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 それからと言うもの、僕は自暴自棄に陥った。勿論会社を辞めたりとか、自殺したりといったことは無かったし、そもそもそれまでの僕だってかなり自暴自棄ではあったのだけど、それが一層現実味をもって僕の思考を支配し、僕の行動は何かに付けて大げさなものになった。人として生きていく為に必要なものが僕には一生与えられず、そんな現実が地平線も見えない平面にただのっぺりと、何の意味も無く広がっているだけ。しかもそれは僕だけに与えられた試練などではなく、殆どの人間にとって当たり前の日常なのだ。従って僕はどう考えても不必要な存在だった。そんな状況にあって僕が何をどうしようとも、大した事ではない様に思えたのだ。

 いささか唐突だが、僕は何故だか昔から盗撮とか盗聴というのに憧れる傾向にあった。見てはいけないものを見る、聞いてはいけないもの聞く。それは普通に生きるより何倍も人生を楽しんでいるように思えてならなかった。しかし今までの僕にはそのような行為を実践する知恵も勇気もなかった。

 ところがここに来てその片方、勇気を得てしまった。今の世の中、勇気さえあれば知恵などどうにでもなるものだ。僕はインターネットの通信販売で、ボールペン型の小型カメラを買った。実物を見てみると、それは想像していたよりも遥かに巧緻な代物であった。見た目はどう見ても普通のボールペンにしか見えないが、よく見ると上の方に直径一ミリ程の穴があいていて、そこにカメラが仕込まれているのだ。こんなものに誰も気が付くまい。

 とは言ったものの、僕にはやはり犯罪行為に走るだけの勇気はなかった。じゃあ何故そんなものを買ったのかと聞かれると、どうも上手く答えられない。何かのはずみで買ってしまったと言う他無い。ネット通販にそういう失敗は付きものだ。

 ともかく、そのカメラを使って、僕は何か出来る事は無いか考えた。その結果思い付いたのは、ごく真面目な用途だった。それは何かの会議や講演などの際にそれを忍ばせておいて、後から情報が欲しくなった時にそれを見る、と言ったテープレコーダーの様な使い方だ。そういう真面目な使い方をしていくうちに、僕はこの精密機械の取り扱いを徐々に覚えていった。

 そしてその日も真面目な用途のつもりだった。決して何の下心も無い筈だった。僕は同期十人の集まる会議にそれを持っていった。寒さのこたえる日だった。僕は一番乗りで会議室に行った。誰もいない角部屋の会議室は空調が悪く、殊更寒かった。僕は肩をいからせながら席に座ると、スーツの胸ポケットに挟んだボールペン型カメラのスイッチを入れた。

 その後同期達が続々と集まってきた。勿論川村さんも来た。彼女は丁度僕の対面に座った。

 その日の会議は日頃の緩慢な会議とは違い、かなり紛糾した。気分屋の本間君と理論家の多田君が激しくぶつかりあったのだ。二人とも年甲斐も無く語調を強めて罵りあっていた。

「だからさぁ、色々議論してたって何も始まらないんだって。まずはやってみてなんぼだろ?」

「お前には計画性が無さ過ぎる。何だこの企画書は?会社のオフィスにガチャガチャマシンを置いてどうするんだ?良い笑い者だ」

「どうするかはこれから考えれば良いだろ?人がやらない事をやってこそ意味があるんだよ」

周りの同期達はこうした不毛な口論を傍観していた。僕もご多分に漏れずそうだった。僕はそのうちにカメラの存在を思い出し、これは録画するに値しない議論だと判断し、そっとスイッチを切った。事実その場で何も進歩的な結論は何一つ出なかった。

 その夜の事だ。僕は会社から家に帰るとボールペン型カメラのキャップを外し、その中にセットされているマイクロSDを取り出した。これを専用のアダプターに挿入し、それを更にパソコンに挿入すると、すぐに撮った映像が見られる。

