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 その後僕は展示室を抜けると、館内にある閑散としたカフェに立ち寄った。しかし席に着いても店員が姿を現さない。それどころか物音一つ聞こえて来ないので、すぐに席を立った。

(これからどこへ行こうか?)

僕は美術館を出て、とぼとぼと歩きながら電話で帰りのタクシーを呼んだ。草原には薄暮の中、まだギターとハーモニカの調和的な旋律が漂っていた。僕は側のベンチに座って夕方の薬を飲んだ。

 暫くベンチに座っていると、母子が手を繋いで、笑い声をたてながら草原を走っていた。子供はまだ小さく、ぴょこぴょこと飛び跳ねている様に見える。母親はそんな子供に慈しみの微笑を与え、子供を連れて若草の匂いの中遠くまで次第に姿を小さくしながら走り去っていった。母子の愛。どれだけ愛というものを懐疑的に見ようとも、これだけは疑いようが無い。僕は不意に淋しさに震えた。

(僕はもう愛を卒業してしまっている。僕はもう一人だ。永久に愛は無い。だからせめて他の誰かにあんな愛の機会を与える事が出来ればいいな)

帰りのタクシーに乗ると、運転手は僕の様子を訝しがった。

「お兄さん、何だか情けない顔してるね」

僕は何も答えなかった。僕は後部座席で揺られながら、久しぶりに酒でも飲もうかと考えていた。酒は辞めたが、まあたまには良かろう。

 宇都宮の中心部にある行きつけのバーを尋ねた。

「いらっしゃいませ。奥へどうぞ」

若いいつものマスターが薄暗い店内の奥で微笑む。一糸乱れぬオールバックの髪型も変わっていない。久しぶりだったが、僕の事を覚えていてくれたようだ。僕は一通りの久闊を叙した後、ドリンクを注文した。

「アプサントはありますか?」

「アブサン、ございますよ」

僕はアブサンではなくアプサントと呼ぶ事にしている。その方がフランス的で良い。

「水割りでよろしいですか?」

「ええ、お願いします」

マスターはペルノーの緑色をした瓶を引っ張り出すと、軽やかな手つきで水割りを作った。緑色の液体は水と混ぜると少し白く濁る。それは店内に瀰漫する不遜な香りと相俟って、殊更妖しげに見えた。

「お待たせしました」

僕の前にグラスが差し出された。望み通りの酒が何でも出てくるのは、やはり良いものだ。僕は少しだけグラスを傾け、何滴かアプサントを飲んだ。ニガヨモギの香りが口の中に広がる。決して美味いとは思わないが、何故か辞められない。

「どうです?強烈でしょう?」

マスターがはにかんだ様な笑いを浮かべて言った。

「ええ、強烈ですね」

そう言いながら僕はまたグラスに口をつけた。苦い。薬草臭い。だが辞められない。そうしてちびちびと飲み続けていると、グラスはあっという間に空になった。店内にはアレグリの『ミゼレーレ』が流れていた。僕はその音楽に身を委ねて、記憶の果てを彷徨った。

 一年前、僕は東京に勤めていて、真夏の炎天下の中、スーツを着込んで出勤していた。汗だくになりながら覚束ない足元でふらふらと駅に向かって歩いていた僕は、朦朧とした頭蓋の中にこの『ミゼレーレ』を延々と流していた。そうする事によって何となく自分の苦しみを正当化できる気がしたからだ。自分の苦悩は何の意味も無い。そう認めてしまう事が怖かった。苦悩とか悲哀とか、そういう感情は美化してしまえば一種の美酒になる。まずいのに辞められない。いつの間にか僕は進んでそれに手を出し、酔いしれる様になっていた。僕はあの頃苦悩中毒とでも言うべき状態にあった。まあ早い話が自己憐憫だ。

 考えてみれば、そんな状態はつい最近まで続いていた。いや、今だって完全には抜け出せていない。自分を傷つけて、貶める事によって快楽を味わっている事が考えてみればよくある。自傷癖というべきだろうか。精神の幸福は上昇する事よりもむしろ自らを堕落せしめる事によって得られる気がするのだ。今考えてみても、それは間違っていないと思う。富めるものはきっと精神の幸福に飢える事になるに違いない。負け惜しみで言っているんじゃない。本当にそう思う。しかしもしそれが本当であれば、あらゆる営為に何の意味があるのだろうか?うむ、やはり精神の幸福など求めるべきではない。僕は二度とアプサントを飲むまいと、静かに心に誓った。

