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 日中、喫茶店で本を読んでいた。コーヒーと煙草の組み合わせがいつもより陰鬱で、気が滅入る。外は天気がいい。街は少しずつ賑わいを取り戻してきている。僕はといえば、また村上春樹に挑戦していた。デビュー作『風の歌を聞け』だ。不思議とその時は物語と文体の醸しだす雰囲気にすんなりと入りこめた。一つ一つのエピソードに特に意味はなさそうな感じで、それ故に寂しくて、空虚で、何も残らなくて…要するに生活そのものだった。それはとても自然に映った。生活とは所詮誰にとってもこんなものだ、と励まされた気がした。それと何よりあの異様に開き直った感じがいい。

「少なくともここに語られていることは現在の僕におけるベストだ。つけ加える事は何もない」

とか、

「もしあなたが芸術や文学を求めているのならギリシャ人の描いたものを読めばいい」

とか、なかなか潔い。そういう潔さは未練や執念よりも却って印象に残るものだ。

 しかしながら一方で、開き直りや潔さだけで食っていける程世の中甘くないだろう、とも思った。従ってこの小説にはその他にも何らかの美点があるに違いない。だが僕にはそれが何であるか最後まで分からなかった。第一、潔さという特性だって「村上春樹」というブランドが付いていなければ気付かなかっただろう。僕は未だに文学とは何かよく分かっていないのだ。しかしこの人の作品を初めて最後まで読み通せたので、その時はそれで良しとした。

 突然、隣の席で震災の被害について語り合っていた二人組の老爺のうちの一人が僕に話しかけてきた。

「よう、兄ちゃん、大学生かい?」

僕は本を置いて、煙草に火をつけながら答えた。

「いいえ、社会人ですよ。一応ね」

「そうかい、地震は大丈夫だったかい?」

「ええまあ、僕は大丈夫でしたね」

「そうか、それは良かったな。しかし問題は原発だよ。ありゃ大変なことになるぞ」

老人はそれから暫く僕に原子炉の内部構造について事細かに説明し続けた。老人はなぜかその分野に異様に詳しく、様々な専門用語でまくしたてていた。僕にはその内容がさっぱり理解できなかったので、何を言っていたかよく覚えてもいないが、その時は適当に相槌を打っていた。

「でもね、僕実家が仙台なんですよ。まだ家族と連絡が取れなくて」

僕は一言で老人を黙らせることに成功した。それはほんの一瞬ではあったが。

「そうか、そりゃ心配だなぁ」

無口な方の老人は心配をしてくれていた。一方饒舌な方の老人はと言えば、

「そうか仙台か。そういや名取川っていう名前の由来は…」

とまたも蘊蓄をひけらかそうとしていた。

 その時、僕の携帯電話の着信音が鳴った。母親からだった。僕は取り乱したように電話口に出た。

「もしもし?」

その瞬間老人達は喫茶店をそそくさと出ていった。薄情な奴らだ。

「あ、彰夫?久しぶり」

「おい、大丈夫なのかそっちは?」

「ああ、食糧は何とかあったから、無事に食いつないで生きてるよ。みんな元気だから、心配ないよ」

母親の声はこの非常時にあって落ち着き払っていた。僕はどうしたらよいか分からず、狼狽しながら言った。

「何か、何か必要なものはないか?俺にできる事はないか?」

僕は興奮していたのか、席を立ち、店の外に出て話をした。

「そうさね、カセットフーとか、乾電池とか、後は水なんかがあるといいね。一応こっちにもあるけど、少なくてさ」

「そうか、分かったすぐに買って送るよ」

僕は電話を切ると、喫茶店に戻って荷物を取り、嬉々としてホームセンターへ向かった。途中通り過ぎる騒がしい野球場のグラウンド、射撃訓練場の鬱蒼とした雑草の山、こうした日ごろ僕を日常の暗い深淵に追いやっている全てがこの時にあっては頼もしく思えるのだった。軽躁な自分が恥ずかしいくらいに、僕は落ち着きを失っていた。こうした心の傷が不意に癒えたときというのは、暫し懐疑とか迷妄とかいうものを忘れられるものだ。

 ホームセンターへ行くと、既にカセットフーも水も売り切れていた。乾電池は多少残ってはいたが、物流がストップしているために発送はできないとのことだった。僕は落胆して、その事を伝えようと母に電話をかけてみたが、やはり繋がらなかった。僕は再び孤島に取り残された。

 僕は暫く家にこもり、ベッドの上で頭を抱えた。テレビを付けると繰り返されるコマーシャルに吐き気がするので、消したままだ。遮光カーテンは閉め切って、外界からの情報を締め出した。この部屋にいることで、僕は僕の不要である事を幾分か逃れられた。一人でいる事は一種の自己防衛であり、現実逃避であり、また自己没却であり、自己実現でもあった。しかしその間僕は頭が割れそうだった。無力感と倦怠と、弥増さる吐き気が押し寄せる。それこそ津波の様に。そんなとき僕はひたすら、泥の様に眠った。寝すぎると後でひどい頭痛に襲われるのだけど、そうなったら睡眠薬を飲んで更に眠った。眠りは唯一の避難所だった。自殺の代替手段と言えなくもない。眠りの中で、僕はトロッコに揺られて、一人どこかへ運ばれていく夢を見た。レールの先はどこに通じているか全く分からないけど、それはとても心地よい感覚だった。なぜなら僕には元いた場所に引き返す気など毛頭ないのだから。そして目を覚ますと、真っ暗な部屋の中、一人でいることに改めて恐怖を覚えるのだった。

 しかしながら外に出ないわけにはいかない。僕とて食糧を調達しなければならない。会社からは外出時に帽子、マスク、雨合羽を着用するように言われていた。が、僕はそんなものを一切身につけなかった。そういう世の潮流がまるで他人事のように思われたからだ。僕は蚊帳の外にいるのだ。死ぬのだって全然怖くはなかった。むしろ生きているのが申し訳ないような気がしていた。尤もそれはいつものことなのだが、死というものがもはや眼前に迫り来ている現状で、それがちっともこちらを向いてくれない事にやきもきしていた。それで却って自分は死とは生まれつき縁が薄いような、そんな幻想に襲われていた。

 そうして一週間くらい鬱々とした自宅勤務が続いた後、通常業務が再開された。整然としたオフィス、黄ばんだ壁の喫煙室、よそよそしい同期たち、頼もしい上司、先輩。それらは震災前と何も変わっていなかった。昼飯を食いに国道を横切る。食堂の隅で一人飯を食う。余った時間にはラウンジで読書をする。女達の黄色い声が癪に障る。何も、本当に何も変わっていなかった。残酷だと思った。誰一人あの未曾有の惨事を意識してもいないようだった。僕は震災が急に懐かしく思えた。しかしあれほどの大惨事をして、僕の日常には傷一つついていなく、それどころか人々はそんな一事件のあったことすら徐々に忘れ、再び弛んだ口元から下卑た笑みを漏らすようになっている。もうどうしようもない。

人生というこの無用な試練は誰にとっても同じ重さを持つものだろうか?しかし僕には重すぎて何一つ耐えられそうにないんだ。靴先に閉じ込められた指先がじたばたともがく。まるで声にならない叫びが存在を破り捨てようとするかの如く。これはどうしたことだろう?僕はまた煩悶とともに暮らすことになるだろう。結局のところ震災は沢山の人たちから多くのものを奪い去ったが、この世で最も忌わしいものを奪い去る事は遂に出来なかった。僕は机に突っ伏しながら、全てを破壊させたいという途方も無い衝動に駆られた。だがその全てが無理だった。


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