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翌日は酒も飲んでいないのに何故か頭痛がした。しかし会社を休む程ではなかったので、出勤した。僕の仕事は基本的に一日中パソコンに向かって文章を書く仕事だ。何故だかその日は業務に集中できず、僕は何度も席を立っては喫煙室に煙草を吸いにいった。僕は何だか煙草を吸う為に生きているみたいだった。煙草を吸いながら自販機で買った水を飲む。もう煙草は吸いたくない。喉も乾いていない。もう充分だ。だがこれを辞める訳に行かない。やる事がなくなってしまう。
煙草を吸い終えて席に戻る途中で、僕はパテーションを隔てた向こう側に川村さんの姿を発見した。彼女は立っていたので、胸から上だけが見えていた。ピンク色のガウンを着ている。僕はそっと近寄って彼女の全身を眺めようと試みた。が、実際近づいてみると、彼女は他の男性社員と熱心に話をしていた。仕事の話をしているのだろう。彼女はとても仕事熱心だ。僕は引け目を感じていそいそと席に戻った。その日僕は結局四六時中席を立ってブラブラして、たまに席に着くとインターネットで遊んでばかりいたが、そんな僕を叱る先輩も上司もいなかった。僕は必要とされていないのかも知れない。
(皆さんごめんなさい)
僕は心で呟いて、眼鏡を外して机に突っ伏した。その日はもう限界だった。
そんな矢先のある日だ。部門長命令で、僕を含めて十人の同期が集められた。勿論川村さんもいた。部門長は僕らに、唐突にこう言い放った。
「このメンバーで、新たにプロジェクトを組もうと思う。社内の職場環境を良くする為のプロジェクトだ」
彼女と一緒に仕事ができるにしても、僕はそれを面倒だと思った。つまり彼女は僕にとってその程度でしかなかった。やはりこれは恋ではなかった。お手頃な女だと思っていたに過ぎない。
「君たちも今年で四年目だ。今の職場について色々思う事もあると思う。だから君たちがやりたいと思った事を何でも自由にやって欲しい。企画から開催まで全て君たちに任せる」
この部門長は半田さんと言って、まだ三十代半ばであるのに既に部長にまで昇格しているエリートだ。若い社員が好きらしく、度々若手を集めてはこんな事を言い出す。今回は僕らに白羽の矢が立った訳だ。期待されるのは嬉しいが、正直何が狙いなのか分からないので、任された方は当惑する。しかしこの活動を通して同期との交流が深められるなら、それはこの職場に転属してきたばかりの僕にとっては多少なりとも有意義な事の様にも思えた。
そういう訳で、僕ら同期十人は毎週水曜日に一時間程、どのようにして職場環境を改善すべきかについて議論した。ところがこれが全く不毛な議論で、意見がまとまらずに全く進展しない。僕は退屈でたまらず、議論している間中何も発言せず、メモ帳に絵を描いて暇つぶしをしていた。太った女の絵だ。誰をモデルにして描いたか、言うまでもないだろう。会議は踊る、されど進まず。皆が皆各々の主張をぶちまけるばかりで、何の結実も無い。そんな中で発言などしても、雑多な意見に溶け入って、結局消えてしまうだけだろう。だから僕は黙っていた。そして気が付けば、川村さんも黙っていた。毎回会議に出席しておきながら何の発言もしないのは、僕と川村さんだけだった。
何回目かの会議でのことである。議論が煮詰まってきた矢先、僕らは遂に同期の一人から指名を受けた。
「木村君、君はいっつも黙って座っているけど、何か意見は無いの?川村さんもだよ」
彼は仕切り屋の本間君だ。僕は快活な彼が好きだった。だけどこの時ばかりは面倒で仕方が無かった。申し訳ないが、僕は今まで目の前で繰り広げられていた議論をろくに聞いてもいなかったのだ。人の話を聞くのは苦手だ。しかし皆がこっちを向いている。何か言わなければならない。僕はもっともらしい理屈をこねる事だけは得意である。「小理屈屋」「口だけ男」の異名も何度か貰っている。
「今年入社した新人がいるでしょ?彼らは業務面、あるいは生活面で色々困っている事があると思うんだ。新人の頃はとにかく知らない事だらけだからね。だから僕らが世話役になったらどうかな?所謂メンターってやつだよ」
