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僕は昔から朝が苦手だ。それは鬱病を患ってから更に顕著になった。朝どうしても起きられない。九時を過ぎると会社から電話がかかってくるが、それにすら出る事が出来ない。気が付いたら昼間まで寝ていて、そこから会社に行くのが怖く、更に寝てしまう。何回か無断欠勤をしてしまった。これは由々しき事態だ。だがどうする事も出来ない。精神科の医者に相談してみるが、まともに取り合ってもらえない。医者にも鬱病は甘えだと思っている連中がいるらしい。しかしそう言われてみると確かに甘えの様な気もした。頑張れば起きられる筈ではないか?そう思ってみるが、実際頑張る事が出来ない。
「あまり無理するな」
と上司は言ってくれる。しかしその優しさが却って堪え難かった。申し訳なくて仕方が無く、腹を切って詫びたいと思ったりした。それでもまた同じ事を繰り返してしまう。
(僕はクズだ。生きる価値も無い)
しかしこんな自己否定の一方では、開き直りの余地もあった。
(僕は堕ちるところまで堕ちる。僕は第三者的にそれを見つめていれば良いのだ。僕は自己の欲求から、自分自身からも自由になるのだ。そうした先に真の自由がある。会社は僕をクビになど出来まい。何せ日本企業は解雇規制が強いからな。僕は会社を騙し、甘い汁を吸えるだけ吸って、その実は自分の為に生きるのだ。確かに給料泥棒はある意味犯罪よりも犯罪的だ。他人の稼いだ金を不当に奪っていて、それでいて何の罪悪感も感じていないのだから。ただ金銭は必ずしも人間的価値を表さない。金銭は権力を測る指標でしかない。それを踏まえれば、僕が何の価値を有する事も無く金を稼いでいるのは正当な事だ。既得権?結構じゃないか。僕はその権利を得たのだ。誰にも渡さない)
僕は会社に行けない日が多かったが、それでも会社にいるときは懸命に仕事に取り組んだ。それは上司や先輩への申し訳なさと、解雇される事への恐怖からであった。解雇される事は死ぬ事よりも恐ろしかった。僕は仕事自体に興味があった訳ではなく、なるだけ安穏な生活を送る事が出来る様にそれを遂行したに過ぎなかった。つまり僕は会社ではなく自分の為に働いていた。自ら受け入れた生き方はたとえ拘束されている状態であっても自由と呼べる気がした。
しかし自由とは思った以上に辛い状態だった。外部に何一つ縋る事の出来る価値観が無く、常に自己の価値観に立脚した行動をとらなければならない。ここに来て、僕は初めて自己の曖昧さを知った。僕は何がしたいのか?何をすべきなのか?考えてみるとそんな問いに対する回答はどこにもなかった。人はただ生きる為に生きる。生きる事は何かを行う事ではなく、ただ生きるという営為のみにおいて完結する。従って僕は何もしたくなかったし、何もすべきでなかった。ただそう言って惚けていられる程人生は短くない。何かを為さねばならない。しかもすべきでない筈のそれを為さねばならない。僕にとって書く事はそういう事だった。何故書くのか?それは人生があまりにも長く、自由すぎるからだ。誰の為に書くのか?自分だ。もし世の中に氾濫する文章というものが例外なく読者の為に書かれているものだとすれば、世の中にこんなにも沢山の文章は必要ない様に思える。書き手こそ文章の恩恵に肖っているのだ。
ところでそんな中に芸術というものがあるとすれば、一体芸術とは何なのか?芸術が生きる為に生み出さなければならないものであれば、それは排泄物と言って良いだろう。その目的が物質的であろうと精神的であろうと同じだ。芸術は手段でなく目的でなければならない。商業主義的作品も生活のための手段であれば排泄物だ。増して作りたくもないのに商業上の必要性から作らざるを得なかった作品など産業廃棄物であると言って過言ではない。芸術は作者自身が誰よりもそれを欲していて、なおかつ生きるための手段ではなくそれ自体が目的でなければならない。芸術の手段たり得るものは芸術でしかない。生活の手段は生活でしかあり得ない。しかし多くの芸術家がそれに失敗し、芸術を目的とした生活に溺れてしまっている。かく言う僕も生活の中に芸術を持ち込んで苦悩している。ちょっと前まではその苦悩こそが芸術家たる証だと考えていたくらいだ。芸術とは簡単そうに見えて何と難しい事だろう。
