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 僕は自分の席に戻り、あれ以来話をしていなかった川村さんにメールを打った。

「川村主任殿

お疲れ様です。この間のメール見た?繰り返しになるけど、次のメンタープログラムの面談はいつにしようか?僕はスケジュールの融通が利くから、川村さんの都合のいい日を指定してもらって大丈夫だよ 木村」

スケジュールの融通が利くというのは虚栄心から来る婉曲表現で、本当のところ大した仕事をしていない僕は暇だらけで、手帳の要らないくらいに何の予定も無かったのだ。とにかく僕はメールを送った。しかし何時間待ってみても一向に川村さんからは返事が来ない。何度送受信ボタンを押しても、何一つ送られてきていない。僕は再び落胆しつつあった。煙草を吸いにいく、トイレに行く、席に戻るとその度にメールをチェックする。その繰り返しで一日が終わった。だが最後まで川村さんからメールは帰って来なかった。因みに当の川村さん自身はパテーションを隔てた向こう側にいる。相変わらず快活に仕事をしている。その姿ははっきりと確認できる。でも僕にはメールを返していないのだ。やっぱり避けられている。そう思うと直接話しかける事も出来なかった。

 その日は結局川村さんからメールの無いまま一日が過ぎた。こんな些事を以て僕の一日は全てが憂鬱になった。樽一杯のウイスキーに一匙の汚水を加えると、樽一杯の汚水が出来上がるのだ。

 川村さんからようやくメールが帰ってきたのは、休日を挟んで翌週の事だった。丁度僕がどうやって川村さんの怠慢を非難しようか考えていたところだった。そこにはこんな事が記されていた。

「木村殿

最近本業の方が忙しくて…メール返信できず、すみません。そして色々活動して頂き、ありがとうございます。次回の活動いつにしましょう…私の業務の勝手ではありますが…今月中は、少し厳しいです…すみません。本当に色々していただき、申し訳ありません。よろしくお願いします。 川村」

この一分の積極性も見当たらない文面の中には、明らかな自己の怠慢に対する自己弁護と今後の活動を放棄する態度が犇めいていた。そもそも森口さんの話では、このメンタープログラムは業務の一環であるとの事だったのだから、本業が忙しいなどという言い訳は通用しない筈である。しかし僕はこんな憤怒の傍らで素直な安堵を感じていた。あくまでも無視を決め込むというどうしようもなく強情な仕打ちをとりあえずは免れたからだ。川村さんにも一応レスポンスの意思はあった事になる。これならまだやりようはある。絶望的ではない。

 僕はすぐそこの席にいる川村さんにすぐに返信した。

「川村主任殿

お疲れ様です。お忙しい中恐縮です。ではメンタープログラムは来月に入ってから再開しましょう。できれば次回の全体会議の前に一回出来ると良いですね 木村」

ちょっと補足すると、僕らの同期全員が集まる全体会議においてそれぞれのグループがメンター活動の進捗を報告しなければならない。何も進展が無いと会議での報告事項も無くなってしまう訳で、その前に何らかのアクションを起こしておきたい訳である。尤も、それは僕にとって口実に過ぎなかった。僕はやはり川村さんに直接会って話しておきたかった。そうする事で多少なりとも僕らの間に横たわる不穏な気まずさを払拭しておきたかったのだ。

 しかしそんな目論見を見透かすかの様に、川村さんからはやはり何時間経っても返信が来ない。僕は業を煮やした。そのせいかは分からないが、僕は仕事も手に付かず、終業時刻になる頃には精神的に疲弊しており、ボロ雑巾の様な無気力状態に陥っていた。

 僕が煙草を吸いにいく途中、同じフロアで川村さんが他の男性社員と楽しそうに談笑しているのが瞥見された。あれが多忙でメール一通返す事の出来ない者の姿だろうか?とてもそうは思えない。そう思うと次第に僕の中の憎悪が膨らみ出し、やがては真理を語り始めた。

「もう諦めなって。お前なんかはなっから相手にされてねえんだよ」

僕はその内面に潜む憎悪の塊に、必死で反駁した。

「公私混同するんじゃない。仕事に私情を持ち込むな。彼女がどんなに僕の事を忌避していようが、それとは無関係に仕事は遅滞無く遂行すべきだ」

だけども僕の反駁は弱々しく、そこから致命的な一言を投げられるまでにさほど時間はかからなかった。

「公私混同しているのはお前だろう?お前は仕事が進まなくて怒っているのか?違うだろう?」

結局のところ僕は個人的感情を彼女にぶつけておきながら、それに対する彼女の反応に対しては、全て業務上の責任という形で防御していたのだ。つまり今回の一連のやり取りには僕の職権濫用という側面があった訳だ。