辺りは静まり返った。皆きょとんとしている。今までの話の流れに全く沿っていなかったのだろう。暫くして、本間君は僕に問いかけた。
「…でも、新人にはトレーナーがいるだろ?役割の切り分けはどうするんだい?」
「トレーナーだって全てをフォローしてやれる訳じゃないさ。彼らは業務の傍ら一人で面倒を見なきゃ行けない訳だからな。第一トレーナーが偶然相性の悪い人だったらどうする?もうそれだけで新人の社会人生活は破滅的だぞ。そんなロシアンルーレット状態は何とも可哀想じゃないか。気兼ねなく何でも先輩に相談できる環境を作るんだよ」
一同は増々しんと静まった。僕の言葉は余りに直接的で、少々棘があるらしい。小理屈屋のくせにコミュニケーション下手というのはこういう所に由来するのだろう。
「なるほど。で、川村さんはどうなの?」
本間君が矛先を変えると、川村さんは丸い頬に微笑を蓄えたまま頷いた。
「うん、それでいいと思うよ」
川村さんは僕に便乗した。同時に僕は吐き気がした。なぜならその時の川村さんは、僕の祖母を連想させたからだ。他人に追従する事ばかり得意で、自分が無い祖母。意思表示をせずにいつもニコニコとしているばかりで何を考えているのか分からず、却って他人から反感を買う祖母。常に同意してもらえる様なありきたりな事しか言わない祖母。そんな祖母を僕は川村さんに重ねてしまった。
女というのは大概そんなものかも知れない。いや、多分若い頃にはそういう所がむしろ美点とされるに違いない。カワイイとか、オイシイとか、そんな他人の共感ばかり集める言葉ばかり並べていれば、従順な女、女らしい女と評価されるに違いない。それを考えれば仕方の無い事かも知れない。
僕もやはり、川村さんのそういう所が好きだった筈なのだ。だが彼女も年を取ってしまえば、自我の無いただの抜け殻となってしまう事が容易に想像された。僕は抜け殻の様な、人格なき彼女を抱く所を想像した。それは風俗嬢を抱く様に空疎な虚しさだけが後に残るであろう、寂しい抱擁だった。僕は彼女が優しいとか、包容力があるとか言って、あたかも人間的特質に惹かれた様な事を抜かしていたが、それは何でも無い、ただ自分の自由になる都合のいい女を好いていただけだったのだ。僕の女性観は中学生の頃から何も進歩していない。どんなに女について考えた所で、僕はやはり男でしかなかった。どんなに精神的に見えたところで、彼女はやはり女でしかなかった。男女はきっと永久に分かりあえない。ああ、やっぱり恋愛など欺瞞でしかないのだ。彼女の豊満な乳房が机の上で組まれた腕にそっと乗っていたのを、僕は横目で見た。だが僕は急速に彼女から興味を失っていた。
僕がそんな議題とは全く関係ないことを考えているうちに、僕の意見が採用されてしまった。自分が言い出した事ながら、面倒だと思った。余計な事を口走ったと後悔した。
同期との会議の後は、必ず煙草を吸いにいく。面倒な事を済ませた後の煙草は少しだけ美味く感じる。喫煙室で一人煙草を吸っていると、何かと雑念が湧いてくるものだ。
(煙草に火をつけた以上、この火はいつか消える。それは大抵八割ぐらい吸い終わった所でねじ伏せられ、消えるだろう。でもここでもし突然電話がかかってきたら、僕は急いで喫煙室を出て電話を受けなければならない。煙草は殆ど残った状態でねじ伏せねばならないだろう。逆に仕事に戻りたくない時は、根元の部分まで吸うだろう。しかし煙草は吸わなすぎても勿体ないし、吸い過ぎても身体に悪い。程々が一番良いのだ。僕は程々に生きるのだ。しかもなるたけ誰にも気付かれぬ様にひっそりと。死ぬのは速すぎても遅すぎてもいけない。火をつけられずに捨てられた煙草はもっと勿体ない。生まれて来なければ良かったなんて事はさらさらないのだろう。僕が死ぬのはもっと後の方がいい。…我ながら稚拙な比喩だなぁ)
すると喫煙室に本間君と多田君が入ってきた。二人ともさっきまで会議に出席していたメンバーだ。やっぱり会議の後は煙草が吸いたくなるのだろう。僕は彼らともう一本煙草を吸う事にした。
「今日の会議は木村君のお陰で少しだけ進展があったね。いつもグダグダだったから、助かったよ」
