troublesome
「面倒くせぇ」
俺の口癖。
生きるのも、死ぬのも、他人と関わりを持つのも、関わりを絶つのも、他にも色々と面倒くせぇ。
学校の屋上を吹き抜ける冷たい風が、仰向けで横になっている俺の頬を、手を吹き抜けていく。寒い。けど、暖かくなるような処置をとるのも、屋上から去るのも……
「面倒くせぇ」
今日発した言葉の半分以上を占めてるんじゃないかってほど言った口癖。まぁ、実際面倒くせぇんだから仕方が無い。気持ち悪いくらい雲一つ無い青空を眺めながら、そんなことを考える。
「雲になりてぇ」
面倒くせぇ、の次に良く使うと思う俺の口癖。
雲は良い。何も考えず、空を漂っているだけだから。
だから、雲が好きな俺にとって、雲一つ無い今のような空は嫌いだ。
大きな、限り無く拡がる空も、何故だかとても狭く、窮屈なように思える。「やっぱり、ここにいたのね。隼人」
頭上、つまり屋上の入口の方から聞き慣れた声が響く。
俺は答えないまま、ただ漠然と窮屈な空を眺めていた。
空を遮るように、見慣れた人影が俺の頭上に立ち塞がる。
絶つのも面倒なので、適当に関わりを持っている人物、羽深内佐代子。それがこいつの名前。まぁ、世間一般に言う友人というやつだろう。
「羽深内か。何か用か?」
俺はヒラヒラした布の下から覗く白い布切れを眺めながら、訊ねた。
「あんた、またサボり?」
「あぁ、面倒くせぇからな。ってか、お前もだろ」
俺の視界から白い布切れが消え、佐代子は俺の隣りに寝転んだ。少し残念だと思ってしまった。面倒くせぇな。
「私は隼人を連れ戻すって名目で授業を抜け出してきたの」
佐代子は空を眺めながら、答えた。「じゃあ、連れ戻さないのか?」
確か、今は古典の時間だ。
古典の先生は萩原だったか。
萩原も甘いな。
俺が来るはずも無いって、どうせ分かってるはずだ。佐代子がサボりの口実に使ってるってことも。分かってても、許したのはこいつの容姿のせいだろう。大きく綺麗な瞳を潤わせ、某CMのチワワのように佐代子はいつも男に頼み事をしている。そのせいか同姓から嫌われている。だから、女って面倒くせぇんだよな。
「連れ戻される気無いでしょ?」
佐代子の少し笑ったような声が隣りから響いてくる。
「あぁ」
佐代子はまた今日のことでいっそうクラスの女に嫌われただろう。そこまでして授業をサボりたいのだろうか?まぁ、面倒くせぇし、俺には関係無いことだが。
「やっぱりね」
そう言うと、佐代子はゆっくりと起き上がった。
佐代子は立ち上がり、大きく伸びをした。また、俺の視界に白い布切れが入ってくる。
「雲一つ無い空って良いよね」
佐代子は俺と正反対のことを満面の笑みで言った。「俺は嫌いだ」
ゆっくりと起き上がり、答える。
壊れかけたフェンスを眺めながら、小さく溜息を吐いた。
「何で?」
佐代子は不思議そうに首を傾げ、訊ねてくる。
佐代子は自分の意見と違う人に、毎回理由を訊ねるつもりだろうか。面倒くせぇ。
「雲が無いから」
簡潔に答え、俺は立ち上がる。尻の部分を軽くはたき、俺はフェンスへと歩み寄る。
「あぁね。そういえば隼人って雲みたいだもんね」
佐代子の明るい言葉に、俺は足を止め、振り返った。
「雲みたい?俺がか?」
「そっ。何て言うか、何事にも囚われず、自分のまま、生きてるっていうか」
佐代子は少し困ったような表情を浮かべ、答えた。恐らくは詳しくは考えず、何の気兼ねも無く、言った言葉のだろう。
「……」
俺は確かに何事にも囚われずに生きているように見えるかもしれない。だけど、それは違う。
「人間はみんな何かに囚われてるんだよ。俺はただ、自分を囚われているものの正体を見ようとしてないだけなんだ」
自分でも言っていて、良く分からない。ただ、何となく自然にそんな言葉を発していた。 佐代子は再び困ったような表情を浮かべた後で、満面の笑みに変えた。
「良く分かんないけど、私は隼人みたいに生きたいな。誰にも嫌われずに、自分のやりたいように」
佐代子は笑っていた。でも、何故かその表情はとても寂しいもののように思えた。
佐代子は自分の好きなようには生きているように見える。しかし、その結果女子に嫌われている。自業自得といったらそれまでだが、男に助けを求めるのがそんなに悪いことなのだろうか?面倒くせぇし、良く分かんねーけど。
その点、自分で言うのも何だが俺は嫌われていないだろう。しかし、誰にも好かれてもいないだろう。だが、佐代子は男子には好かれている。
誰にも嫌われていないが、誰にも好かれていない俺。女子に嫌われているが、男子に好かれている佐代子。どっちの生き方が良いか何て分からない。そんなこと考えるなんて面倒くせぇし、答えなんて出て来ないだろう。「少なくとも、俺はお前のこと嫌いでは無いよ」
俺が佐代子にかけられる言葉はこんくらいしか無い。他のちゃんとした慰めの言葉を言ったって、どうせ一時凌ぎにしかならないだろう。
「……ありがと」
佐代子の表情から少しだが、寂しさが消えたように見えた。
俺は佐代子へと背中を向け、フェンスへと寄り掛かり、校庭を眺める。
その時、グラリと俺の体が傾いた。
「隼人!」
佐代子の叫びを背中に受けながら、俺は体が宙に浮くのを感じた。体を反転させ、何とか屋上の床を右手で掴む。右手に痺れるような激痛がはしる。
下からはフェンスが地面に落ちる音が響いてきた。
「くっ」
右手一本で自分の体重を支えるのはキツい。ゆっくりと左手を伸ばす。その間も右手からは力が抜けていく。
駄目だ。そう思った瞬間、俺の右手は屋上から離れた。 重力に従って、俺の体は落ちていくはずだった。しかし、俺の体は宙にぶら下がったまま、止まっていた。
下で騒いでいる人達の声を聞きながら、俺は視線をあげた。そこには、両手で俺の右手を掴んでいる佐代子の姿があった。
「何やってんだよ!お前まで落ちるぞ!手を放せ!」
こんな大声で叫んだのは久しぶりだ。
俺の叫びに佐代子はかぶりを振り、涙の浮かぶ瞳で俺を見た。
「そんなことしたら隼人が落ちちゃうじゃない!」
誰かのこんなに悲痛な叫びを聞いたのは初めてかもしれない。
面倒くせぇな。俺が死んでも、悲しむやつなんかいないんだ。家族もいないし、誰からも好かれてないんだからな。それに……、あぁっ!面倒くせぇ!