僕はある初夏の休日、近所の美術館に行った。近所と言っても街の外れにあるので、タクシーで三千円程かかる。僕は森の葉叢から差し込む砂塵の様にきめ細かな木漏れ日を浴びながら、タクシーの後部座席で一人揺られていた。タクシーの運転手は頻りに僕に話しかけてくる。
「私、こういうところ歩くのが好きなんですよ。登山靴が好きでね。どこに行くにも登山靴で歩いていきますよ。仕事中は流石にお客様の前ですから、革靴ですけどね」
「はあ、そうなんですか」
「ほら、あそこに花を付けている木がありますでしょ?あれ何ていうか分かります?」
「さあ、分かりません」
「マロニエですよ。じゃあ栃木県の鳥は何だか知ってますか?」
「うーん、分かりませんね」
「オオルリだそうです」
僕はこういう運転手が特別嫌いという訳ではない。が、一方でこんな時程一人になりたくなる時も無い。早く目的地に着きはしないかと、僕は内心苛立っていた。
やっとの事で目的地に着き、タクシーから解放されると、そこには広大な草原が萌え広がっていた。遠くからギターとハーモニカの音色が聞こえる。大地は太陽と微風の愛撫を受けて光の漣を立てている。僕は木陰に佇んで、暫し呆然とした。これは芸術だろうか?そうかも知れない。言うまでもなく自然は僕の創作物ではない。だがこういった自然の姿は見る者によっては嫣然とした微笑みに映る。そうした脳裡に構築された対象の像は紛れもなく僕の創作物だ。その虚像は芸術かも知れなかった。しかしながら僕はそれに満足しきれなかった。虚像を作り上げてみたところで、それは外界に生まれる事は無いからだ。そうするとやはり芸術には創作が必須なのだ。
僕は暫く草原の脇の小径を歩き、その脇にある樹木の生い茂った斜面を登っていった。すると昇りきったところに美術館があった。豊饒な自然に囲まれた、気持ちのよい立地だった。直線的な輪郭のその灰色の建物は、artistic(芸術的)と言うよりはartificial(人工的)だった。そう言えば作家は芸術家か職人かという議論を度々目にする。僕はそれ以前に芸術家と職人の違いすら厳密には分かっていない。それなのに何故か芸術家になりたいが職人にはなりたくないという淡い差別意識を持っている。それは思うに僕の怠慢から来ている感情だろう。僕は何となく自分の力量とか才能というものを他人の尺度で測られるのが嫌なのだ。芸術と銘打っておけば、評価されなかった場合にも、
「理解されなかっただけ」
と評価者に責任転嫁する事が出来る。それが怠慢である事は承知の上だ。僕には職人的な技術が必要なのかも知れない。だが僕は芸術家になりたいのだ。そう思うと僕の文章が第三者に読まれ、評価される日は来ないかも知れない、という気がした。
とまれ僕は美術館に入った。広い閑散とした室内は空調が良く、涼しかった。こういう公的施設特有の文化的な匂いがした。僕はこんな匂いが好きだった。多分ここは良いところだ。不意に煙草が吸いたくなったので、喫煙室を探したが、見当たらない。仕方なく僕は一旦美術館を出て、側の石段に座って煙草を吸った。携帯灰皿はこんな時に便利だ。もう一度美術館に引き返すと、今度は特に匂いは感じられなかった。煙草はもう辞めた方が良いのだろうか?
入場券を買って暫し日当りの良い回廊を進む。外の景色を見ながら、前を歩く女性を追い越す。その瞬間に僕はその女性の残り香を嗅いだ。僕は一層孤独な気持ちになり、足早に展示室に向かった。
展示室には額に収まった絵画が白い壁に几帳面に、神経質に掲げられていた。そこには自然を描いた作品が多数展示されていた。田舎の藁葺き屋根の家、田畑の緑の色彩。雪降る街の混沌とした白、藍色の水面に溶けた金色の月明かり。それらは確かに美しく、僕の不安を心持ち鎮静させた。しかし同時に巧いとも下手とも言えず、何と評して良いか分からなかった。写実的とは言い難い。ただ画布の上に乱雑に塗られた油絵の具には、描いた者の精神の高揚が見て取れた。乱れた筆先から繰り出される躍動。これらは心の狂喜乱舞をどうにかして押さえ付ける為の手段だったのだろうか?そうするとこれは彩管を揮う者の精神の表象ではあるまいか?これはしかしいかにもありそうな論評だ。何故だろうか?僕には絵画が理解できそうにない。僕は芸術には向かない人間なのだろうか?それとも芸術とはそもそも妄執に過ぎないのだろうか?
