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オフィスで仕事をしている僕は、傍から見ればとても必死に見える事だろう。もしかすると頗る懸命に業務に取り組んでいる姿に見えるかも知れない。だがそれは買い被りだ。僕はもがいているだけなのだ。ディスプレイを凝視し、マウスを動かし、時々狂った様にタイピングしたりしているが、その実は何もやっていないのだ。ただ思考の麻痺した脳髄に鞭打つ様に、何物かに追われる様にひたすら焦燥しているに過ぎない。だから僕はちっとも組織の役に立たなかった。
そう言えば今月の頭に昇格人事が社内の掲示板において発表された。勿論僕は昇格などしていなかったが、僕を除く同期は全員昇格していた。これで同期のうち僕一人平社員な訳だ。ざまぁない。僕は仕事に熱中する事もできず、誰からも期待されず、昇格もできず、友人も満足に作れず、女には振られ、ひたすら憂鬱で、ただ孤独に人の稼いだ金で飯を食っている馬鹿者だ。しかもこれが自分の望んだ姿なのだ。
でも僕だって最初からこんな姿を望んでいたのではないのだ。言い訳をさせてもらえば、何処かで歯車が噛み合なくなったのだ。それは自分のせいかも知れないし、他の誰かのせいかも知れない。そこのところははっきりしないが、僕だって働き出した当初は仕事こそ人生そのものだと思っていたし、仕事で本気になれない奴は人間失格だとさえ思っていた。だが何処かで歯車の歯が欠けて、亀裂が入り、やがては完全に崩壊したのだ。もう元には戻れない。
申し訳ない気持ちはある。だから焦る。甘えかも知れない。だけどもうどうしようもないんだ。怠け者と思われても仕方が無い。でもどうやったら前に進めるのか、本当に分からない。しかもこんなどうしようもない奴が、あろう事か偉そうな顔をして新人の教育などに携わっているのだから、始末が悪い。
しかしだ、僕は生きる為に生きるのだ。それ以外はもはやどうでも良い。そうではなかったか?どんなに仕事で成功した人間でも、ほんの些細な行き違いで拳銃をくわえて自殺してしまったりするのだ。それを思えばおおよその事はどうでも良い筈ではないか?気にするな、何とかなる。生きていれば良いんだ…。そう自分に言い聞かせる。
「あのさ、木村君」
僕は山本さんと言う女の先輩に話しかけられた。僕は顔を上げた。
「もう少し真剣にやってくれる?新人だってあなたよりはマシな仕事するよ?増してあなたここの職場に来てまだ日が浅いんだから、真面目にやってなんぼよ?」
山本さんはとても優秀な先輩だ。普段はとても感じのいい人なのだが、定期的に機嫌を損ねてこんな物言いをする。
「はい」
僕は山本さんには目を向けず、やる気の無い返事をした。こんな事を言われるのは僕が悪い。それは分かっている。だが新人と比べたりする必要があったんだろうか?部下のモチベーションを下げる事は彼女の業務の一部なのだろうか?畜生が。
もううんざりだ。全て捨ててしまえ。不要な物は全て切り捨てるんだ。守る物なんて何一つ無いじゃないか。死を覚悟した人間に恐れる物などない。こんな事を心中呟きながら、僕はパソコンのメーラーを開くと、上司の森口さんに宛ててこんなメールを書いた。
「森口次長殿
お疲れ様です。突然で大変申し訳ないのですが、今私が行っているメンタープログラムを辞退させては頂けませんでしょうか?理由は以下の通りです。
① メンタープログラムの目的が不明確であり、この活動により今後具体的な成果をあげられるとは考えにくいため。
② 私には新人の行っている開発業務の経験が無く、周囲の同期と話が合わず、またそんな私には新人に教えられる事は何も無いと考えたため。
③ 私は現在部門の業務に殆ど貢献できておらず、新人以下の仕事しか出来ていないため、こうした業務外の活動よりもまずは本業において成果をあげる事が先決と考えたため。
メンタープログラムを辞退させて頂く代わりに、本業の業務を増やして頂いて結構です。申し訳ありませんが、ご検討の程宜しくお願い致します 木村」