「俺は良いんだよ!だから、放せ!」
「嫌よ!」
佐代子の体がゆっくりとだが、確実に俺の方へと引っ張られてくる。 くそっ!俺は左手を伸ばすが、屋上には届かない。
「ぐっ!」
佐代子の口から小さな苦痛の声が漏れる。
俺は再び左手を伸ばし、佐代子の手を叩いた。
「っ!」
佐代子の手から力が抜け、その隙に俺は佐代子の手を振り払った。重力に従って、俺の体は落ちていく。
「隼人ー!」
佐代子の悲痛な叫びが頭上から響いてくる。
なぁ、佐代子。俺はお前のこと好きだったんだぜ。面倒くせぇから、言わなかったけどな。
だから、だからお前には死んでほしくないんだ。
あぁ、こんなことならお前に言っとくべきだったかな?好きだって。でも、面倒くせぇし、それに……言ってあったら、お前をより悲しませることになってたよな。言わなくて良かったのか。
もうすぐ地面だろう。
「さよなら、佐代子」
そのまま俺は地面に叩き付け……られなかった。 俺の全身を包み込む布の感覚。それはとても柔らかくて、俺の全身を包み込んだ。
目の前に拡がるのは青い空、そして……数人の先生の顔。
俺はゆっくりと起き上がり、辺りを眺めた。俺は青色の分厚いマットのようなものの上にいた。隣りにはひしゃげたフェンスが落ちている。
「何とか間に合って、良かった。これは緊急用のマットなんだよ」
確か校長先生だっただろうか。髭を生やした、優しそうな先生は、優しい笑顔を浮かべた。
体の所々が軽く痛むが、大したことは無い。上を見てみると、数人の人影がこちらを見下ろしていた。
「無事だー」
一人の先生が、屋上に向かって叫んだ。
俺は立ち上がり、校長先生を見る。
面倒くせぇけど、ここはやっぱり謝るべきだよな。
「お騒がせしてスイマセンでした」
「良いんだよ。それに君が無事で何よりだよ」
下げた俺の頭を、校長先生は優しく数回撫でてくれた。
「それにしても奇跡としか言い様が無いね。鞭打ち症にもなってないみたいだし、どこか異常は無いかい?」
校長先生が他の先生と話しに言った後、今度は白衣を着た保健の先生が訊ねてきた。「特には」
俺は答え、ふと考える。
本当に奇跡としか言い様が無いよな。マットがあったとはいえ、屋上から落ちたのに無傷なんて。
「きっと君には幸運の女神がついているんだね」
保健の先生はそんなことを言って、笑った。
視界の脇に校舎から佐代子が駆け出してくるのが見えた。
俺は保健の先生へと視線を向け、
「そうですね」
満面の笑みで答えた。心から笑えたのなんて、何年ぶりだろうか。
幸運の女神はいるかもしれない。少なくとも俺にとっての幸運の女神はすぐ側にいる。大きな瞳に涙を浮かべ、女神はこちらへと走ってくる。
「良かったぁー、隼人ぉー」
女神はそう言いながら、俺に抱き付いてきた。周りからの先生の視線が痛いが、面倒くせぇから振り払うことはしない。
そう。俺も抱き付いていたいからではなく、面倒くせぇからなんだからな。誤解するなよ。「なぁ」
俺は腕の中で安心したような表情の佐代子を抱き締めながら、呼び掛けた。
「何?」
「……す……」
好きだ。そう言いたいのに、その先が言えない。
「す?」
チワワのような瞳で、佐代子は首を傾げた。
「す……スカートの下から、パンツが見えてたんだぜ。屋上で数回な」
とうとう言えなかった。でも、それも良いかもしれない。面倒くせぇしな。
「なっ!」
佐代子は勢い良く俺から離れ、真っ赤な顔で俺を睨み付けてくる。
ここで好きだって言えば、佐代子の顔はもっと紅くなるのだろう。けど、言わない。面倒くせぇからな。
背後からはパトカーか救急車か分からないが、何かのサイレンの音が聞こえてくる。
「一応検査の為、救急車で病院に行ってくれるかな?」
保健の先生が佐代子を宥めながら、訊ねてきた。
「はい」
俺は頷いた後、ゆっくりと空を見上げた。 この雲一つ無い青空を好きになれた時は、面倒くせぇけど言ってやるか。
佐代子が好きだって。
でも、やっぱり……
「面倒くせぇな」