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職場が栃木に移ってから、僕は多くの同期達と再会する事が出来た。新入社員研修の時以来の再会だ。東京には同期が僕の他に三人いた。そのうち一人はすぐに精神を病んで辞めた。なので僕と付き合いのあった同期は二人だけだ。しかし付き合いがあったとは言っても、それはただ仕事上の付き合いでしか無かったので、親しい間柄とは言い難かった。翻って栃木の同期は人数も多く、プライベートでの付き合いも活発なので、僕にとってそれは新鮮だった。
しかしいくら新鮮とは言っても、僕には何とか相手の調子に合わせるだけの辛い作業でしかなかった。例えば親しい者同士で飲みに行っても、僕は会話に積極的には参加せず、一人煙草を吹かしながら相変わらず文学の事を考えているといった具合なのだ。そこでは決して喪失感が拭われはしなかった。
喪失感と言えば、最近ある新人賞選考委員の作家先生が受賞作についてこんな選評をしていたのを思い出した。
「喪失感からの成長。何か既視感があると思ったら、それは所謂村上春樹亜流というものらしい」
そうなのか。それなら僕の書いているものもそれと大差ない様に思えてくる。尤も僕は正直あまり村上春樹の作品を読んだ事は無く、もっと正直に言えば何度も読もうとした事はあるのだが、いつも途中で投げ出してしまう。僕が意識しているのは村上春樹よりもサルトルだ。と言っても実存主義云々といった思想の問題ではなく、「はっきりした立場を取る(アンガジェ)」という作家としての姿勢に共感した。それは小説とは何らかの自己の哲学を具現化させたものでなければならないという僕の思想と重なって見えたのだ。何が言いたいのか分からない文学は好きではない。しかしそれなら僕はサルトル亜流になるというだけの話であり、相変わらず大差はない。まあ亜流にすらなれていないというご指摘はあるかも知れないけれど、それにしても完全に自己流等ということはあり得ないのかも知れない。音楽でも美術でも、大概芸術と呼ばれるものは能の世界で言うところの「守破離」の道である筈だ。「離」の段階にあってさえ、やはり離れる対象は存在するのだ。
とまあ、こんな話題に興味を持つ同期など、残念ながら僕の周りにはおらず、宴会の最中でも僕は一人でこんな事を考えていた。酒は辞めたので、烏龍茶を啜りながら。
ところがそうそう捨てたものでもなかった。僕は転勤早々同期の中に気になる女子社員を見つけた。気になる、と言ったのは、恋に落ちたとまで言える程のものではないからだ。失礼ながら彼女は大柄で、太っていた。だが僕は太った女性が嫌いではなかった。その上彼女はおおらかで穏やかで、優しかった。丸い顔に絶えず遍満する微笑が可愛らしいと思った。僕の母親とは正反対の女性らしさがあった。
だがそれでも恋に落ちる勇気はなかった。恋愛において、僕は今まであまり良い思いをしていなかったからだ。中学生の頃は友人が皆彼女を作っていて、その頃女子とまともに話すら出来なかった僕は一人肩身の狭い思いをしていたし、高校生の頃は初めて会ったメル友の女に百発百中で逃げられていた。大学生の頃は好きになった同じサークルの女に逃げられ無視された挙げ句に告白して失敗し、酷い言葉を投げつけられて終わった。おまけにその噂があっという間に周囲に広まり、サークルを辞めざるを得なくなり、好きだった音楽が二度と出来ない様になった。社会人になってからは先輩社員に女性経験のない事をネタにからかわれ、いじめられた。周囲のオヤジ連中は例外無く僕を「草食系」と呼んで蔑んだ。
「君が今までどんなにつまらない人生を歩んできたか、この歳になればわかるのよ?」
と、半生すら否定された事もある。家族ですら僕の事を同性愛者ではないか?と冗談半分で言ってみたりする。
恨みつらみを書き連ねてしまって申し訳ない。要するに僕は恋愛がしたかったのに、出来なかったのだ。その上それを理由に侮蔑を受けてきたのだから、正に二重苦だ。その通り。僕は恋愛弱者だ。そしてこの世界で恋愛弱者とは悪人に他ならない。合理的に考えてみればそれは当然だ。国家の繁栄には人口が必要だ。一夫一婦制に染まれない者は国家の繁栄に貢献できないのだ。国家に貢献できない者が排斥されるのは戦前戦後問わず変わりない。
ここまで来れば僕がどんなに一夫一婦制を憎んでいたか、恐らく想像に難くないだろうと思う。丁度ここに僕が以前書いた小説の原稿があるので、その一部を転載してみようと思う。あくまで過去の作品だ。あまり気を悪くしないようにお願いしたい。