僕はふと音楽に熱中していた少年時代の事を思い出した。芸術に絶望した苦い思い出だ。少年時代、僕は音楽が好きだった。ジャンルは問わず何でも聞いた。小さい頃からピアノをやっていたし、中学生の頃からギターを始めた。四六時中音楽の事しか考えていなかった。しかし僕は大人になるに連れて次第に音楽に対する懐疑を深めていった。
「音楽には何の力もない」
二十歳になる前に、僕は薄々とその事に気が付いていた。丁度その頃の日記が残っているので、抜粋しよう。
やはり俺には音楽しかないのだ。しかし待てよ。そもそも何故音楽じゃなきゃならなかったんだ?小さい頃からピアノを習ってたから?それじゃあ俺は自分に才能があるのかどうかよく確かめもせずに、たまたまそれが与えられたから、自分には音楽しかないなんて思い込んでたって事か?そもそも俺は本当に音楽が好きなのか?ただ他がうまく行かないから、音楽に逃げ込んでいただけじゃないのか?人生大逆転なんて言う恥ずかしい発想で、脚光を浴びる事を夢見ていただけじゃないのか?要するに、現実から逃げ込む口実が出来て、その上夢なんて言う美名の下に自己顕示欲を満たす事の出来るもの。それがたまたま音楽だったというだけかも知れない。音楽じゃなくても良かったのだ。音楽そのものが好きだった訳じゃないのだ。大体、音楽の非力さを、俺は良く知っている。音楽に何が出来る?ジョン・レノンが『イマジン』を歌っても戦争はなくならない。大体音楽界随一の勝者が争う事を否定するなんて、滑稽な話だ。「ナンバーワンにならなくても良い」と歌っている歌がチャートでナンバーワンになった時には、音楽の発するメッセージなど全て嘘っぱちだと知るべきなのだ。ロックンローラーの破天荒なイメージも同じだ。彼らがステージ上で飲むウイスキーの瓶には、紅茶が入っているのだ。ただのイメージ戦略だ。音楽は何の思想も、力も持たない。あるのはビジネスだけだ。一発当ててやろうと目論む野心家たちが、猿真似のような事をして芸能界でやっていこうとする、その手段でしかない。音楽はなければならないものなんかじゃない。その事実に、大分前から俺は気付いていたはずだ。それなのに、それに気付かぬふりをして、現実から逃げたいがために、音楽は自分の全て、なんて自己暗示をかけていたのだ。なんて馬鹿らしい!
