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 その週の土曜日、僕はいつもの精神科に行った。病院は最寄りの停留所からバスで宇都宮の中心部とは反対方向に三十分程のところにある。周りには田畑と民家以外何も無く、辺鄙な田舎に場違いな程巨大な病院があるといった案配だ。僕は一ヶ月に一度この病院に通っている。尤もこれは惰性であって、殆ど病状が良くなった自覚は無い。薬を切らす訳にはいかないので、仕方なく通っている次第だ。そんな背景があってか、病院に向かう時間はひたすら憂鬱だ。何も考えられないくらい。

 病院のロビーは数多くの精神病患者が徘徊している。彼らのけたたましい叫喚はそこかしこから広闊な院内に鳴り響く。僕は隅にあるソファに深く腰掛けて、じっとしている。本を読もうとしてみたが、どうも集中できないので、それも止めてしまった。

(ここは僕の様な患者が来るべき病院では無いのでは?)

 そんな迷いを大分前から抱きつつ、それでも病院を変えるというのはよほど勇気のいる事で、僕はここにかれこれ半年近くも通っている。特にこの病院の院長は僕の勤めている会社の産業医で、会社からの紹介を経て来ている手前、尚更よそに移りづらい。

 名前が呼ばれると、僕は診察室に向かった。中では院長が肘掛け椅子にふんぞり返って待っている。院長はこの大きな病院の二代目で、跡取り息子である。四十歳くらいだろうか。その後ろに惚けた表情の看護婦が焦点の定まらない目線を何処かに流しながら立っている。何をしているのだろうか?

「どうですか調子は?」

「ええ、まあ何と言うか…抑鬱感がまだありますね」

「抑鬱感って言うと?」

「何と言うか、やる気が出ないと言いますか、とても憂鬱で…」

うまく説明できない。

「しかし、そんな事は誰にでもある事じゃないですか?」

「はあ、まあそうかも知れませんが…」

「では、そういう抑鬱感はどのくらいの周期で来ますか?」

「周期は…正直よく分かりません」

「ではずっと憂鬱なんですか?」

「いえ、まあ波はありますけれども…」

「だからその波の周期を聞いてるんです」

「まあ、一週間とかそれくらいですかね…」

「ええ!?」

院長は耳が悪いらしい。なるほど補聴器を付けている。僕はやむなく繰り返した。

「一週間くらいかと」

「一週間?ふん、君ね、鬱病ってそういう病気じゃありませんから。鬱病の周期は大体三ヶ月ってところですよ。いや、君が嘘を言ってるって言う事じゃなくてね。しかしだとすると一体何なんでしょうね?」

患者に聞かれても困る。だが禿げた院長は薄ら笑いを浮かべている。

「しかしですね、夜眠れない事もあるんですよ。そのせいで朝起きれなくなって、会社にも迷惑をかけているんです」

「夜は何時に寝ているの?」

「まあ日によりますけど、十二時くらいには寝るようにしています」

「それだったらもう少し早く寝れば良いじゃないですか?」

「…」

僕は絶句した。僕がもっとうまく説明できていたら良かったのだろうか?どうも分かってもらえた気がしない。

「何なんでしょうね?まあとりあえず前回と同じ薬をお出ししておきますから。お大事に」

僕は診察室を出た。病院で診察をしてもらう事で、何か進展があったのだろうか?そんな疑問が拭いきれない。徒労感だけが残る。しかし今となってはこれも慣習化してしまって、「まあいいか」の一言で心から消し去ってしまえる様になった。僕は日差しを浴びながら病院の入口付近にあるベンチに座って、煙草を吸った。不味い。脳の血管が収縮して、周りの景色が歪んで見える。僕の身体はどうなっているのだろうか?閑静な田舎道には車一台通らず、甲高い小鳥のさえずりだけが陽光の煌めきの中で響き渡っている。

 いつの間にか、隣に寝間着姿の老人が座っている。この病院の入院患者だろうか?老人と二人で無言のまま煙草を吸っていると、遠く世俗から離れてしまった自分に気が付いた。休日に精神病院のベンチで老人と二人で煙草を吸っている二十代が一体どのくらいいるだろうか?まあ世界に一人という訳じゃないだろうけど、恐らくそんなにいない筈だ。今頃僕の同期達は何をしているだろう?友達と遊んでいるだろうか?休日出勤に追われているだろうか?恋人と充実した時間を過ごしているだろうか?