暫くすると、一際大きな歓声があがるのを聞いて、僕は視線を送りました。そこには女子部員のみで構成されたそれは大きな人垣がありました。そしてその中心には僕と同学年の、一人の男子部員が座っていたのです。彼の名は橋本と言いました。とてつもなく美貌の男で、その上ドラムの腕はプロ並みときていましたから、それはもう権力の塊の様な男でした。その権力の塊を女という女が食いつかんばかりに取り囲み、その恩恵にあやかろうとしているのです。僕はその時、ダーウィンの進化論を思い出しました。性淘汰の話です。雌の交尾の機会が雄より少ない為に雄の中で競争が起き、その中のたった一人の勝者が全ての雌と交尾をする機会を得ます。つまりその競争が進化を促すのです。自然界では優秀な精子を得る為に雌が挙って勝者である雄の周りに集まります。これが所謂ハーレムです。その人垣に僕がハーレムを見た事は言うまでもありません。しかし問題はそこではありません。そんな事は元より分かりきっている事なのです。問題はこの国では一夫一婦制が強制されているという事です。この事が権力の所在を実に不明確にしています。一夫一婦制は、子供を成人するまで育て上げるという目的の為に敷かれた国家戦略です。しかしこの制度は先に述べた自然界の摂理から言えば極めて不自然な制度なのです。つまり多くの女性は本能的には一人の勝者に群がる習性を持つにも関わらず、嫌々ながら勝者ではない男と結婚するのです。女性が結婚したいと思うのは経済的要因か、あるいは「行き遅れ」という社会的差別を免れるためでしょう。本当のところ、女性の目から見れば男性とは一部の勝者を除けばおおよそゴミの様な存在なのです。妙だと思いませんか?そんな多くのゴミと、結婚しなければならないのは仕方がないとしても、好き好んで恋愛をしたりするのです。それは結局、女が自らの権力を誇示するためです。自然界では女全員が勝者たる男に群がればいいわけですが、一夫一婦制の下ではそうもいきません。勝者たる男を得られるのは一部の女のみですから、そうすると女の中でも競争が起こってしまうのです。女の競争は実に醜いものです。男に暗黙の序列を付け、その中のどの男を得られたかによって自らの序列が決まるという訳です。つまり女が男に近づくのは自らの序列を上げる為であって、男自体が欲しい訳ではないのです。女はセックスを餌になるべく序列の高い男を引き寄せます。そうして自らもその地位を確保する訳です。要するに、一握りの男を除けば、女の方が生物学的権力を持っているのです。女の方が尊いのです。一夫一婦制の下では一見男女の権利は平等に見えますが、実は選ぶ権利は自然界同様、依然として女にあるのです。そんな女に比べ、男など何らの権力も生まれ持ってはいません。男が社会から与えられた権力に依存せざるを得ないのはその為です。何の権力も持たない男が今日まで絶滅せずに生き延びているのは、単に生殖機能上の役割が残されているからに過ぎません(その役割も精子バンクなどの科学技術の進歩によって立場を追われつつありますが)。そんな男など、女の目から見れば精子の入った試験管でしかありません。それを眺める彼女達の視線は、権力を持った者の軽蔑、嘲笑を多分に含んでいます。沢山の女が一人の勝者に一斉に群がる時、彼女達の背中からはその他大勢の男に向かって権力を持たない者への暗黙の嘲罵が発せられているのです。女は差別的であるが故に崇高な存在であると言えましょう。
これは僕の大学時代の失恋を描いた小説だ。確か女に告白してふられた後に風俗店に行って、自分がそれまで必死で追いかけていたものがこんなに簡単に手に入ってしまう事実を知り、愕然とするという話だったと思う。この一点を以てしても如何に僕がルサンチマンの力でものを書いていたか分かるだろう。
それはそうと、この小説の中身についてだ。一見女性蔑視に見えるかも知れないけれども、これを書いたとき僕にそのつもりは一切無かった。むしろ女性は皆必要だが、男性はごく一部の勝者以外不要なのではないか?という男性蔑視の意味を持たせて書いた。つまり一部の優秀な男と沢山の女がいれば生殖行為の目的は果たされる筈であり、その他の男は不要だという事だ。そう考えればこそ、不要者である自分が辛い思いをするのは致し方の無い事と納得できた。実際僕の精子など鼻水程度の価値しか無いだろう。
今となっては、事がそう単純でない事くらいは分かる。この理屈は高度な人間の感情を無視している。あくまでも理性より本能の勝った動物にしか当てはまらない。だが人間は本当に本能より理性の勝った高尚な動物だろうか?必ずしもそうは思えない。基本的に理性は本能を隠す為の知恵であると僕は理解している。つまり理性的な人間ですら本能を霧散させてはいないのだ。むしろ理性が人を欺く手段であるなら、本能こそ最も純粋な理性であると言っても過言ではあるまい。
要するに、僕はまだこの理屈を反証できてはいない。従って僕はこの理屈を念頭に置きながら、かつそれを何の怨恨も呪詛も無い透き通った気持ちで眺める必要がある訳だ。この透き通った気持ちで眺めると言うのが重要で、しかも難しい。ともするとそれは、
「どうせこんなもんでしょ?」