 僕がその時昼間の映像を見ようと思ったのは、何かの情報を期待しての事ではなかった。先にも言った様に、そんな思い出したくなる様な情報はその日の会議に何一つ見られなかったのだから。僕は昼間の馬鹿馬鹿しい口論の映像をすぐに削除しようと思ったのだ。しかし削除する前に一度くらいは内容をチェックするというのはとても自然な事だと思う。

 映像を再生してからすぐに僕の目に飛び込んできたのは、対面に座る川村さんだった。彼女は紺のブレザーを着ていて、始終伏し目がちにメモを取っていた。これはいつもの彼女の姿で、大してメモする事など無くても、いつも必死で何かを書き留め、こうした大勢が集まる場では決して発言しようとしないのだ。それくらいに内向的な彼女の姿は、それをパソコン越しに見る僕にとって却って蠱惑的だった。なぜなら画面に映る彼女の伏せた睫毛と清楚な服装と、それからそっと一隅に花を添えた様な柔らかな佇まいは、僕が普段目にしている彼女の内面とは正反対だったからだ。彼女の女としての残酷性、自己防衛本能、差別意識、そうした諸々の秘められた獣性を彼女の皮膚の上から見透かした様な気がした。これは恐らく僕の意識の問題だ。すなわち僕はあの会議室で彼女の同じ姿を目にしていた筈だ。その時の僕には何の興奮も無かった。それは僕の存在が彼女に認知されていたからだ。彼女は僕の存在を認めた上で、僕に見られる事を前提とした自分を演じていた。ところが彼女はカメラの存在には注意を払っていなかった。彼女は撮影されている事に気付いていなかったし、こうして録画された上で僕の家のパソコンに保存される事など夢にも思っていなかったに違いない。そうした彼女の無防備な姿は現に一過性のものではなく、いつ何度でも繰り返して見られるデータとして、映像という一つの媒体に閉じ込められたのだ。人間の獣性を観察するには、どんな手段が有効であるか?多分それはその人間を檻に入れる事だ。檻に入れられた瞬間にその人間は観察者の手の内に収まり、人間性を持ち得ない獣と化すだろう。

 ディスプレイの中の川村さんは正に檻に入れられた獣だった。そこに僕は彼女の人間性を取り払った獣性、すなわち最も根源的な生命に近い部分を垣間見たのだ。女の獣性を支配する事は、男にとってこれ以上無い悦楽だった。僕は川村さんの影を支配して、その悦びを胸に自慰をした。普段性器を勃起させる事すら難しい僕だったが、その時はすぐに射精した。思えば僕が川村さんに振られた翌日に自慰を完遂できたのも、女の獣性を眼前に見たからかも知れなかった。だが今はそれがこんなにもコンパクトに、自分の自由になっているのだ。それが強烈な興奮を呼び起こすのは無理も無い事だった。僕の恋は確かに終わりを告げたものの、かといって女への執念は全く終わっておらず、むしろ火に油を注いだ様な呪怨に焼き尽くされて猛り狂っていたのだ。