本間君は話す時に眉毛を吊り上げる癖がある。最初は気取って見えたが、今では彼の愛嬌だ。彼の快活かつ大らかな性格は全てを愛嬌に変えてしまう。きっと営業部に行っても成功するだろう。
「いや、実は僕も明確なビジョンがあった訳じゃないんだよ。単なる思いつきで言ったのに、採用されちゃってびっくりしたよ」
僕は正直に答えた。
「いいのいいの。無理にでも動き出さなきゃ何も始まらないからね。具体的な案を出してくれて良かったよ」
意外だった。僕は怠惰の為にあのプロジェクトにおいて何の貢献もしていなかったのに、いきなり功労者扱いされて戸惑った。誉められるのはとても苦手だ。
「それはそうと、早速具体的な活動に落とし込まないと。プランの大枠を決めて、スケジュールをガントチャートにしてみよう」
多田君は設計の業務に携わっているだけあって、仕事が早くて思考が現実的だ。とてもクールな人物で、本間君とは好対照を成している。また、多田君は容姿も端麗だ。そこらの俳優にも引けを取らない。しかも近くに寄ると仄かにいい匂いがする。休日はサッカーを楽しむというスポーツマンでもあり、かつ料理を嗜むという家庭的な面も持ち合わせている。隙のない男だ。僕などには勝てる所が一つもない。でもそれで良い。僕は何の才能も無いからこそ文学という一種の遊戯に現を抜かしていられるのだ。
「さすが多田先生。リアリストだ。早速仕事に取りかかろう」
本間君は前向きだ。僕も前向きになってみた。
「そうだね」
しかしこれは僕の口癖で、何の興味も示していない時の相槌だ。
「そうですね」
を連発して上司から怒られた経験は数知れない。
そうなのだ。僕は何の興味も無い。プロジェクトの仕事は勿論、本間君、多田君、いや川村さんも含めて、全ての人々、生活の全てに興味が持てないのだ。僕は身震いした。
(やっぱりだ。僕はここに存在していながらそれを認める事が出来ずに文学に逃げているのだ。でもこの世の中に本気で取り組むべき事柄なんてあるのだろうか?もしかするとこんな形で程々に生活と関わるのが一番いいのかも知らん)
僕は一時期においてデカダン派というのに憧れていた。芸術至上主義。芸術の為の芸術。とにかく美文を書く為にあらゆる事象の美しさに敏感である様に心がけ、アプサントをはじめ毎晩いろんな酒に酔いしれていた。男色に興味を持とうとしたりもした(無理だったけど)。
しかし「芸術の自己目的化」というスローガンとは裏腹に、デカダン派と呼ばれている芸術家は殆ど生活と芸術を一緒くたにしている様な気がする。それをしてしまう事には、生活が芸術に侵蝕される恐ろしさに加えて、芸術が生活に侵蝕される恐ろしさもある。つまりは芸術を芸術として愛せない訳で、「芸術の為の芸術」という謳い文句と矛盾する事になる。これはちょっと考えてみれば分かる事だと思う。要するに僕にとってもうデカダンは幼稚な自己顕示欲に過ぎなかった。
つまりだ。僕はこれからこの面倒で退屈な世界にも興味を示す必要がある。僕は煙草の煙を際限なく吸い込む分煙機をぼんやりと見つめ、そんな良くも悪くもない事を考えていた。でもきっとこれでいいのだろう。文学は世の中の全てじゃなく、ほんの一部でしかない。世の中を生きるには、もっと広い視野が必要だ。
その後、僕の発案した企画はメンタープログラムとして企画化され、僕らは四つの班に分かれた。班ごとに担当の新人を割り当て、それぞれのメンターとして活動する訳だ。阿弥陀籤で決めた班分けだったが、僕は偶然にも川村さんと二人きりの班になった。川村さんに対する興味を徐々に失ってはいたが、それでも僕は内心喜んだ。これで少しは億劫な気持ちも和らぐのではないかと思ったのだ。
それは雨の降る日だった。僕は帰り道、少し興奮して歩いていた。社員食堂の裏手の螺旋階段の下をくぐり抜けようとしたら、頭をぶつけた。レインコートのフードを被っていたので頭上が見えずに目測を誤ったのだ。余りにも浮かれていて早足だったので、これはかなりの衝撃だった。僕は暫くそこにうずくまりながら、
(半端な気持ちで恋愛に近づこうとした天罰だろうか?)