「すいません、夏のカクテルを一つ」

僕はマスターに言った。

「かしこまりました。それじゃあモヒートでよろしいですかね?」

マスターは爽やかな口調で提案してきた。

「そうですね、じゃあモヒートで」

マスターはグラスに敷き詰めたミントの葉をすり潰しながら、こんな話をしてくれた。

「このミント、うちの実家で栽培したんですよ」

「へえ、家庭菜園ですか」

「ええ、うちの実家に畑がありまして、その一角を借りて作ったんです。今年は豊作でして。他の店よりも葉っぱが大きいですよ」

「そりゃ楽しみだ。ミントから手作りのモヒートは初めてだなぁ」

僕は早くもほろ酔い気分で答えた。アプサントはさすがにこたえた。僕は酒好きだが、決して酒が強い訳ではない。

「夏にはやっぱりモヒートですね。あれを飲むとまた夏が来たなって思います」

僕は訳知り顔である。

「ええ、キューバのお酒は夏のお酒が多いですね」

「キューバかぁ、行ってみたいなぁ」

僕は以前から本気でキューバに憧れていた。カリブ海、哀愁のクラシックギター、ゲバラ、カストロ、貧しくも陽気な人々…。『ショーシャンクの空に』のラストシーンの様に、あの青い海と白い砂浜に囲まれて人生を再スタートさせたいと何度思った事か知れない。僕にとって生活は牢獄だった。そこから脱獄して、真の自由を手に入れたかったのだ。しかしそれは今考えると笑ってしまう程稚拙な妄想だった。僕はマスターの攪拌する透明な液体をぼんやりと見つめ、妄想を断ち切ろうと試みた。だがそうは思いながらも未だそこに浸かっていたい自分を直ちに発見した。僕は口元で僅かに微笑み、思うに任せた。

 モヒートを飲み終えると、僕はすっかり酩酊して、フローズンダイキリを頼んだ。夏はフローズン系が美味い。アプサント、モヒート、フローズンダイキリ。気が付いてみると、ヘミングウェイのコースだった。僕はヘミングウェイが嫌いではない。『日はまた昇る』は原書で読んだ。だが僕にあんな硬質な文章は書けはしない。僕は軟弱で女々しい。ハードボイルドは無理だ。でも僕はそんな男らしさに憧れてもいる。たまには酒を飲むのも良い。

 スポットライトの一筋の明かりを煙草の煙が横切る。しかしいい気分だ。何故僕は僕として存在してるんだろう?僕という意識は果たして本当だろうか?もしかすると、僕というのは大いなる共通意思のほんの一部ではないのか?世界の舞台裏には一人の傀儡師がいて、森羅万象は彼(女)に支配されているのではないか?だとすれば自己と他者の弁別は無意味ではないか?そんな疑問に思う存分浸る事が出来る。それはとても大切な事に思える。人間にはこういう根源的な問いを繰り返す時間が必要だ。何の迷いも無くそんな事を考えていられるのは、非日常の醍醐味だろう。酒はやっぱり良いものだ。

 酒を飲み終えて陶然としながら煙草を吸っていると、他の客が入ってきた。もうそろそろ出よう。僕は代金を支払って、席を立った。

「ごちそうさま」

「ありがとうございます」

乾いた鈴の音の下、マスターが出入り口のドアを開けて待っている。僕がそこを通り過ぎると、彼は深々と頭を下げた。

「またお待ちしております」

「おやすみなさい」

僕はバーを出た。外は真っ暗で、まだそれほど遅くもないのに人通りはまばらだ。蒸し暑くて衣服が身に貼り付くようだった。うっすらと青白い外灯の下、僕は数歩歩いて今一度店の方を振り返った。マスターは既に店の中に入っていた。それはそうだろう。客は僕だけではない。僕はその瞬間に現実世界に引き戻された。もう僕には愛すべきものがない。ちゃんと歩かなくちゃ。オリオン通りの古ぼけたアーチの下を、背筋を伸ばし、力の入らない足でゆっくりと歩き続けた。こうして歩けば多分誰にも認識されないだろう。僕は周囲にとって誰でもない。だからこうして通行人を演じる事で街に溶け入り、無と化す事に慣れなければいけない。だが正直それは辛かった。やっぱり僕は僕だった。


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