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そして夏が来た。節電対策で冷房も抑え気味の室内で、僕は扇子で顔を扇ぎながら仕事をしていた。
「ちょっと、私寒いんだから、私の方向けて扇がないでよ」
山本さんは冷え症だ。こんな猛暑日をして寒いとは便利な事だ。僕は不承不承扇子を閉じた。
昼になると、フロア中の蛍光灯が消される。オフィスは本も読めないくらいに真っ暗になる。僕は昼食を食いに行こうと立ち上がった。
外は蒸し風呂に入っているような熱気だった。道路や街や遠景が、錆をこそげ落とした金属の様に光り輝いている。僕は眩しさに目を細めて歩き出した。歩きながら、耳にイヤホンを差し込んで『ミゼレーレ』を聴いた。それはとても懐かしい音色だった。どうもがき苦しもうとも前に進まない時期を思い出し、胸が痛んだ。しかしそれはたった一年前のことなのに、完全にはその心情を再現できなかった。もう思い出すことすら難しい心の地獄。ただ僕は何故だかそれがとても愛しく思えた。それは今やこの凡庸な男の、唯一の誇りだった。しかしあの頃の僕にはこんな気持ちが分かるはずもないだろう。彼にとっては身に寄りつく全てが欺瞞だったのだから。彼は間違ってはいなかった。世界は例外なく欺瞞かもしれない。しかし今僕はそんな唾棄すべき欺瞞をも受け入れることができるくらいに寛容になってしまった。もう誰も彼の味方をしてやれないのだ。僕は彼に対して懺悔したい気分に駆られた。だからこそ僕は彼をも受け入れようと思う。決別した彼と和解するのだ。彼は僕の心に永久に住まうだろう。時々、ほんのたまには顔を見せてくれると嬉しいものだ。うらぶれて表情もなくしたその顔を。
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さて、この話には事実もあれば嘘も含まれている。敏感な読者はそれぞれの話がそのどちらに属するか、弁別しおおせているかも知れない。とりわけ僕が孤独者であることが嘘でないことくらいは容易に察しているに違いない。
僕の孤独な人生は、これからも連綿と続いていくことになるのだろう。結局僕は身に余るは孤独も、生への懐疑も払拭できてはいない。僕は相変わらずそれに耐えながら生きなければならないだろう。その全てをここに記したいのだけど、どうやら紙面の関係で筆を置かなければならないようだ。
最後まで読んでくれて本当にありがとう。あなたこそ僕の孤独を癒せる唯一の人間かもしれない。やっぱり文学っていい。今夜は久々にウイスキーでも飲もうか。




