1
あの子は、いつも一人ぼっちだった。
痩せていて、暗い目をしていて、いつも一人だった。
初めて出会った時から、違和感を感じていた。
その子が、何者なのかを。
空が黒く、所々赤色をしていた。否、赤色は町を燃やす火の色だ。
島崎晴生は走っていた。右手には血に濡れた刀が握られていた。敵がすぐそこまで追いかけてきているのが背中に感じた。空からは大地を響かせるような音をたてながら、アメリカとも自国とも知らぬ飛行機が飛び交う。赤黒い空は、血の色に少し似ている気がした。
身につけている軍服は血に濡れて重く、弾が一発だけしか入っていない銃を使おうとも敵の数は1人ではないことが僅かな足音でわかった。今は逃げ切るしかないと思い、闇雲に走っている。
自分がどこにいるのか、仲間はどこなのか、気にする余裕もなかった。今の晴生は生き延びるのに必死で、彼が生き残る為には本能に従うしかなかった。残った両足と右腕、それから左目だけで戦う事は自殺行為だった。
突然の衝撃だった。眩い閃光が走ったかと思えば体が吹き飛ばされ、痛みが襲い掛かってきた。目覚めた時、彼は防空壕の中で応急処置されていた。気を失っていた時に解放されていた痛みが再び襲いかかった時、右目と左腕がないことに気づいた。皮膚も火傷だらけで、生きているのが不思議なぐらいだと自分でも思った。
痛みで暴れかけた時、近くで爆撃の音がし周囲にいた看護婦や医師が怯えて逃げ出そうとしていた。晴生の近くで横になって呻いている兵士が見えた。彼らは晴生より重傷だった。しかし、それを気にする余裕はほんの数秒で、気づけば晴生自身も刀を持って防空壕から神社のある方へ逃げていた。
熱と痛みに意識が朦朧としながら、瓦礫だらけの地面を歩いた。建物は燃えており、もうどこが誰の家なのかわからない。あちこちで焦げた臭いがし、その中に人間が焼ける臭いが混じっていることに気づいた時は吐き気がした。
現実とは思えないと思っていても、現実なのだと痛みが教えてくれた。天皇の為に、お国の為にと武器を手に取って戦ったつもりだった。だが、実にあっけなく自分達は一生消えないであろう傷を、もしくは死を負ってしまった。家族も生きているかさえわからない。きっと死んでいる方が可能性が高い。瓦礫の山の隙間から人間の一部が見えた時、死さえも怖くないと思っていた晴生の中に、恐怖が戻ってきた。これが、これが人間のした事なのかと。
晴生は包帯を巻いた腕から血を滴らせながら、走り、疲れて歩く。そして、見覚えのある石段を見つけた。町外れにある神社の石段だった。まだ焼けておらず、立派に建っている赤い鳥居の先は、背の高い木々のせいで真っ暗だった。こんなに爆弾が飛び交っているのに、どうしてこの神社の木々は無事なのだろうか。安全地帯でもなんでもないはずなのに・・・
戦争が始まる前、この神社で立派な軍人になれますようにと願ったばかりだった。あの時は誇りを胸に持って願ったはずなのに、今では痛みと熱でどうでもよくなっていた。
晴生は息を切らしながら、石段を上った。神社の本殿と大きな柳と楠の木が見えた。昔からある、細くも長い枝を持つ柳の木と、大きく丈夫な楠の木だった。こんな恐ろしい戦争が始まっているのに、神社の周りはやけに静かだった。
晴生はのれんのように垂れ下がる柳の枝を掻き分け、太い木の根元に腰を下ろした。ズキズキと襲い来る痛みと熱で視界がぼやける。地面にまで垂れ下がる柳の枝が、自分を隠してくれているような気がした。
「ちくしょう・・・」
晴生は苛立ちを含んだ声で呟いた。
もう戦う事はできない。ならば、敵に捕まる前にやるべき事は一つ。自ら死を迎える事だった。
町はもう焼け野原となり、炎が全てを焼き尽くしていく。空を飛ぶ爆撃機が絶えず爆弾を落とし、兵士達はその中で戦っている。日本中がそのような状況なのに、晴生がいるこの場所は静かだった。晴生は自嘲的な笑みを浮かべた。
此処なら、静かに死ぬことができそうだ。片手に握られた刀は、まだ肉を切る事はできそうだ。
背中を柳の木に預け、ずしりと重い刀を少しだけ持ち上げた。重い。これを心臓目掛けて上手く刺せれば死ねるだろうか。もし死ねなかったら、苦しむだけだ。それは避けたい。だが敵に捕まる選択も選びたくない。悩み、しばらく刀を眺めていると、急に強い風が吹いた。柳の枝が揺れ、晴生は視線を目の前に移した。そして、息を飲んだ。
目の前に、誰かがいた。柳の枝のせいでその姿はちゃんと見えない。見えたのは、こちらに手を伸ばす黒い影だけだった。
