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次の日、やはり僕は朝起きる事が出来なかった。目が覚めると、もう十二時を過ぎていた。昼過ぎに会社に行くと、冷たい視線がオフィスのあちこちから突き刺さる。僕は挙動不審にならざるを得なかった。しかしこういう空気の中でこそ仕事が捗るものだ。僕は自分の席に腰を落ち着けると、何事も無かったかの様に仕事を始めた。仕事は予想通り捗った。いや、遅刻した疾しさから逃れる様にしてひたすらタイピングしていたのだ。従ってそれは集中力ではなく現実逃避だった。小説を書いている時と酷似した感情だ。でもこれで良い。生きる事とは常に何かから逃げ回る事だ。
暫くしてグループリーダーが僕の側まで歩み寄ってきた。
「おい、お前少し自覚持てよ」
グループリーダーは森口さんと言って、僕の直属の上司に当たる。当然日頃の僕の勤務態度に目を光らせている訳だが、僕は森口さんに自分の病状を話していなかった。そんな事を言って哀れみを乞う事が嫌だったのだ。しかしそんなつまらないプライドと引き換えに周囲に多大な迷惑をかけている事は何か違う様な気がした。正直に言おうかどうか迷った。だがもし治療に専念する様に申し渡されて解雇されたら?それは間違いなく破滅だ。
「はい、すみませんでした」
結局僕は普通に謝った。
数分後、不快な波が襲ってきた。僕は仕事の手を止めて、机の上で頭を抱え、頭皮を掻きむしった。数本の毛髪が机上に力なくはらはらと落ちる。そのうちいくつかの毛は縮れて毛先が割れている。役割を終えたそれらをぼんやりと眺めていると、何だか申し訳ない様な気分になった。役割を終えた者は脱落する。だが僕は脱落していない。良いご身分だ。だが僕は必要ない。必要ない者が生き残るのは堪え難い。だから僕が思い悩むのは正しいのだ。優秀な者が仕事熱心になる様に、僕は無断欠勤して、たまに会社にやってきては鬱然として、家に帰ればつまらない小説を書くのが正しいのだ。そこに価値の違いは無い。各々分相応に生きているのだから。世界は何一つ間違ってはいない。間違っているのは「こうあるべき」という無意味な主張だ。いや、と言ってもそういう感情が起こる事自体は正しい。世界は間違っていると考える人がいるのも正しい。そういう正しさを知らない事もまた正しい。何も心配など要らない。
僕は席を立ち、ふらふらとトイレに向かった。トイレの個室に入ると、僕はズボンもはいたまま便器に腰掛け、うずくまった。そして目を閉じて、暫く思考を休めた。何故だか息が切れる。それは泣きたい様な、笑いたい様な嘆息の連続だった。周りは静かだ。誰もいないのだろう。
ふと、背後にある漆喰の壁の向こうから水洗便所を流す音が聞こえる。隣の女子便所の音だろう。大分壁が薄いようだ。僕は壁に近づき、右耳を塞ぎ、左耳を壁に密着させた。つくばいに竹筒の水が流れ落ちる様な清らかな水音が聞こえる。それはまるで囁き、恥じらう様な奥ゆかしさで、僕の心臓の鼓動は耳元まで高鳴った。だが性器は決して勃起しなかった。気持ちにも特に変化はなかった。僕は芳香剤の匂いに気分を悪くし、個室を出た。
そうしてやっとの事で六時を回る。ろくに仕事もしていない僕は、夕飯を食いに社員食堂へ向かった。穀潰しだ。社員食堂は僕の常駐しているオフィスとは別の建物にある。そこへ行くには国道を横切る横断歩道を渡らなければならない。この横断歩道の前での信号待ちの時間はとても辛い。待てば待つ程、時間が延びていく様な気がする。じれったくて途方に暮れる。たまに全速力で通り過ぎるトラックの轟音や救急車のけたたましいサイレンが脳の奥にまで響く。恐ろしくて仕方が無い。
食堂で飯を食う前に、食堂の入口前の喫煙所で煙草を吸った。この時間になってもまだ暑い。僕は額の汗を拭うと、まだ明るい夕方の空を見上げて煙草の煙を吹き付けた。
(女の美しさは永遠ではない。人間の美しさは…永遠か?)