 そう言えば川村さんはどうしているだろう?僕は何だか恥ずかしくなって来た。とてもじゃないが、彼女に今の姿は見せられない。僕はもうここから戻れないのだろうか?とても淋しい。

 煙草を吸った後、僕は砂利の散らばった田舎道をゆっくりとバス停に向かって歩いた。遠くに山々の稜線が連なっている。何だか自分のいるべき場所からとても遠くにいる様な心細さを感じた。

(僕はここにいていいのだろうか?いたくもないここに)

 静けさの中で、僕の孤独は一層浮き立った。しかしそれは普段感じている不自然な、自分の存在が周囲から全く認識されない、透明な孤独ではなく、そこにあるべくしてある、自然な、あまりにも周囲の環境に馴染んだ孤独だった。孤独すら認識されない程の空虚な街。僕はもうここに来るべきではないと思った。

 後日、僕はもう一度この病院を訪れ、院長には会わずに看護婦を通して紹介状をもらい、街中の病院に移る事にした。やってしまえば、何故今までそうしなかったのかと不思議に思う様になった。次の病院では、薬の種類から診療の方法までがらりと変わった。今までの治療が全く見当違いであった事が判明したのだ。僕は今まで何をしていたのだろうか?いや、怠けていたのだ。弁疏の余地もない。病院を変える事くらいいつだって出来た筈なのだ。要するに僕は真っ当に治療する気力すらも失っていたのだ。申し訳ない。僕は以前の病院のヤブ医者を恨む気にもなれなかった。

 翌日は例のメンタープログラムのキックオフだった。川村さんと僕、そして三人の新人が会議室に集まった。新人は男二人、女一人の組み合わせだ。僕らは会議室のテーブルを挟んで対座したが、話す事など何も無い。

「会社に入って何か困ってる事とかない?」

僕は新人に聞いてみるが、彼らは首をひねるばかりで何も浮かばない様子だ。それはそうだろう。いきなりそんな質問をされても困るに違いない。こうなる事は最初から予想していた。

「じゃあ最初なんで、自己紹介をしようか」

僕らは順番に当たり障りの無い自己紹介をした。出身地、部署、趣味…。退屈だ。ここから何も進展しない気がするのは僕だけだろうか?

「じゃあ次回からは業務改善について何か課題を考えておくから、それについて議論しよう」

そうは言ったものの、一体何を業務改善すれば良いのだろう?僕は何の予定も無いまま問題を先送りした。川村さんは黙って微笑んでいた。

 後日このメンバーで懇親会を開く事になった。僕は幹事だったので、店を予約して皆を招待した。会社の近くのお好み焼き屋で、美味しいと評判の店だった。僕も何回か訪れた事があるが、料理も美味いし、店内も広めで、宴会に丁度良さそうだった。

 その日の夜、僕が仕事で遅れてその店に行くと、既に新人と川村さんが座って待っていた。皆既に酒を手元に置いていた。新人の女子一人は烏龍茶を啜っている。

「あれ、酒飲めないの?」

僕は彼女に問うた。

「いえ、そういう訳じゃないんですけど、明日も仕事ですし」

最近の新人はしっかり者だ。

 僕は川村さんの隣に座って上着を脱ぎ、ビールを頼んだ。酒は飲まない様にしているが、さすがに幹事が酒を飲まないと盛り上がらないだろうと思ったのだ。川村さんはもうジョッキのビールを半分程飲んでしまっているが、顔色一つ変わっていない。相変わらず強い。

 僕のビールが運ばれてくると、僕らは乾杯した。乾杯の挨拶は僕がやった。とても凡庸な挨拶だったが、ちょっとはそれらしくなった。僕らは杯をあおる。まるでその瞬間だけは沈黙が許されているかの様に、張りつめた沈黙がその場を領した。

 やがて料理が運ばれてくる。広島風お好み焼き、サラダ、長芋、イカ、その他名前のよく分からない料理…。テーブルはあっという間に食器で埋め尽くされた。だが僕はそのどれにも手をつけなかった。自分の分は殆ど若い男子二人にくれてやった。食欲が無かったというのもあるが、この場の空気を白けたものにしない様必死で、それどころではなかったのだ。

 僕は太宰治の『人間失格』を思い出した。僕は今正に道化だった。欺瞞的快活さを以て必死に沈黙を阻止し、それでも沈黙が出来てしまうと慌てて食べ物を口に入れ、あたかも沈黙の理由が食事を口にしているからである様な素振りを見せるのだ。食べたいと思って食べている訳ではないのだ。

 それでも僕はある程度その場の空気をそれらしくする事に成功した。宴会時間の恐らく八割五分程度は会話で満たせただろう。ただその会話は空疎だった。川の水の様に、会話は何の意味も情熱も持たず、ただひたすら無表情に流れていくのであった。

「休日はいつも何をしているの?」

ある程度時間が経ったにも拘らず、相変わらずこんなつまらない質問を僕は続けた。

「家でパソコンをやっています」

「本を読んでますかね」

「音楽とか聴いています」

何も面白くない。全てが単発で終わってしまい、長続きがしない。懇親会というよりは集団面接のようだ。

「音楽って何聴いてるの?」

川村さんが酒の影響で饒舌になっているのが救いだった。彼女は相当酒を飲んでいたが、僕の事をしっかりフォローしてくれた。男を立てるタイプなのかも知れない。そう思うと川村さんがとても頼もしく思えた。

