊細で正直だ。言葉がわからずとも、感じるままに表現する。ヒロも、晴生が考えていた事は知らずとも重い空気を感じ取ったのではないだろうか。せっかくの場所に来て楽しむはずだったのに、少し申し訳なさを感じた。
晴生はヒロに微笑んだ。頭を撫でられるのは、怖がってしまうので我慢する。
「ああ。すごい楽しい」
そっけない言葉だったが、ヒロは柔らかい笑顔を浮かべた。
それからジョンの案内でイルカを見たり、初めて小さいサメに触れたりするなど色々な事をした。ヒロに引っ張られるようなもので多少疲れはあったが、気づかぬうちにヒロと一緒に笑っている瞬間がある事に気づいた時、多少驚いた。戦争の時は笑う事などなく、無感情でいた。笑みなんて忘れたと思っていた。平和だからなのか、自然にできている。
水族館を出た後、江ノ島に行って昼食をとる事にした。名物である白い小さな魚が沢山乗ったしらす丼の店に連れて行ってもらい、来るまでの間お茶を飲んで話をした。
ヒロは先ほど買ったクラゲのぬいぐるみが気に入り、ずっと持っていた。昌平がそれを見ながらジョンに言った。
「今日はありがとな。俺も勉強になった」
「いやいや。本当はもっと説明上手な人か、もしくは知らないまま楽しんだ方がいいよ」
晴生が尋ねた。
「どうして、ここに詳しいんだ?何か、勉強でも?」
「俺、ここで働いてんの。まだ新人だけどね。クラゲ担当」
だからあそこまで詳しかったのかと、やっと納得できた。日本で、外国人が働いている。妙な光景だった。
「君の他にも、その、外国人が働いているのか?」
「んー、今は俺だけかな。でもさ、俺外国人っていうかハーフなんだよ。半分しかアメリカ入ってないよ。それに日本生まれだからほとんど英語知らないし」
晴生は一瞬動きを止めた。戦争の時、銃を向けてきたあの異国の人間と日本人の間の子供がいる。異国の交流だけではない、人種の壁さえも関係なく子孫を残している。晴生の時代にはありえなかった、異国との繋がり。それが今、子孫として残っている。
驚く事ばかりだった。だが、悪いという気持ちはなかった。彼らは何不自由がなく生きている。食べ物にも困らず、厳しく縛るものもない。羨ましい程、自由に近かった。
昌平が自分を見ている視線に気づき、俯いていた晴生は顔を上げた。ジョンが少し首を傾げて晴生を見ていた。
「あ、いや・・・田舎者だから、外国人だと思って戸惑ってしまって」
必死に誤魔化したが下手な嘘だと自分でも思う。しかし、ジョンは笑って気にしなかった。
「ははっ、なにそれ。アンタ、見た目の割にはおもしろっ」
可笑しそうに笑うジョンに、晴生はただ苦笑するしかなかった。外国人に戸惑っていたのは事実だ。田舎者というのは、少し当たっているかもしれない。何もない場所から、いきなりものが豊かな場所に来てしまったからだ。時代を超えるのも、地域を超えるのも感覚的には変わらない。ただ、知っているはずなのに知らない場所に来たというのが違う。
中年の女性が四人分の丼を運んできた。白い米の上に、小魚とネギとショウガが乗っている。初めて見る丼ものだった。片腕がない分多少食べづらさはあったが、それを気にしない程に美味かった。ヒロはショウガが少し苦手のようで、それを見た昌平がヒロの分のショウガを自分の丼に移したりして、兄弟のようだった。
「どう?」
ジョンが晴生に尋ねた。
「すごく美味い」
「でしょ?生のしらす、他じゃ食べられないからね」
晴生は自分の心の冷たさが少しずつ解けていくような温かさを感じていた。自分に懐いてくれる子供、厳しくも面倒を見てくれる人や色々なことを教えてくれる人。良心的な人に触れ、恵まれている。ここにいてはいけない人間だとわかっていながら、ここにいたいと思っている自分がいた。戻らなければいけないのに。
ズキリと腕が痛み、晴生は顔をしかめた。怪我はもうほとんど治っているのに、痛み出す。これが幻肢痛というものだろうか。
「どうした?」
正面に座っているジョンが顔を覗いてきた。晴生ははっとして咄嗟に言い訳の言葉を口にした。
「ちょっと疲れただけだ、大丈夫」
「んー、そっか。無理しないでね。今日は来てくれてありがとね」
青い目をした青年が笑う。明るい笑顔だった。
戦争中に見たアメリカ人を思い出し、胸が締め付けられた。