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それから三カ月が過ぎた。僕の身の回りはごたごたとせわしなく流れゆき、あっという間に時間だけが過ぎていった。
するといつしか五月になっていた。僕の身に何が起こったか?突然すぎて申し訳ないけれども、僕の鬱病は完治した。所謂「快癒」では無く、本当の快癒だ。治療方法は言わないでおこう。僕は何かの宣伝の為にこれを書いている訳ではないからだ。ただある精神科医の勧める療法を試したら、それがたちまちに効いたのだ。あっけないくらいにすぐに治った。まだ薬は飲んでいるけれども、以前とは比較にならないくらい気分がいい。皮肉なことに、治って初めて自分は本当に鬱病だったのだという事を認識できた。それくらいに良くなった。
だが僕はこれでよかったのかどうか、正直分からない。いや、間違いなくよかったのだ。それは認めよう。だが僕は以前の様に何か物凄い熱に取り憑かれてものを書くという事がなくなった。人間の生の苦しみは今それを味わっている真っ最中の者にしか書くことができない。僕は今やそれを書くことができないのだ。いつかどこかで目にした「Escape into the book」という読書週間か何かのキャッチコピーが思い出される。誰もいない電車の座席に、本が開いたまま置いてあるのだ。だが僕はもう本に逃げ込む必要がなくなった。僕は何もしていなくてもここにいられる。
それからもう一つ、この快癒は決して僕自身の考え自体を変えるような変化では無かったという事は言っておかねばならないだろう。確かに抑鬱感は消えた。気分爽快ですらある。だけどそんな明朗な気持ちの中で、僕は改めて自分が不要者だという事を認識したのだ。世の中気の持ちようなんかじゃ何一つ変わらないのだという事をここに来て痛感したというのは皮肉な話だ。
とまれこの一件ではっきりしたことがある。それは世界が科学的専門家によって構築されている、という事だ。僕の憂悶は何らかの文学上の「答え」なんかではなく、また哲学的思索の果てでもなく、明快きわまる科学的な方法によって解決された。世界を創っているのは科学であり、文学ではなかったということだ。
それならなお一層、僕は何故書くのか?何の専門家でもないこの僕が。それは本当に分からない。だが僕にできる事はこれしかない。文学を軽蔑している訳ではない。何せ僕は文学とは一体何なのか、未だによく分かっていないのだから。それでは文学はなければならないものだろうか?それもよく分からない。しかしそれでも書いていこうと思う。それで多少なりとも自分のかつて愛した文学を弔う事ができるのならば。いつかその場所に戻る日が来たら、僕はまた心おきなくそれを愛するだろう。ともかくそれまでは生きていたいものだ。
在りし日の自分は荊の日常を颯爽と駆け抜けた。今はそんな自分を安楽死させて、代わりに気弱で少し不器用で、相変わらず孤独な凡人が一人残されただけだ。彼にとって何よりも大切なのは生活だった。毎日決まった時間に会社に行き、休日は一人街を歩き、たまに実家に帰っては老人の世話をし、母をいたわる。ここにいるのはやっぱり不要な、一介の俗人にすぎなかった。
ファンファーレもレクイエムも鳴らない。とても静かな再出発だ。今までの生活への暴挙に対する罪滅ぼしをしたいと、彼は思っている。尤もそれは見かけ上は今まで通り普通に暮らすことでしかないのだが。彼がかつて心を穿たれていた風は、今や優しくその襟元を通り抜けるのだった。いつの日かこれを追い風に変えたいものだ、と思いつつ、彼は乱れた髪を整える。




