第一話・第二幕
昼下がりの午後、秋斗は件の現場に居た。
「……なるほどな、写真だけじゃ解らない事も多い。見に来て正解だった」
彼の視線の先にはコンクリートの壁。そこには、写真には写っていなかった爪跡らしき痕跡が残っていた。
「牙も脅威だが、この痕跡からすると爪の長さも相当……ちょっと厄介だな」
「おいこら、秋坊!」
突然後ろから掛けられた自分を呼ぶ声に振り向くと、そこにはスーツを着込んだ強面でオールバックの男性……藤堂冬樹が立っていた。
「なんだ、藤堂さんか」
「なんだじゃないだろうが、ここは立ち入り禁止だぞ」
冬樹の言葉に秋斗は肩をすくめて応える。
「そんな事言ったって、この事件は藤堂さん達警察の手に負える物じゃないでしょう」
その言葉に冬樹は破顔し笑って答える。
「はっはっは!そりゃそうだ……だがな、警察には警察の体裁ってものがある。今は時間が悪いから、また後であそこに来い」
「解りました、一応直に確認したい事はもう終わりましたし……詳しい時間は?」
冬樹は少し考え込み、胸元から手帳を取り出してぺらぺらとめくる。予定を確認している様だった。
「そうだな、18時頃で良いか?」
黙ってうなずく秋斗。
「よし、じゃあまた後でな」
「ええ」
彼は短く答えて足早にその場を後にした。
18時を少し過ぎた頃……『デージー』の隅に秋斗と冬樹の姿はあった。
「おお、遅れてすまんな。上司の説教が長くてな」
「いえ、俺も今さっき着たばかりですから……また何かやらかしたんですか、藤堂さん」
席に座るや否や言い訳する冬樹に対し、冷たく言い放つ秋斗。
「お前なぁ、今日はお前さんの事なんだぞ?『一般人が現場に立ち入っているとは何事だ!』ってな」
「ああ……それは済みません」
少しばつが悪そうに答える秋斗に対し、冬樹は笑顔を向ける。
「まぁ気にするな、ヤツとしては俺を怒鳴りたいだけなんだろうからよ。それよりだ、これをどう思う?」
冬樹がポケットから取り出したのはジッパーつきの小さな小袋。それに入っていたのは犬の物と思わしき爪が数本……ただしサイズは異常に大きく、一本一本が長く、太く、鋭く、この爪が手に生え揃っている光景を想像すると鉤爪を連想させる程の物だった。
「……ちょっと見せてもらっていいですか?」
「ああ、構わんが……」
秋斗は手渡された爪の入った袋を手に取ると、袋の上から爪の両端を持ち、思い切り力を入れて折り曲げようとする。
「お、おい!大事な証拠品を……」
「大丈夫ですよ、俺の予想が正しければね」
その言葉通り、秋斗がどれだけ力を入れようとも爪は曲がりも折れもしない。
「やっぱり……」
「……何がやっぱりなの、秋斗?」
はっとして声がするほうを向くと、そこにはウエイトレス姿のポニーテールの女の子……赤木美春が、秋斗の頼んだサイダーの入ったグラスが乗ったトレイを持ち立っていた。
「また無茶な事したりするんじゃないでしょうね?」
「いや、まぁ……うん、多少」
その返事の直後、秋斗の目の前にサイダーの入ったグラスがどんと大きな音を立てて置かれる。
「そーお?この前私と約束したのを覚えてる?秋斗?」
「えっと…無理をしない、無茶をしない、大怪我しない、です」
にこにこと聞く美春に対し同じくにこにこと答える秋斗。しかし次の瞬間放たれた美春の平手打ちで、美春の表情は鬼のそれへと、秋斗の表情は驚きに変わり少し涙目になる。
「ばかっ!」
「あ、美春ちゃん俺コーヒーブラックでね~?」
足音のしそうな勢いで下がっていく美春の背に声を掛ける冬樹。そのまま目だけを動かして秋斗の方をチラッと見てにやける。
「今日も夫婦喧嘩は派手だねぇ」
「馬鹿言わないでください、何で美春と俺が……」
言いかける秋斗を、彼の方に向き直った冬樹が手で制する。その表情は真剣なそれに変わっていた。
「で、さっきの『やっぱり』ってのは何なんだ?」
「耳ざといですね」
ふぅと溜息をついて秋斗も表情を引き締める。
「これは明らかにあいつらの一種の物です。普通の動物の爪程度であれば、俺がどうこう出来ないなんて事まず有りませんから」
手にしたままの爪の入った小袋に視線を向け、声のトーンを少し下げて冬樹にだけ聞こえるような小声で続ける。
「恐らく、これを残したのは挑発か……さもなければ進化です」
「進化?」
合点が行かない風な冬樹の目を見据えて秋斗は続ける。
「現場に残っていた爪跡、ありましたよね?あれは自分の力を誇示する行為か……そうでなければ爪の生え変わりの為でしょう。この手のモノを持っている種は古い爪や牙が抜け落ちる時、猫の爪とぎの様な行為をする者も居ます。あの壁の痕がもしそれなら、この事件を起こしたヤツは、今頃更に鋭利で大きく長い爪を手に入れているでしょうね」
そこまで話してから手の内の小袋を冬樹に手渡す。
「警察の体裁、でしたっけ?それがある以上捜査は続けないとでしょうけど……無駄な犠牲者は出さないに越した事は無いと思います」
暗にこれ以上誰も関わらせるなと伝える秋斗に対し、冬樹は真剣な表情を崩さず答える。
「普通に考えればそうなんだがね。俺やお前さんや茅場の奴にとっての『普通』は、世間様の『普通』では無いのさ」
「よく知っています……だからせめて藤堂さんだけでも、と」
少しだけ心配げな表情を浮かべる秋斗に対し、苦笑いを浮かべる冬樹。
「お前、俺がそれを出来る人間だと思ってるのか?」
「……いえ」
冬樹と同じ様に苦笑いを浮かべる秋斗。
「なに、男二人で笑いあってるんですか」
いつの間にか現れた美春が、今度は冬樹の前に持ってきたコーヒーを置く。
「お、ありがとう美春ちゃん」
「いいえ、いつも御贔屓にしてくれてありがとうございます」
冬樹に笑顔で答えてから、今度は秋斗に向き直る美春。その表情は怒りとも悲しみとも取れない何とも言えない表情だった。
「あんまり心配させるんじゃないわよ……」
一瞬の沈黙の後。
「……解ってる」
目だけを向けて美春の表情を確認し、黙ってサイダーを一口、口にした後、ぽつりと呟いた。