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 翌朝、浅い眠りから目が覚めた。何となく怠いが、寝坊はしなくて済みそうだ。僕はスーツを着て鞄を引っ掴み、家を出た。最寄りのバス停から宇都宮駅行きのバスに乗った。バスに揺られていると、吐き気がした。と言っても単なる睡眠不足による乗り物酔いで、意味の無い吐き気だ。僕は冷や汗を流しながら、やっとの事で宇都宮駅に到着した。

 新幹線のホームは東京方面に向かうビジネスマンで混雑している。僕は喫煙室に行って煙草を吸った。朝一番の煙草は身にこたえる。すすけたガラス越しに対面のホームを見ていると、緩慢な日差しに視線を遮られた。目眩がした。喫煙室のエアコンはヤニで黄色く汚れており、そこにいる者に淀んだ空気を送っていた。僕は早々に喫煙室を出て、整然と並んでいる電車待ちの列の最後尾に並んだ。隣のビジネスマンは立ったまま新聞を読んでいる。僕に新聞を読む習慣は無い。つまらない文章は嫌いなのだ。僕は持ってきた本を鞄から引っ張り出して読んだ。サルトルの『嘔吐』だ。僕は主人公のロカンタンに自分を重ねあわせた。

「それではなぜ書いていらっしゃるのですか?」

「ええと…何と言うか、まあ、書くためですね」

そうだ。書くためなら書いても構わないのだ。人間は自己目的化した手段の為に生きる他無いのだ。なぜなら人間は死ぬ為に生きるのではなく、生きる為に生きるのだから。

 新幹線がホームに滑り込んできた。僕はそれに乗り込み、自由席で空いている席を探した。隣の座席に荷物を置いている輩に嫌悪感を覚えた。しかしそれは何故だろう?彼らが乗車料金以上の便益を享受しているからだろうか?いや、自分が座れないからだ。僕の利己的な考え方は結局彼らと同類だった。ドングリの背比べ。しかしそれは正当であった。全ての憤怒は正当だ。僕はもっと思い通りにならない事に対して怒るべきだ。しかし僕は何も言えずに空いている席を見つけ、いそいそとそこに座った。僕は思想と行動がいつも一致しない。

 僕は席に座るとすぐに、売店で買ったサンドウィッチを食べて朝の薬を飲んだ。ちょうどいい時間だ。正直薬に効果があるかどうかは分からない。しかしちょっとした気休めにはなった。そのせいか少し体調が良くなった気がした。僕は本を読みながらうとうとと眠った。後方に流れる窓の外の景色は、時の流れを感じさせた。若かりし時はこうして無為に過ぎてゆく。

 目が覚めると、もうすぐ東京だった。睡眠のお陰で、僕は倦怠を免れたのだ。今日は何故だかとても調子が良いと思った。してみると僕は睡眠不足が原因で調子が悪かったのではない訳だ。

 東京に降り立つと、僕は久々の都会の喧噪に酔った。人混みに紛れると、自己顕示欲が高まる。僕は幼稚で馬鹿な男だ。そのくせ僕は凡庸だった。かと言って凡庸過ぎる訳ではなかった。僕は自分の中途半端な凡庸さに憤怒と失望感を催し、俯きながら早足で歩いた。しかしかき分けてもかき分けても襲い来る人波。この人の数だけ人間の交接がある。結実しないものまで含めたら、世界はそれだけで溢れてしまうのではないか?人間というのはつまるところこれなのだ。明らかに狂っている。狂っているよ、母さん。僕は自分の下半身を見下ろした。そこには不能となった一物が小動物の死骸の様に丸く縮こまっていた。

 やはり東京は肌に合わないようだった。暗い緑と赤の靄が立ちこめる陰鬱な街の空気の向こうに、高層ビルが聳然と櫛比している。僕はこれらを軽蔑の眼差しで仰いだ。しかしそれはとても凡庸な態度で、僕はまた失望した。この街に期待するところなど何も無い。うだる様な暑さの中、僕は飯田橋の東京本社に向かった。

 飯田橋は懐かしい街ではあった。ただ雑然とした街並やヘドロの溜まった川が汚らしく思えた。一年前の僕はこの街に汚穢されていた。今考えれば良く生きていたものだと思う。今では身体中を異質物で満たした様な不自然さを覚える。そもそも、世の中にこれほどの数の人間が必要だろうか?しかも彼らときたら一人残らず他人に対して不寛容で、互いに共存しあえる関係ではなかったのだ。僕は不意に川村さんの底知れぬ寛容さを思い出しながら、彼女にどうしようもなく会いたくなった。人間の関係に必要なのは、分かりあう事ではなく寛容さだ。互いの愚かさを許しあえる寛容さだ。そこには多分世間から疎外された有象無象をも生かし得る場所がある。でも僕はどうだろうか?やはり不寛容かも知れない。