(僕もこの人とならやっていけるかも知れないな)

僕はそんな甘えた感情を抱くに至っていた。僕は時折川村さんの嫣然とした微笑みを横から盗み見ながら、彼女と結婚し、家庭を築き、子供を作り、家計に頭を悩ませ、夫婦喧嘩をして、老後を過ごして、と言った様な気の早い妄想を胸中に巡らせていた。

 宴会の終了間際、川村さんが唐突に言った。

「ねえ、これからカラオケに行かない?一時間だけ」

さすがに少し酔っているようだった。僕は彼女の提案をそのまま新人に向けて流した。

「いいですよ」

「行きましょう」

「まあ、十二時までなら…」

結局僕らは二次会でカラオケに行く事になった。僕は電話でタクシーを呼んだ。田舎なので、最寄りのカラオケ店と言っても相当の距離があるのだ。しかし全く予想だにしなかった展開だ。だがこれは僕にとって嬉しいハプニングではあった。なぜならこの提案の中に川村さんの孤独を垣間見た様な気がしたからだ。強く見える彼女。だが実は彼女も毎晩孤独を噛み締めて眠っているのではなかろうか?そんな疑念は僕の心の隙間をそっと埋めた。磁石の針が振れる様に、孤独は孤独に惹き付けられるのが常であるようだ。孤独同士が寄り添う時に、それらは孤独でなくなり、ひょっとすると愛に変わったりするのかも知れない。

 僕らはタクシーで近くのカラオケボックスに行った。カラオケなど随分久しぶりだった。僕はカラオケという行為が苦手だ。と言っても決して歌が歌えない訳ではなく、あの嫌でも盛り上がらなければならない雰囲気が嫌いなのだ。いや、もっと正確に言うと、そういう雰囲気を作ってしまう自分が嫌いということだ。本当に自己嫌悪に陥ってしまうくらいに、僕は必死で、何者かに追われる様に盛り上げる事を優先してしまう。その為に全てをかなぐり捨ててしまう。そして最後には大変な自己嫌悪に陥る。これがとても辛い。しかし辛いと分かっていてもそうせざるを得ないのだ。僕はとても臆病だから。

 部屋に入ると、僕らは酒を頼んだ。川村さんはカルーアミルクを頼んでいた。先ほどまでビールやハイボールばかりだった彼女は、ここに来て急に女らしくなった様に感じた。僕は何らかの凶兆を感じながらも、彼女を喜ばせたいと一心に思った。

 意外に思われるかも知れないけれども、僕は歌いながら踊るのが得意だ。得意とは言っても、大して上手い訳じゃないが、カラオケに行く度にやっていたら少し出来る様になったのだ。普段の僕とかなりのギャップがあるせいか、ほぼ間違いなく笑いを取れる。僕はその時川村さんに笑って欲しかった。新人の前ではしゃぐのは先輩の威厳が瓦解してしまう様な気もしたが、その時の僕にとってそんなものは二の次だった。とにかく彼女の孤独を癒さなければ、という使命感の様なものが僕の胸奥を塞いでいた。

 僕は曲を入れてマイクを握った。『ビリー・ジーン』だ。最初のパターンは何とかできた。歓声があがる。しかし足が上がらないし、それ以前に大分振り付けを忘れている。思い出せないところは笑いで誤摩化す。ご愛嬌だ。キーが高くて声がでないところはファルセットで補う。ターンを決める。これは何とかなった。だがつま先立ちは無理だ。省略。帽子も無いので、それも省略。最後はムーンウォークだ。これさえ出来ればいい。終わり良ければ全て良しだ。つま先立ちをしながら後ろ足を地面にくっつけて滑らせる。何とかできた。

「おおー」

という驚嘆が聞こえて来た。まずまずだろう。気が付いたら川村さんは手拍子を打ってくれていた。無邪気にはしゃぐ彼女は、とても楽しそうだ。よかった。僕はそんな喜びと共に、何だかとてつもない恥ずかしさを感じた。多分今までは夢中で、羞恥心すら無くしていたのだろう。それが終わった後に一気にこみ上げて来た。受験生が試験後に熱を出すのと一緒だ。

 僕はその時に決心したのだ。

(近いうちに川村さんに告白しよう)

と。愛する人の幸福の為に、身体を張って全てを捨てる事の悦びを知ってしまった。犠牲への憧憬。人間死ぬときもその道中で死ぬべきだ。僕はもう待つ事は出来ない。これの為に生きるならば、少しくらいは僕にも存在意義が付与される様な気がした。忘れていた純粋な気持ち。そうだ。僕はもう一度現実世界に戻るんだ。つまらない妄執の中に生きるのはもう止めにしよう。

 結局その日は十二時近くまで歌い続け、その後はタクシーで新人を送りつつ帰宅した。川村さんは実家暮らしなので、家から迎えが来ていた。


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