上司に意見する事など、僕にとってとても勇気の要る事だった。増してやメンタープログラムは部門長命令だ。逆らったらどうなる事か知れたものではない。だが何かが僕の背中を押したのだ。それは多分背水の陣とか窮鼠猫を噛むとか言うやつで、この八方ふさがりの状況が僕を行動に駆り立てたのだと思う。人間は窮地に陥った時にその本性がけざやかに現れるものだ。
尤も追い込まれたが故の反骨精神だけで僕がこんな行動に出られるとは思わない。きっともっと別の理由、そう、川村さんともう顔を合わせたくないという理由が密かにあったのには違いない。それは認める。
ともかく僕は森口さんにメールを送った。その日あいにく森口さんは出張で不在だった。僕は森口さんからの反応を待つ間、ひたすら考えた。
(人生に求められるものは変化だ。変化の無い人生には倦み疲れてしまう。どんなに無謀に思えても、僕は自分の手で何かを変えていかなければなるまい。失う物を失った今、僕にはそれが可能だ。持て余す不幸を、身に余る倦怠を、僕は変化への原動力にする事ができる。安寧秩序地獄に風穴を空ける。これはこれで面白い事になりそうだ。ふふふ…)
かといって僕が強い人間だと言う事ではない。僕が社員食堂でいつもの様に一人昼食を摂っていると、丁度向かいのテーブルに陣取った一組の若い男女が、楽しそうに談笑し、食事していた。小柄なロングヘアの女性と、背の高い男性。多分いずれも後輩だ。僕はそれを見るなり戦慄と底知れぬ攻撃性を覚え、食事もそこそこに席を立った。結局のところ、僕には未だ全てが恐ろしかった。だがそれでいいと思った。あるものへの恐怖心が絶望を招き、人間の残酷性をあおり、やがては恐怖するところのものを却って味方につけてしまう事もあるのだから。
数日後森口さんが出張から帰ってくると、僕は会議室に呼ばれ、そこで面談をした。森口さんは僕の送ったメールをプリントアウトしたものに目を落としながら、開口一番でこう言った。
「メンターの話だがな、行き詰まっているのは見ていて分かるよ。半田さんもどうやら分かっているらしいんだ。だからこれから半田さんが梃入れをしていくってさ。それと開発経験が無いというのは切実な問題だけど、その代わり木村には営業の経験があるからな。まあ何も教えられる事が無いってことは無いだろ。あとは三点目だけど、メンタープログラムはあくまで業務として考えているんだ。業務だから、業務時間中やっても構わないし、必要なら残業時間付けてやったって良い。とにかく折角ここまでやってきたんだから、もう少し頑張ってみろよ」
「はい」
僕は何も言えずに承諾した。煩雑な業務から解放されると信じていた僕は正直うんざりしたが、ここまで言われて抵抗はできない。
森口さんは畳み掛ける様に言う。
「じゃあこの話はこれで終わりな。あとは木村自身の事だが、最近会社で薬を飲んでいるだろ?あれは何の薬を飲んでいるんだ?」
ここまで一々書いてはこなかったが、僕は相変わらず遅刻や無断欠勤を繰り返していた。その原因となる何らかの疾病と、僕の飲んでいる薬の関係に森口さんも薄々気付き始めていたのだろう。僕はこの期に及んで隠し続ける理由も無く、正直に言った。
「ええ、まあ精神疾患と言いますか…」
森口さんは背もたれに反り返って腕を組んだ。
「そうだったのか。道理でいくら言ってもなおらん訳だ。まあおおよその察しは付いていたんだ。昔鬱病になった部下が他にもいたからな。よし、まあそういうことなら、俺たちで何とか木村をサポートしていきたいと思うから、また何かあったらいつでも言えよ」
メンタープログラムは結局辞退するには至らなかった。だけど僕はそれ以上の収穫を得たみたいだ。今まで会社に迷惑をかけ続けていて、その上今取り組んでいる仕事さえ放り出そうとしていた自分が実に情けなく、森口さんに対して申し訳なく思った。これからは何とか自分をコントロールして、全力で組織に貢献したいと思ったのだ。