そこから、目の前が真っ暗になった。
耳もとで誰かの声がしたような気がする。言葉が聞き取れなかった。ぼそりと、か細い声だった。
はっとして目を開けた瞬間、腕のない左の袖を掴んでいる細い腕が見えた。
「!」
咄嗟に空いている方の手でその腕を掴んだ。腕の主はビクッと一瞬だけ震えた。掴んだ瞬間、少しだけゾッとした。細すぎる。強く握ったら折れてしまいそうなくらい、細い腕だった。
顔を上げて腕の主の顔を見た。柳の枝の隙間から、幼い子供の顔が見えた。鼻から顎までを白いマスクで覆い隠している子供だった。
どうしてこんな所に子供が・・・?そう思いながら、子供の姿を観察する。
晴生は見たことない服を身につけている事に違和感を持ったが、もっと違和感を持ったのはその子供がどこか、見覚えのある面影を持っていた。
「誰だお前は?避難してきたのか?」
声をかけるが、子供は喋らない。怯えているのだろう、唯一見える目はそう訴えていた。
晴生が手を離すと、子供は逃げると思ったが逃げなかった。掴まれた腕をさすりながら、晴生を見ていた。
晴生は自分の体を見た。そして驚いた。血だらけの服に変わりはないが、傷の痛みがない事に気づいたのはその時だった。右目と左腕はないが、血は出ていなかった。包帯のせいで見えないが、傷はほとんど塞がっていた。
今度は晴生が混乱した。そういえば、爆撃機の音もしない。あまりに静かだ。晴生は立ち上がり、枝を掻き分け町の方を見た。
焼け野原だったはずの町が、妙な形に変わっていた。家がたくさんあり、縦に長い建物が所々に見える。道を走っている奇妙な乗り物や、その脇を歩く人々の姿。晴生が最後に見た光景とは全く違う光景だった。ここは、日本なのか?焦る気持ちを抑えながら、自分に問う。答えはもちろん帰ってこなかった。
晴生は柳の木の前で立ち尽くしている子供の方に振り返った。子供は晴生の視線に気づいておそるおそる視線を合わせた。
「おい、ここはどこだ?日本じゃないのか?」
近づいてそう尋ねると、子供は後ずさりした。その行動に晴生も動きを止める。完全に怖がっている。どうしたらいいかわからず、動かずに尋ねた。
「大丈夫だ、怖がらなくていい。ただ、ここはどこか知りたいだけだ」
子供はおどおどしていたが、晴生に近づいてきた。晴生が意味もわからずに見ていると、子供は晴生に向かって掌を差し出してきた。
意味がわからずに首を傾げると、急に子供は晴生の右手を取って手のひらに指先で何かなぞるような動きをした。
「?何が言いたいんだ?」
晴生がそう言うと、子供はもう一度同じ指の動きをした。それが、文字をなぞっている動きだとふと気づいた。
この子供は喋れないのだ。手のひらに文字を書いて答えようとしているんだ。晴生は指の感触で文字を理解しようとした。
てのひらに感じた文字は、ちゃんと日本語だった。
『ここは にほん です』
「日本?日本だと?」
脳裏に燃えた町や人の焼ける匂い、痛みと熱を思い出した。記憶と目の前の光景が一致しない。目眩がしてふらつく。立っているのがやっとだった。
戦争は?此処が日本だと?疑いと不安、焦りが心の中を掻き回した。
くらくらする頭を押さた時、また左の袖を掴むのを感じた。子供が袖を握って不安げな目で見ていた。大丈夫?とでも言いたげな顔だった。
「ああ・・・すまん、混乱してな。お前、喋れねぇのか?」
頭を撫でてやろうと子供の頭に手を伸ばした。
その瞬間、子供が両腕をあげて頭を守るような姿勢をとった。晴生は思わず手を引っ込めた。
「わ、悪い。びっくりさせたか?」
子供は晴生を見て小さく首をふった。だが、反射的に自分の身を守る行動だったと晴生は気づいていた。晴生の周りの子供では、見なかった光景だが訓練の時などで見た事がある。晴生はこの子供に様々な違和感を持った。
「その、悪いんだが頼みがある」
晴生が声をかけると、子供は腕を下ろして晴生を見た。
今ここにいても意味がない。帰る場所もわからない。頼れるのは、この子供だけだ。
「かくまってくれないか?ここがどこかもわからなくて、困ってるんだ」
沈黙が流れた。
子供は最初迷っているような顔をしていたが、やがて晴生の袖を取ってある方向を指差した。石段の方だった。
どうやら連れて行ってくれるらしい。軽く袖を引っ張られ、晴生は子供と一緒に歩き出した。どこかでカラスの鳴き声が聞こえた。真っ赤な夕日が足元を照らしていた。まるで炎の色のようだ。
最後に柳の木の方に振り返る。そこには何もなく、幽霊でも出そうな不気味な木があるだけだった。