何とも稚拙な文章だが、あの頃の気持ちは今でも思い出す事が出来る。そしてその気持ちは音楽を辞めてからも長く尾を引く事となった。次は鬱病を煩ってからの僕の音楽論だ。
音楽などというものは本来「音」という空気の振動の集まりに過ぎません。そんな何ら意味を持たない「音」を「音楽」足らしめているものは、やはり権力です。権力が「音」に意味付けをして、「音楽」にしているのです。例えば悲しい音楽を生まれたばかりの赤子に聞かせて、「悲しい」と感じる事が出来るでしょうか?それが出来ないとすれば、その音楽は何らかの権力によって後天的に「悲しい」という意味付けをされたものでしょう。他の例を挙げれば、ビートルズが無名のミュージシャンだったら、彼らの熱心なファンは現実同様に彼らの音楽を愛せたでしょうか?『レヴォリューション9』などという雑音の集まりを「音楽」と呼ぶ事が出来たでしょうか?とてもそうとは思えません。ビートルズという権力に酔いしれている人は数多存在するに違いありません。つまり音楽は知恵によって作られた権力なのです。芸術なんかじゃありません。
こちらになると大分本質に近づいている。つまり音楽とは本来音でしかない、という事に気付いているのだ。ここに記述されている通り、音楽は「音」という空気の振動に過ぎない。それが何故これほどまでに多くの人を魅了するのか、そのメカニズムについて僕は分からない。ただ、音という現象が何らの意味を持たない事は確かだ。あるいはそれが歌詞を付けられて歌われたり、映画のワンシーンで効果的に使われる事はあるだろう。しかしそれでも音楽自体には全く意味がないのだ。それは現実世界の何物とも対応してはいないからだ。
では美術はどうだろう?画布にへばりつく乾いた油絵の具。それは確かに現実世界の模写の様にも見える。しかしながらそれは物質世界の、それも眼球が捉えた光の投影でしかない。実体そのもの、形の無い、無色透明な、光を反射しないあらゆるものを描く事は不可能だ。フォービズムなど、現代美術には不可解な作品がいくつも見られる。それらはまるで写実的、直接的である事を忌避しているかのようである。これらはそうした美術の持つ弱みを補完すべく試みられた作品だろう。だがそれは試みようとすればする程、目標からは遠ざかっていくのである。なぜなら画家が彼自身の感覚を持って描いている以上、彼の感覚を介してしか対象を見る事が出来ないからである。その中でいくら悪あがきをしようとも、見る事が出来ないものは描く事が出来ないのだ。どれだけ哲学的な意味を持たせようとも、それは虚構でしかない。現実世界の何物とも対応していないという点では音楽と少しも変わりがない。
ふと見ると、展示室の入口から新たな見物客が現れた。車椅子に座った老人と、それを押す若い女だ。車椅子の老人は何やら訳の分からない言葉を喚き散らしていて、女はそれを窘める。張りつめていた静寂が一瞬にして破られる。僕は思わず顔をしかめた。やがて女がゆっくりと車椅子を押して絵画の前に立つと、老人は喚くのを止めて興味深そうにそれを見つめた。その老いた双眸は何を見ていたか?紛れもなく絵画を見ていた。だがそれでいて視線の先は虚空を彷徨うかの様に覚束なかった。そうだ。美術とはこういうものだ。絵画を見る事は誰にでも出来るのだ。だが老人は何も見ていない。老人はきっと絵画を絵画として、単なる絵の具で描かれた写真として見ている。絵画を見て作者の内奥を想像する事は並大抵の事ではない。なぜならそれは作者自身の何物とも対応していないから。
僕が暫く歩を進めていると、深緑色の巨大な壁に突き当たった。これもどうやら作品の一つらしい。深緑色に塗られた木の板に斜めの縞模様が掘られている。たったそれだけだ。僕はこの作者が何を思い、何を考えて、どんな意味をこの作品にこめたのか想像しようと試みた。だがその緑の奥からは何物も浮かび上がっては来なかった。この作者の考えがどこにあるのか、それは今でもはっきりしない。そしてそれは僕の責任ではない。作者は美術という手段を選ぶ事によって、彼自身を説明する事を怠ったのだ。美術は何も語らない。物質そのものは説明責任を果たさない。それは理解されなくて当然だ。
僕はその時に気が付いた。芸術とは言え、結局は論理が不可欠である事に。文学はどうだろう?それは確かに狭窄な自己の内部しか描けない。その点音楽や美術と変わらない。だが論理によって説明を果たしている。音楽が現象である様に、美術が存在である様に、文学は単なるインクの染みではない。それは世界と対応した言葉だ。人間は現象でも存在でもなく、言葉で意思の伝達をする。それは現象や存在と違って、華美な様相を帯びる事こそ無いが、少なくとも誠実に物事を表現する事が可能だ。文学は文章の芸術ではない。思考の芸術だ。思考を最も誠実に表現できる手段がたまたま文章だったというのに過ぎない。
そんな訳で僕は一層文学への憧れを強くしたが、その後良く考えてみれば、僕は誠実な文章など一行たりとも書けた試しが無いのだった。そもそもそれほど書きたい事がある訳でもない、書く事が楽しいとも思わない僕がこうして書いている事自体がもはや不誠実の極みの様に思えた。何も誠実さだけが全てではない。だが僕は誠実でありたい。僕は書くに値する人物だろうか?僕は書く度に不誠実になっている気がする。