 ともかくそのメカニズムに気付いた後、僕はどうなったか?包み隠さず言えば、風俗に通う様になった。それまでそんな店に行った経験はほんの一二回で、通う習慣など全くなかった。が、僕はその醍醐味を知ると、まるで溺れる様に毎週行きつける様になった。その醍醐味とは所謂射精だとか、目に見える分かりやすい目的を持ったものではなかった。第一僕は何度風俗に行っても一度として射精する事が出来なかったのだから。そうではなく、風俗の醍醐味はやはり女の獣性、本能といった部分を支配する欲求を満たせる点にあった。疑いようもなく、風俗嬢と呼ばれる彼女達は純然たる女であり、それはどんな商売をしていようが、容姿がどうであろうが変わらない筈だった。中身は普通の、お洒落をして街を歩いている女、例えば川村さんの様な女と相違があろう筈もない。つまり彼女達は見られたくない、触られたくない、自ら認める事の出来ない男には関わりたくもない種族である。しかし僕はそんな女を金銭の力で檻に閉じ込めた訳だ。結果として彼女達は仕方なく裸体を晒し、仕方なく乳房を触らせ、仕方なく性器を弄ばれる。女が本能に反した行為を嫌々ながら甘受せざるを得ない状態。それを観賞する事は射精などするよりも遥かに強烈な快楽だった。それらはどんなに嫌な顔一つ見せない女であっても免れないメカニズムである事は間違いなく、相手が女である以上は果たされる快楽である。それほど大きな快楽がこれほど手軽に求められる機会は風俗をおいて他に無かった。結局僕が求めていたものは特定の女ではなく、女という抽象に過ぎなかったのだ。従ってその抽象への入口が誰であろうともさしたる違いは無いのだった。その事実にこんな形で気付かせられる事は僕にとって甚だ皮肉だった。男はパブロフの犬だ、と何処かの腐れフェミニストが揶揄していたっけ。だがその時僕はその通りだと思った。

 ベッドの上で仰向けになり、覆い被さってくる女の乳に舌を這わせながら、僕はこう考えた。

(この女は心の中でどれだけの涙を流している事だろう。本能を裏切る行為にどれほど傷心しているだろう。それは例えば男が女に振られる時の様な、並大抵でない傷心に違いない)

こんな事を考える事が何より快かった。

 つまりだ、僕にとってそれは復讐の意味もあったのだ。復讐と正義は常に表裏一体だ。僕のこんな地味で陰湿な復讐は、僕のうちにある正義感から来ているに違い無かった。その正義感とは「人間は平等であるべき」という笑止千万な価値観であった。平等であるべきなのに僕には与えられない。そんな怨恨の反動がこの復讐、つまり富める者からなるたけ多くを奪おうとする行為に表れているのだった。僕は一体ニーチェから何を学んだのか?哲学を理解するのは簡単だが、実践するのは気が遠くなるほど難しい。

 僕がこんなにも性に耽溺しなければならなかった理由とは何だろう?それは恐らく性が最も自らの生を実感する事が出来る手段だったからだと思う。僕の場合、何らかの能力や地位に寄りかかって自らの生を肯定する事は避けたかった。生を肯定するにはただその生が存在している事のみを根拠とすべきと考えていたからだ。だがこんな孤独のまっただ中にあっては、もはや自分が存在しているのかどうかすら疑わしかった。孤独とは存在にとって唯一の根拠である存在にすら懐疑を投げかける。性そのものは存在の根拠になり得ないけれども、少なくともその実感、その生臭い香りを嗅ぎ取る事の出来る手段ではあると思う。

 存在は僕にとって本意だった。だけど本意は希望に変えなきゃならない。すなわち受動から能動へ。存在するだけでは生きているとは言えないし、生きているだけで存在しているとも言えない。それらは相互に証明しあわなければならない。それは確かに難しい事ではあるけれど、闇雲に行動しているだけでも何となくそれらはそわそわと、その方向に向かって動き出す様な気がした。

 さて、そんな訳で僕はあらゆる行動を根拠に生の実感を得ていたのだが、そんな輩にとって必要なものは一にも二にも変化だった。変化こそ時間という概念の正体であり、また時間の無いところに存在もあり得なかったのだ。例えば、こんな事は実際にはあり得ない話だけど、僕が今のこの姿のまま未来永劫変わらなかったとする。外面だけでなく、内面も変わらない。つまり何も知覚しない。知覚される事も無い。それは果たして存在していると言えるだろうか?まあ大げさに言うとそういう事だ。何分何秒なんていう尺度はある時間の一部を切り取る為の共通概念に過ぎないのであって、実際には存在は変化した分だけ密度の濃い時間を過ごせるのだ。つまりそれはより濃く存在できるということだ。


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