 駅前の交差点の横断歩道を渡るとき、僕は森口さんに会った。

「よう木村、おはよう」

後ろから声をかけられた僕は慌てて振り向くと、自分の声とは思えぬ甲高い声で挨拶を返した。

「あ、おはようございます!」

僕は横断歩道の真ん中で平身低頭と頭を下げた。

「東京はやっぱ暑いな。まあ雨降りよりましか」

森口さんはハンカチで額の汗を拭いながら言う。

「ええ、そうですね」

また言ってしまった。しかし他にどう返しようがあるだろう?僕には分からなかった。

 それから東京本社の社屋に着くまで、沈黙が続いた。僕はこう言う何気ない沈黙が恐ろしくて仕方が無い。近頃の若者の傾向として「世間話が出来ない」という悩みを抱えている人が多いと聞いた事がある。恐らくそれと似た様なものだろう。僕は絶えず自分の発すべき言葉とそれを発言する権利の所在を探っていた。しかし探れば探る程僕には何の発言も許されてはいない事を知るばかりだった。そればかりか無断欠勤を繰り返している僕の様な人間がこうしてスーツを着て人並みに歩いている事すらがおこがましく思えた。僕の痼疾はこうして何気ない沈黙の隙間から度々顔を出し、僕を嘲笑して止まないのであった。

 暫く路地を歩いていると、東京本社に着いた。僕が以前勤めていた職場だ。その様子は、匂いまでがあの頃から何も変わっていなかった。目の前に自動扉から建物に入る若者がいた。僕はそこにあの頃の自分を見た。肩を落として寝ぼけ眼で、そして社会の歯車になってしまった自分に納得しきれていないいじらしい姿を。その背中は彼の背丈の割にとても小さく見えた。僕は不意に「永劫回帰」という言葉を思い出した。人生は大同小異。同じことの繰り返しだ。森口さんに続いて、僕は無言でその建物に入っていった。

 僕が以前働いていたオフィスはその建物の四階にあった。森口さんと僕が向かったのは五階である。エレベーターに乗ると、僕は五階のボタンを押して、ドアを閉めた。エレベーターが上昇し、目的の階に近づいていく。沈黙の犇めくエレベーターの中で、僕は心臓を高鳴らせた。

(もし五階に着く前に四階に止まって、誰かが乗ってきたら…。しかもそれが過去の僕を知る連中で、僕を見るなりあの恐ろしい薄ら笑いを浮かべる様な事があったら…。ああ、僕を面罵し、軽蔑し、僕の存在価値のなさを極めて滑稽な手段で証明したあいつらに会ってしまったら!)

僕は前の職場でいじめられていたのだった。僕は不安で終始俯いたままだった。エレベーターは僕の不安をよそに、四階を通過する。その時の僕はまるで放火魔が火事場を通り過ぎる時の様な、疾しい興奮と密かな罪業の悦びに満たされていた。

 会議室に着くと、部署の先輩方が既に到着していた。白い壁、青い椅子。殺風景な会議室だ。この会議室でよく三白眼の怖い上司に怒鳴られていたっけ。そんな回想に吐き気を催し、僕はそれに突き動かされる様な形で、いそいそとプロジェクターや資料の準備を始めた。

 会議の準備が整い、正午を過ぎると、会議室には名だたるお偉いさん達が続々と集まってきた。たちまち部屋が彼らの加齢臭で満たされる。恐らく十人くらいである。皆白髪の年配者であり、仕立ての良いスーツやら金の腕時計やら、それから宝石めいたカフスボタンといった上等な身なりをしていた。社外の人もいる。僕は彼らと恭しく名刺交換をしつつ、卑屈な笑いを顔面に貼り付け、挨拶をした。中には以前から顔を見知った人もいて、

「やあ、最近見ないと思ったら、今度はこの部署に異動したんだね」

と声をかけてくれた人もいた。僕はその度に愛想笑いをして、

「ええ、その節はお世話になりました」

と言って頭を下げていた。僕はもう限界だった。目上の人に卑屈な媚態を示す事に、とても耐えられないのだ。しかしこれが生きる為に最も必要とされる能力だという事も分かっている。いつになっても、どこへ行こうとも、結局はこれだった。