等としようもない事を考えていた。無情にも僕の後頭部を穿つ雨は撥水加工のレインコートを流れ落ちて、僕の足元を濡らした。
(痛い、痛い、ごめんなさい。もう分不相応な事は考えませんから、もう許してください…)
そんなその場限りの欣求を頭の中で呟いていると、痛みが引いてきた。しかし、飯を食って家に帰ると、徐々に吐き気に襲われた。頭をぶつけて吐き気を催すというのは、相当危険な状態である様に思えた。僕は疾しさから、暗澹たる気持ちになった。疾しさというのは勿論、ろくに仕事もせずに色恋沙汰に現を抜かしていたことだ。こんな形で自省を促されるというのは滑稽に思われるかも知れない。だが僕は必死だった。死ぬのではないか?と本気で思った。それくらいに僕は疾しかったし、もはや死を恐れていた。恋愛が美徳かどうか、それは人によるのだろう。僕の場合それは美徳どころかむしろ悪徳で、こうして制裁すら受けねばならない。吐き気は僕の過去、もうどこにも存在しない筈の過去と僕を繋いでいた様に思われる。
翌日、会社に連絡して午前半休を取り、僕は病院に行った。脳神経外科というところに初めて行った。知らない街の路地は頭上に電線が蜘蛛の巣の様に張り巡らされていて、陰鬱だった。僕は少し道に迷いながらも、目的の脳神経外科に辿り着く事が出来た。しかし僕は意気消沈していた。吐き気が徐々に治まってきていたからだ。吐き気がしたから一大事だというのは、何となく思い過ごしの様な気がしていた。それは僕が天から恋愛を禁止されているという被害妄想についても言えた。誰も僕に恋愛を禁じてなんかいない。ただ僕がモテなかっただけ。ただそれだけなのだ。何の因果もありゃしないのだ。つまり世の中が思い通りにならないのは全て自分のせいなのだ。
「頭ぶつけたの?それは残念でした」
ひょうきんな医者は僕をからかう様に言った。
「普通に歩いててぶつけたくらいなら大抵大丈夫だけど、まあ念のためにCTスキャンで見ておきますか?」
「はい、お願いします」
僕は医者に促されるまま巨大な機械に横たわり、丸い口を開けたスキャナーに頭から飲み込まれていった。
結果が出るまで、僕は暫く待合室で本を読んで待っていた。志賀直哉の『城の崎にて』だった。
「自分は偶然に死ななかった」
そのとおり。僕が死ななかったのは偶然に過ぎない。同じ様に僕が今まで恋愛を経験できなかったというのも偶然に過ぎない。つまり僕にだってある日偶然恋愛が出来るかも知れない。いや、その前に偶然に死んでしまうかも知れない。石をぶつけられて動かなくなった蠑螈の様に。ただ何となく僕には恋愛が成就する偶然よりも死んでしまう偶然の方が優勢に思えた。死は誰にも必ず訪れる。だが恋愛はどうか分からない。今まで死ななかったという事はこれから死ぬという事だが、今まで恋愛が出来なかったという事はこれからも出来ない可能性が高いという事だ。
「生きている事と死んで了っている事と、それは両極ではなかった。それ程に差はない様な気がした」
しかしモテることとモテない事は両極だった。それ程に雲泥の差がある様な気がした(念のため言っておくと、僕は志賀直哉を尊敬している)。つまり生と死は因果の関係だった。モテと非モテはどちらの方向からも因果にはなり得ない。考えてみれば当然だ。
つまり僕は全てにおいて悪あがきをしなければいけない。死なないように仕事をして稼いで飯を食う。恋愛をしたい、結婚をしたい。そんな儚い希望を最後まで捨てずに頑張る。それらは全て悪あがきなのだ。いくらあがこうとも死は必ず訪れるし、愛の灯火は消える。そんな因果の法則に逆らう事。それこそが僕の、いや全ての人間の人生なのだ。ああ、何て面倒くさいんだろう!