ふと僕はそんな事を思い付いた。僕はこんな出鱈目な箴言を考えるのが好きだ。いいものが出来たら小説に使おうと思っている。だが今のところ殆ど使えた試しはない。文字にしてしまった時には既に思い付いた時の新鮮さは失われているのだ。
食堂に入ると、油っぽい匂いがホール中に充満していた。今日は中華らしい。僕はお盆と箸を取って料理を受け取る。
「こんにちは」
食堂のおじさんが挨拶してきた。僕は声を振り絞って
「こんにちは」
と返した。もうその一言を返しただけで気怠く、死にそうだった。
固焼きそば、シュウマイ、ご飯。炭水化物が多すぎる。しかしこれはいつもの事だ。食堂の中央にあるテーブルの上に銀のボウルが置かれている。近づいてみると、大量のナンプラーが溜められていた。臭くてそれ以上はとても近寄れない。シュウマイは醤油で食べよう。
毎日毎日このだだっ広い食堂の隅で、僕は一人で黙々と食事している。他の皆はグループになって、談笑しつつ食べている。孤独を感じるのはいつだってこんな時だ。喧噪とか人混みとか笑顔とか哄笑とか、そんな自分とは異質なものに取り囲まれていると、自分一人取り残された様な、知らない土地で迷子になった様な、そんな淋しさと不安が募る。僕はいつまで一人なのだろう?僕は一人でいるのがそれほど好きな訳じゃないのに、いつも気が付いたら一人でいる。そこから抜け出す契機が見出せない。先人達は皆孤独を前向きに捉えろという。孤独こそ人格形成に必要な養分だ、と。だけどいつまでも孤独でいては意味が無い。正直もう終わりにしたい…。
僕はふと芥川龍之介の『孤独地獄』という短編を思い出した。あの禅超という孤独地獄に陥った坊主は、鬱病だったに違いない。もしかするとあれを書いた芥川自身鬱病だったのかも知れない。話として面白いとは言えないけども、妙に共感を誘う話だった。あれは自分の心情を頗る正直に書いた作品だろう。尤も僕の場合生まれた時から孤独地獄にいる様な気がする。孤独でない状態の記憶はあまり無い。僕は一体この孤独地獄のただ中で、いつまで喘いでいなければならないのだろうか?僕が不必要な人間である限り、抜け出す事は不可能だろうか?ここから抜け出す事が出来なかった場合、人はもう人生そのものを断ち切る他無いだろう。そう、芥川がやった様に。孤独とは自ら命を絶つ正当な理由になり得ると思った。しかし僕には芥川の様な才能は無い。才能の無い男が「孤独です」等と言って死んだら、それは逃避ということになりはしないだろうか?それは本当の意味で孤独だ。恐ろしい。
食事を終えて食器を片付けようと椅子から立ち上がると、僕は入口近辺に川村さんの姿を認めた。同じ部署の男性社員三人と一緒だ。僕は思わず椅子に座り直して、顔を伏せた。こんな一人で飯を食っている姿など見られてはならなかった。それは大便をしている姿の様な無防備な状態に思えた。ところが僕がふと顔を上げたはずみに、こちらに食事を運んでくる川村さんと目が合ってしまった。川村さんは僕を瞥見したきり、目を逸らしてしまった。僕は彼女に見限られた様な気がして、乾いた笑いで自嘲しながら食器を片付けた。もうどうでも良い。
オフィスに戻ると、森口さんが言った。
「おい木村、明日は東京に出張だから、絶対寝坊すんなよ。それと名刺も忘れない様にな」
「はい、わかってます」
僕の部署では二ヶ月に一度くらいの頻度で東京本社に出張する。何の為の出張かは細かく説明すると長くなるので割愛するが、端的にいえば、会社のお偉いさんが集まる会議に出席するのだ。その緊張感は並大抵ではない。僕は新幹線の切符と名刺と、それから会議に必要な資料を持って退社した。
辺りは暗くなっていた。淋しい街の明かりは真夏の夜に荒涼とした印象を与える。闇の中を泳ぐ熱帯魚の様に、僕は無表情を保ちつつ自転車をこぎ、ひらひらと社員寮に帰った。
住み慣れた一人の部屋。静謐と無為が去来する。聞こえるのは隣の田んぼの蛙の鳴き声だけだ。僕は無心に小説を書き、疲れるとベッドの縁に座って煙草を吸う。それを繰り返して、良い時間になったら風呂に入って寝る。やる事はそれしか無い。この退屈で孤独なループは僕の人生そのものだ。仕方が無い。僕は買ってきた水で夜の薬を飲むと、着替えもせずにパソコンに向かった。無心になる事が大事だ。何も考えなくても済むように。ものを書いていると少しはそれが可能だ。書く事は生きること。生きる事は考えないこと。
暫くすると、僕は次第に沈黙に耐えられなくなり、テレビを付けた。延々と垂れ流される雑音は更に堪え難かったけれども、僕は付けっぱなしのテレビに背を向けて書き続けた。テレビは情報ではない。雑音だ。雑音は孤独者にとって中毒性のあるBGMだ。僕はテレビが大嫌いなくせに、消す事が出来ない。こうやって皆テレビに支配されていくのだろう。こんなにまでテレビが覇権を握ってしまっている時代に、純文学なんか書いたって誰も読んでくれはしないのではないか…。作家志望者なら誰しも一度はこんな諦念を抱いた事があるんじゃないだろうか?テレビは書く行為にいつも疑問符を付ける。そして僕はそれを取り払う為に、可視化出来ないものを書く。
しかし書けば書く程、それは下らないものに思えてくる。明日は早い。もう寝るか。僕は何度か頭を掻きむしり、煙草を吸って部屋の明かりを消し、ベッドに横になった。豆電球の赤光に煙が妖しく立ち迷う。布団にくるまると、何故だか僕は啜り泣いた。これはしかし良い兆候だ。感情が少しずつ動き出している兆候なのだ。前まであるのかどうかも分からなかった感情が。それは感情の秘められた胎動だった。僕は寝返りを打ちながら考えた。
(人生というのも一つの夢では無いだろうか?いつかは永い眠りに就いてしまうのなら、何も恐れる事など無い筈だ。何故僕は泣いているのか?いっそのこと眠る前に全てを解決してしまえば良い。宵越しの希望は持たぬが良い)
とは言え自分にそんな勇気がない事は分かりきっていた。僕は興奮していたのか、それとも昼まで寝ていたのが響いたのか、睡眠薬を飲んでもなかなか寝付けなかった。