(もういいよ)

そのときふと自分の内側からそんな声が漏れた。権力への追従。それは僕にとってもはや忌むべきものではなかった。生きる為に生きる者にとって、ポリシーやイデオロギーなど邪魔なだけだ。なぜなら生きてさえいれば生き方などどうでも良いからだ。成長など必要ない。優しく、強く、美しく、逞しく…。そんな無茶をもはや言うまい。食事をする様に、空気を吸う様に、人間は権力に追従しなければ生きられないのだ。僕は精一杯彼らに媚びながら、昼食会で出された食べた事も無いくらい上等な弁当を残らず平らげた。ただ脂っこい食事は気怠い午後の前兆の様に思われた。

 夜になって退屈な会議が終わると、会社近くの居酒屋での懇親会が待っていた。僕は内心辟易しながらもそれに出席した。

 仄暗い居酒屋の一隅を占めて、懇親会が始まった。懇親会と言っても僕の様な若手は始終他のお偉いさんの注文を聞き、酒を注ぎ、水割りが無いとか言われれば慣れない手つきで水割りを作り、あたふたとかけずり回っているだけだった。生臭い空気と淀んだ薄明かりの立ちこめる中、老人達の乱痴気騒ぎはいつになっても止む気配がない。三時間経ち、四時間経ち、僕はさすがに長過ぎると思った。しかし僕はこんな中にあっていささかの疲労も感じてはいなかった。それどころか、生きるというのは正にこういう事だ、という諦めの混じった結論が朧げながら見えてきていて、僕はその事に興奮すらしていた。これでいい。これで僕も生きられるのだ。何も難しい事なんてありゃしない。悩む必要なんてさらさらない。真面目に考えるだけ馬鹿らしいというものだ。そして僕はこの馬鹿げた地上の摂理に従い、這いつくばり、しかもその為に生きる。ひたすら下卑た、卑屈なこの姿。この世にこれ以上高尚なものなんか一つとしてありはしないのだ。

 やっと一次会が終わった。次はすぐそこの居酒屋で二次会があるらしかった。時刻はもう十時近く、終電間際だ。僕はどうにかして帰ろうと思った。その時森口さんが僕の肩を叩いてこう言った。

「今日はもう帰って、早く寝ろ」

そう言うが早いか、森口さんは老人達に取り囲まれ、二次会の会場に連れて行かれた。僕は森口さんに申し訳ない気がしながらも、

(出世なんてするもんじゃないな)

と思った。そしてそっと、足早にその場を去り、駅の方向へ向かった。

 東京駅に付くと、雑踏の向こうに薄汚れた黒いロングコートを着た男が壁際を気怠そうに歩いているのを見つけた。それは紛れもなく三井だった。僕が学生時代在籍していたゼミの同級生だ。この暑い季節にコートを着て、大きな荷物を持っている。間違いなく彼は浮浪者になっていた。あの頃からだいぶ変貌しているが、あの顔は間違いない。

 僕はその時瞬時に三年程前の事を思い出した。僕が会社に入社したばかりの頃だ。休日にゼミの仲間と久々に会って、飲みに行っていた。来ていたのは女子二人と三井と僕の四人、会場は確か池袋だった。女の子のうち一人は大手の銀行に一般職として就職し、もう一人は大学院に進学していた。三井は就職していなかった。何でも自分で会社を起こしたいからということで、就職活動をしていなかったのだ。学生時代の彼は実に強気だった。

「就職なんてする意味が分からん。つまらん社畜になるだけだろ?」

こんな言い分が彼の口癖だった。その頃就職活動に苦戦していた僕は、そういう彼を少し羨ましく思ったりもしたものだ。彼の言い分はその頃から少しも変わってはいなかった。ビールを片手に、彼は精一杯にこう主張していた。

「バイトの方が手取り良いぜ」

「みんな何してんだろうって思うよ。若い頃にしか出来ない事があるだろ?若いうちの方がお洒落だってしがいがあるし」

「毎日朝から晩まで拘束されていてよく嫌にならないね。可哀想になるよ」

しかし学生時代と違い、その時の僕は彼を羨ましいと全く思わなかった。なぜなら彼の必死の主張からは彼自身の焦りや不安、劣等感や後悔といったものが如実に滲み出ていたからだ。そういう意味で、その時の彼は何とも哀れだった。