 次の日に、やっと川村さんからのメールが送られてきた。

「木村殿

度々メール返信が送れ、申し訳ありません。仕事でトラブルがありまして、その対応に追われていました。私事ですが、ちょっと残業時間の兼ね合いで、明日から二日間お休みを頂きます。来月であれば私はいつでも大丈夫ですが、ただ新人の子達の研修があるので、全体会議の前に集まるのは難しい気がします。それにある程度私達で業務改善に関する方向性を決めてから集まった方が良い気がする様な…難しいですね。とりあえず二年目の皆さんの予定を聞いてから次回集まる日程を決められたら良いと思います。色々活動してもらい、すみません。よろしくお願いします。 川村」

相変わらず自己弁護に終始した稚拙な文面には如何なる前向きな発言も無く、ただこれからも自分が積極的に活動できないであろう事を示唆した陳述の羅列があるのみである。唯一新たに提供した情報と言えば、「来月に新人の研修がある」という記述であるが、それすらも今後の活動を否定する情報であり、その代替案が提示されずに終結しているところからして、活動に対する否定的感情の暗示が目的だったであろう事が容易に察せられる。次第に明らかになってくる川村さんの真意に、僕は最初から薄々気付いてはいながらも改めて落胆した。吐き気が襲う。

(ご想像にお任せします)

あの軽蔑し、突き放し、放擲する言葉が全てを物語っていた。つまり彼女にとって僕はそんな存在だった。僕はそういう彼女の否定的感情の嵐を押しのける様にメールを返信した。

「川村主任殿

お疲れ様です。了解しました。では来月に入ってから僕らでまず方向性を決めましょう。その上で新人の予定を聞いて集まってもらう方が話が進展するでしょうしね。来月初頭のどこかで僕らだけで一度話し合いませんか?僕はいつでも大丈夫です。そこで方向性を決めましょう。それと返信は別に急がなくても大丈夫ですよ。忙しいときはお互い無理をしない様にしましょう。それでは体調に気をつけて頑張ってください 木村」

僕は自分で自分の欺瞞的態度に嫌気がさした。何だってあそこまで逃げ回った女にこんなにも思いやりのある言葉をかけなければならないのか、そんな道理をどこにも見つけられなかったのだ。とまれ僕は川村さんのメールを読み終えてから五分とかからずに返信した。メールのやり取りなど本来こういうスピードで行うべきものではないだろうか?

 意外にも、僕がメールを送ってから二時間程のところで川村さんからのメールが帰ってきた。彼女にしてみれば早い方だろう。だがその内容が問題だった。僕は率直に言って激怒した。こういう言い方をして良ければ、僕は再び快癒したという事になる。その内容はこうだった。

「木村殿

お疲れ様です。来月なら大丈夫です。ただ方向性を決めるにあたり、ちょっと私の中でもどうすれば良いのか分からない感じです…。すみません。なので木村君と方向性を決めるに当たり平行線?になってしまうのかな…と思います。因みに私の後輩の新人に業務改善について意見を聞いたところ、結構意見を言ってくれました。意見がころころ変わって申し訳ありませんが…一度新人の子に業務改善という大きなテーマで投げるのも良いかも知れないです。私達と違ってフレッシュな意見が出てきそうな予感がします。以上、私の意見です。まとまらない意見を好き勝手言って申し訳ありません。木村君が「一度私達で話し合いをしてから…」というのであれば、それも良いと思います。宜しくお願い致します 川村」

全く主義主張の一貫しない下手な文章。僕はもはや何を言っても無駄だと思った。どうすれば良いのか分からない?僕らでまず方向性を決めてからと言ったのは彼女の方だったではないか?新人に大きなテーマで投げる?それは僕らで解決できない問題を新人に丸投げするという事か?何がフレッシュな意見だ。大体後輩から話を聞いたなどというのも怪しいものだ。僕との話し合いを回避する為の口実ではないか。まとまらない意見だと思うなら最初から言うな。

 とりわけ僕を怒らせたのは最後の文章だ。

「木村君が「一度私達で話し合いをしてから…」というのであれば、それも良いと思います」

これはつまり、川村さんは望まないが、僕がどうしてもと言うなら仕方ないのでやってあげます、という事ではないか?

 快癒した人間は強い。僕は急に何もかもがどうでも良くなった。全てを断ち切る、捨てる、殺す。そこからはもうマシンガンの様なタイピングを繰り出し、あっという間に返信した。

「川村主任殿

お疲れ様です。どうすれば良いのか分からないのに平行線になってしまうとは一体どういう事でしょう?現状は意見の対立すらあり得ない状態では無いでしょうか?全く理解できません。新人にいきなり「業務改善に付いて意見をください」と言って何か出てきますかね?僕らでどうすれば良いか分からないものを新人が解決できるとは思いません。よしんば解決できるのであっても、僕らがそれをあてにしてはいけないと思います。それでは丸投げになってしまうからです。どうしても二人で話し合う事が難しいようであれば、川村さんの後輩が話してくれたという意見を新人を交えて検討してみませんか?後輩頼みになってしまう事は申し訳ないですが、切り口がこちらで見出せない以上は仕方がありません。ご検討宜しくお願い致します。 木村」