待合室にはクラシック音楽がうっすらと流れていた。窓からはステンドグラスを透かした日光が差し込む。心地よい。僕は急に眠くなり、自販機でブラックコーヒーを買って飲んだ。鼻腔を通り抜ける香りと苦みは、何となく安堵と絶望の中間の様な気がして居心地が良かった。
再度診察室に呼ばれた。医者は快活な様子でこう言った。
「結論から言うと、全く異常はありませんね。沢山詰まっています」
やはり思い過ごしだった。僕は意外と丈夫に出来ているのだなと思った。医者の操作するディスプレイには、僕の脳の断面が映っている。それは医者がマウスをスクロールする度に、万華鏡の様に色や形を変える。僕は自分の脳の断面をその時初めて見た。太い血管が通っていたり、前の方に小部屋が三つ程あったり、それは奇妙な形をしていた。
(これが僕の全てか…)
そう思った。僕の世界はすなわちこれに他ならない。これを介してしか、僕は物事を認識する事が出来ないのだ。僕はこの中から永久に逃れる事が出来ないのだ。僕はこんな小さな世界で生きているのだ!僕はその時に少しだけ希望を持つ事が出来た。それは偶然という希望だ。僕はこんな小さな世界の他に何も知らないのだ。つまり考えていたって無駄なのだ。僕は何も知らないのだから。偶然に身を任せるしか無い。きっとその偶然の中に唯一の真実がある。僕は真実なんて何一つ知らないのだ!
僕はその後出社した。上司や先輩は皆心配してくれていた。僕は一人じゃない。色即是空、空即是色。いずれはここへ戻ってくるのだな。年を取るのも悪くはない。ああ、これも知らなかった。人間何も知らずに死んでゆくのかなぁ。
その夜、僕はなかなか寝付けなかった。眠い筈なのに、眠る事が出来ない。ベッドの上で寝返りをうった後で、思い出した様に起き上がり、煙草を吸った。舌が痺れる。陰鬱だ。それから床においてあったペットボトルの水で睡眠薬を飲み、天井の赤い豆電球の光が明る過ぎる様な気がして、部屋を真っ暗にした。壁にぴったりと寄り添う形で横になると、暗闇の中の白い壁がぼんやりと視界を占めた。それは目をつむっていても瞼の裏に残像が浮かんでくる。僕は不意に、もう生きられない様な気がした。生きる事に一度疑問符を打ってしまうと、それはなかなか消えない。しかしこれも毎夜の事だ。そうしていつもの葛藤をいつもの様にこらえていると、やっと眠りに落ちた。
その夜僕は甘美な夢を見ていた。僕の横には川村さんがいた。周りの景色は思い出せないが、何となく快晴で、爽やかな日和だった気がする。
「無理よ、無理」
川村さんが首を振り、一人でしゃべっている。
「だって木村君、余裕がなさそうなんだもの」
確かに僕には余裕が無い。あらゆる面でもう限界だ。
「考え過ぎなのよ」
確かに僕は考え過ぎている。しかも自分の事ばかり。
「難しい顔しないで生きてごらん」
それこそ無理な提案だった。だけど川村さんの微笑は儚い程眩かった。僕は心持ち和やかな気分になった。
「川村さん…」
僕は何か言いかけて、言い終わらずに目が覚めた。窓の外は既に明るかった。僕はまた一日が始まるのを淋しく思った。僕は飯も食わずに朝の薬を飲んで、会社に向かった。
愛されない。それは辛い事だ。