「でも、三井君は偉いよね。ちゃんと夢に向かって努力しているんだから」

女の子の一人が気を遣ってそう言った。

「そうそう、バイトで開業資金貯めて、会社作るんでしょ?」

もう一人の女の子も言った。が、三井はそれに対して何も答えず、ただ俯いて鳥の手羽先にかぶりついていた。多分この頃には彼も少しずつ現実がそう甘くない事に気が付いていたのだろう。そう言えば彼が起業するという話は大分前から知っていたが、具体的なビジネスプランやコネクションについては全く聞いた事がなかった。

「ところで君たち、彼氏はいるの?」

三井は唐突に話を変えた。女子二人は戸惑っていたが、やがて答えた。

「ううん、今はいないよ」

「なかなか出会いが無いよね」

二人とも彼氏はいなさそうだった。

「それは良くないね。どんな人が好みなの?」

三井はまたしたり顔に戻って話し出した。僕は黙って聞いていた。

「うーん、まあルックスじゃないよね。話の面白い人かな」

「そうすると、共通の話題があるとか、価値観が合う人ってこと?」

「共通の話題は無くても良いんだけどね。価値観なんて誰でも少しは違いがある訳だし…。そうじゃなくて何かこう、話を合わせる事の出来る、地頭の良さっていうのがあるじゃない」

「なるほどね」

そう言うと三井は箸を置き、僕の方を見た。

「地頭っていえばねきむちゃん。君はそういう意味で言えばかなり…」

僕は急に話を振られて困った。何せ彼が何を言いたいのか分からなかったのだから。

「君の地頭は偏差値四十八だよね」

僕は慌てた。唐突にこんな事を言われると、どう対応していいか分からないものだ。僕はその場の空気を壊さぬ様に、例の欺瞞的快活さで受け流そうとした。

「いや、まあ確かに勉強は余り出来ないけどね。ハハ…」

「うん、そういう事じゃなくてね、君の場合全ての人間的特質において偏差値四十八なんだよ」

僕は何も言い返せなくなった。この時の自分の意気地のなさを、僕は後になって何度後悔した事か知れない。だけどその時の僕は言われた内容よりも、目の前の女の子二人が完全に沈黙して俯いている事が気がかりだったのだ。どうこの場を立て直したら良いのか、考えるのに必死だった。しかし僕は何も思い付かずに結局は沈黙に逃げ込んだ。

 その後会話は全く別の話題に切り替わり、飲み会はお開きになった。別れ際に女子二人は

「ちょっと二人で別のところに寄っていくから」

と言って別れた。二人で何の話がしたいのか、おおよその見当はついた。僕はその後三井と二人きり無言で帰途に付き、別れ際に

「じゃあな」

と言って別れたのだ。

 その後帰宅して早々、僕は三人にメールを送った。

「今日はありがとう!楽しかったね!また飲みにいこう!」

驚くべき事に、僕はあの一瞬の沈黙を生んだ張本人が自分だと思い込み、申し訳ない気持ちで一杯になり、これを送ったのだ。今考えると、これはとても皮肉な事だと思う。なぜなら三井にとってこれ以上過酷な復讐はないからだ。僕は彼にはない、心の余裕を見せつけたのだ。その心の余裕は彼から見れば恐らく正規雇用という雇用形態から生じたものということになるであろうし、彼がそれを目の当たりにする事でどんなに心を引き裂かれたかはもはや想像の範疇を超えている。

 これが僕と三井の苦い思い出だ。

「そんな奴の言う事は気にするな」

と言われるかも知れない。だが心に突き刺さった言葉の破片はそう簡単に抜けるものではない。その上僕の場合、彼の放った言葉が真実である事を証明する事例には事欠かないのだから。

 その三井が今浮浪者として壁際にもたれて、ぼんやりと行き交う人々を眺めながら座っている。夜遅くまでへとへとになるまで老人の酌をするのと、見窄らしい身なりで駅を徘徊するのと、どちらが不幸なのだろうか?多くの人は三井の方が不幸だと言うだろう。でもそれは多分客観的に比較できない問題だ。なぜならこの人の世地獄に本来幸も不幸もあり得ないからだ。生きていればそれだけで不幸だし、しかも生きていればそれで良いのだ。それが自己欺瞞であろうとも、それ以外の答えがどこにあろう?従って僕は三井を恨まないし、哀れむ事もしない。もし今後三井が実業家になって大成功を収める様な事があったとしても、僕は彼の方が幸福だなどとは思わないに違いない。

 僕は改札を通り抜け、最終の新幹線まで急いだ。


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