僕はこれでも実際の気持ちよりは、遥かに穏やかかつ丁寧に返信をしたつもりだ。彼女に対する誹謗中傷は入れていない。あくまで彼女の考えがもたらす業務上の不都合を指摘するに留めている。本当ならば公衆の面前で彼女を罵倒してやりたいところだった。

「やる気ねえなら辞めろ!迷惑だ!半田さんにやる気無いから辞めますと申告してこい!」

そんな罵詈雑言を川村さんに投げつける妄想を、僕は薄ら笑いを浮かべながら幾度となく繰り返した。普段ならそんな事を現実に言える筈は無かった。でもその時は言える気がした。言わねばならない気がした。現状をぶち破ったその先に破滅が待っていたとしても、それが一体何だろう?少なくともこの現状よりは遥かに良いだろう思った。

(猿め、本性を現したな。ひっ捕らえて尻を叩いてやるわ。俺に逆らうやつは誰であろうと許さん)

が、今度は即座にメールが帰ってきた。なんだ、やっぱり早く帰そうと思えば返せるんじゃないか。文面はこうだ。

「木村殿

まず、期を悪くさせたのであれば、申し訳ございませんでした。平行線と言うか、「どうしよう…」って言って上手くまとまらないのでは…と思ったから意見した次第です。表現が下手でごめんなさい。これでは、半田さんから赤ペンチェックですね…。また、丸投げは私も良くないと思ってます。ただ、何かあるならば、聞いてみたいな。。。と思うのが正直な気持ちです。私の理想は、新人の皆さんが日々「困ったこと」「不安なこと」…等から「業務改善」に繋がるものを見つけられたと思っていた為です。私の後輩の意見は、別の班で検討すると思うで、特に私達の班で検討する必要なないと思います。ちなみに、二人で話す事は、特に難しくはないと思うんですが…そんなふうに思わせてしまっていたら、すみません。これらをふまえ、最初の話し合い通り来月中に二人で話し合いをして方針を決め、班で集まる感じで大丈夫でしょうか?長々とすみませんでした。検討のほど、よろしくお願い致します 川村」

誤字脱字だらけの口語体の文面は、恐ろしく慌てているように見えた。僕の語気を強めた文章が思いの外効いたのかも知れない。だがのらりくらりと逃げ回っていた罰だ。僕は後悔などしていなかった。それどころか、僕は満足すらしていた。彼女に対する復讐心を、形はどうあれ多少なりとも満たす事が出来たからだ。そのせいで、僕は先刻までの怒りを忘れ、あらぬ方向に走ることとなった。彼女の同情を惹こうとしたのだ。僕は次のメールにこう書いた。

「川村主任殿

気を悪くはしていませんが、もしかしたら僕と活動する事が川村さんにとって苦痛になっているのではないかと心配してしまいました。もしそうであれば大変申し訳ないので、正直に言って欲しいです。話し合いは川村さんがよければ、僕は大丈夫です。 木村」

何とも情けない事に、僕はこの期に及んでまだ彼女の哀れみを乞うていたのだ。全く女に振られた男程情けなくて惨めな存在はこの世に一つとして無いだろう。因みにこれ以降川村さんからメールは返って来なかった。やはり女から同情を惹く事など土台無理だったのだ。

 この後、川村さんと僕は何回かメンタープロジェクトで顔を合わせる事になる。それは大勢で集まるときもあれば、二人きりで話をする事もあった。だが特段僕らの間に気まずい空気が流れる事は無かった。それは多分川村さんが僕と話す時にそういう特別な感情を表に出さずに、ただ無機質に、機械的に、蓄音機の如く話す様になったからだ。彼女の視線はこちらを向いているものの、彼女は僕の話を全く聞いておらず、全く噛み合ない話をまるで用意してきた科白の様に話し出すのだ。つまり彼女は見かけ上は僕と話しながらも、細心の注意を払って僕の存在を無視していたのだ。僕は彼女に嫌われる事すら出来ずに、空気になっていた。存在すらも認知してもらえなかったのだ。それを僕は呆気にとられて見ているしか無かった。

 ある日二人で話し合った後の事だ。僕らは別れ際にこんな悲しい会話を交わした。

「それじゃあ、次の話し合いまでに僕が課題を仕上げて、川村さんに一度見せにいくよ」

「うん、メールでも良いよ」

僕の表情がもしかしたら少しだけ曇ったのかも知れない。川村さんは慌てて補足する。

「あ、勿論直接来てくれても良いけど」

彼女は気遣っていた。僕の気持ちではなく、彼女自身の罪悪感を。こんな些事を以て、僕の恋はやっとの事で終わりを告げたのだ。


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