という様な傲岸なニヒリズムになってしまう。そうではなく、この理屈を恋愛における解釈の基礎として位置づけ、かつ自分にとって新しい知識や体験の価値を尊重しながら、しかも積極的にそれを求めなければならない。僕は相変わらず恋愛に無関心ではいられないのだから。
そういう精神状態において女に好意を持つ事は、僕にとって甚だ実験的な意味を持っていた。つまりこの理屈を実証してもらいたい、それでいてこの理屈を反証してもらいたい、というアンビバレンスを持っていたのだ。僕は僕の持論のお陰で、これまで自分の不要である事に絶望し、また開き直る事も出来た。確かにそこに安住していれば楽で得な人生を歩めるのかも知れない。しかし僕はその先が知りたいと思った。恋愛という大いなる生殖機能の欺瞞は、果たして成すに値する営為だろうか?この命題はすなわち生きる事に意味はあるかという哲学的命題に通じると思ったのだ。なぜなら人は欺瞞の中で生きる他無いのだからね。
同期同士の飲み会の席で、僕は彼女に聞いてみた。
「ねえ、川村さんって彼氏はいないの?」
かなり自然な流れだ。
「いないわよ。失礼な」
彼女は相も変わらず満月の様な笑顔をたたえて言った。しかし失礼だったらしいので、会話はこれで終了。
「へえ、意外だね」
というお世辞を、僕は飲み込んだ。猫の様に背中を丸めて、僕は烏龍茶を啜った。無理をしてはいけない。急接近しすぎると引かれてしまう。そういう態度にこちらが気付いてしまうと、それだけで傷ついてしまう事は想像に難くない。そこから僕はまた一人の世界に籠り、大学時代の悲恋を思い出していた。
サークルの夏合宿の最終日、打ち上げで皆酒を飲んでいた。学生の乱痴気騒ぎは手に負えないもので、皆酔ったままペンションの屋外プールに飛び込んだ。服は着たままだ。月明かりのたゆたう漆黒の水面にしぶきを上げ、学生達は潜ったり水をかけあったりしてはしゃいでいた。僕もそんな一群に混じって、一際大きな歓声をあげていた。しかしそれは演技だった。僕は酔っていても、常に冷静な思考を捨てきれないのだ。上手に酔うことが出来ない質なのだろう。僕はそれでも周りに追従する様にして酩酊した振りをして、集団の中で浮き立たない様に細心の注意を払っていたのだ。今思うととても愚かしいが、僕は孤独者のくせに妙な通俗的社会性はほんの少し持ち合わせているのだ。そうして僕が真っ暗な水の中に潜ると、何本もの脚が水底に櫛比しているのが見えた。水温は人肌で温められて生温かった。そしてぼやけた視界に犇めき合う男女の身体の中に、僕は一際太く柔らかな影を見つけたのだった。それは僕が好きな彼女だった。僕は勢いよく水面から顔を出した。水に濡れた顔をこすって前を見ると、彼女の大きな瞳と目が合った。僕は例の欺瞞的快活さで、彼女に水をかけてやろうとした。しかし彼女の目には何の感興も見て取れず、それどころか僅かな軽蔑の態度すら浮かんでいた。彼女はくるりと踵を返し、そのまま水しぶきを上げて夜の水辺に泳いでいってしまった。平和の最中に潜む一縷の人間の残酷さ。僕はその一時で傷ついてしまって、暫く深海の様な暗い水底にはいつくばって、涙を隠していた。
いや、そんな思い出話はどうでもいいのだ。要するに、自分が愛されているか否かということは目が合った瞬間に分かるものだという事だ。それはとても危うい空気感を伝って自分の心に突き刺さってくる。目を合わせられない。それはとても恥ずかしい事だ。自分の弱さを透かしてみられている様な心持ちがする。他人を受け止める事も拒絶する事も出来ない弱さを。しかし目の前にいる彼女はそんな弱さをこそ包み込んでくれそうな包容力がある様に思われた。
居酒屋の仄暗い明かりの下で、脂ぎった鍋料理や焼き鳥やシーザーサラダが食い散らかされたまま所狭しと並んでいる。汚れた食器がそこかしこで今にもテーブルから落ちそうなくらい隅に追いやられている。同僚達はがやがやと雑音を喚き散らしている。耳障りで、とても醜く、それでいて誰もがこれでもかとばかりに脂ぎった表情を浮かべているので、僕は次第に苛立っていった。僕は料理には手を付けず、煙草ばかり吹かしていた。彼女は向こうを向いて誰かと談笑し、頑丈そうな背中をこちらへ向けている。何杯目かのグラスのビールはもうかなり減っていた。僕は突然吐き気に襲われた。あの頃と何も変わっていない。僕はもうあの頃の様に周囲に合わせようとは思わない。だけどそれにも関わらず、周囲はあの頃と何も変わっていないのだ。僕がどんなに努力をしようとも、またどんなに怠惰にしていようとも、そんな事はおおよそ関係なく周囲は相変わらず醜く僕を惹き付け、そのくせ一人取り残してどこかへ行ってしまうのだ。泣いても笑っても何も変わらない。僕は頭上のスポットライトに吸い込まれて、そこから消え失せてしまいたい欲求に駆られた。僕は存在していないのではないか?そんな疑念が頭をよぎった。