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 翌朝、目が覚めると、僕は昨夜の出来事が夢でない事を確かめた。どうやら夢ではなかったようだ。僕は何を糧に生きていったら良いのか分からないながらも、「生きる為に生きる」という合い言葉に励まされながら何とか出勤した。松葉杖に寄りかかる怪我人の様に、僕にはもはや自分の価値観しか頼るべきものが見当たらなかった。

 会社に着き仕事をしていると、昨日の出来事がリフレインされ、それが頭の中を徐々に侵蝕し始めた。

「ご想像にお任せします」

この一言は実に効いた。川村さんの内面にこんなに冷たい言葉が宿っていたとは。女というのは本当に恐ろしい生き物だ。

 川村さんはどうしているだろう?僕は席を立ってそっと川村さんの席を見に行った。彼女は僕の予想に反して、いつもと変わらないどころか、いつもより一層快活に仕事をしていた。まるで昨夜の出来事など微塵も気にかけていないかの様に、天衣無縫の立ち居振る舞いだった。僕は酷く傷ついた。何とも情けない話だが、僕は彼女に少なからず同情して欲しかった。自分が振った男の事を哀れみ、罪悪感に苛まれていて欲しかった。ところが川村さんには見たところそんな様子は欠片も見当たらない。相変わらず周りの男性社員と楽しそうに談笑しているのだ。無情だと思った。

 僕は席に戻って頭を抱えた。放心状態だった。ふとパソコンのディスプレイを見上げると、視界が潤んでよく見えなかった。危うくそれが目から流れ落ちそうになり、僕はまた慌てて机に突っ伏した。

 その時僕の中で何かが囁いた。それは多分、病魔だった。僕はこの病魔の囁きにより、元いた場所に戻りつつあった。怨念の渦巻くあのおぞましい場所に。

(男が女に振られたという事はすなわち何を意味するのか?それはつまり「あなたの遺伝子は後世に必要ありませんよ」と言われているのだ。あの子作りマシンが!彼女らは優秀な遺伝子を選別する為に弱者を差別し、容赦なく切り捨てる。更に女は他の女に切り捨てられた男を決して選ぼうとはしない。なぜならもうその男は他の女によって不要な遺伝子の持ち主である事を証明されているからだ。彼女達にとって僕はもう生ゴミ以上の何物でもない訳だ。従って一人の女に振られたという事は全ての女に捨てられたも同然だ。彼女は僕に死の宣告を下した!彼女は殺人者だ!そしてそれは彼女の生まれ持った権利なのだ。どの女にもその権利は与えられている。その権利こそは国家の繁栄の為に優秀な遺伝子を残すという大義名分に則った国権に他ならない。国権を振りかざし弱者を殺して回る彼女達。それはファシストと言って差し支えあるまい。考えてみろ。なるべく沢山ばらまきたい男の本能が不純で、優秀な遺伝子を選別したい女の本能が純潔とされるのは何故なのか?それは偏に女の本能の方が国家にとって都合が良いからだ。痴漢や強姦魔、盗撮魔は法によって厳しく取り締まられる。「あいつは変態野郎だ」と後ろ指を指される。だが彼は本当に変態か?彼はただ健全な男として生まれてきただけの話ではないか?女の身体に触りたいと思った事の無い男がいるだろうか?男はもはや男として生きる事を許されていない。本能を少しでも垣間見せれば社会から排除される!ところが女はどうだ?容赦なく本能をむき出しにして切り捨てる!しかもそれが当然の権利とされている!真の男女平等を目指すのであれば、男を振った女も逮捕されねばならない。なぜならそれは本能の赴くままに生きた怠惰な態度なのだから)

尤もこんな事は今に始まった話ではない。誰だって薄々は感じている事だろうし、僕にしたって前々から分かってはいたのだ。ところが僕はそれを知った上で敢えて欺瞞に生きようとした。恋愛という営為に手を伸ばしたのだ。確かに人間は欺瞞の中で生きるしか無い。ただだからと言って欺瞞が全ての人間にとって都合が良い訳ではなかった。真理を知った人間の脳裡には絶えず真理の蜘蛛が巣食っている。それは決してそこから離れる事無く生涯彼の中に棲み続ける。真理を捨てて欺瞞に生きようとした者がその欺瞞にすら裏切られた時、真理の蜘蛛は彼をあざ笑い、こう窘める。

「見ろ、やはり世界は真理で出来ている。人間はどうあがこうとも私に決して逆らえないのだよ」

確かにそれは正しかった。ただ僕はもう真理という掟に耐えられそうも無かった。僕はごく自然に思い付いた。

(やっぱり早いところ死んでしまった方が良い)

僕はそう思い定めると、体調不良を理由に会社を早退した。家に帰ると、僕はこれから死ぬまでに何をすべきか考えた。

(今ある貯金を使い果たしてから死のう。とにかく好きな事をするんだ。それからそうだな…貯金が底をついたらどこかのホテルに入って首でも括るんだな)

僕は一応本気だった。しかもそれでいて安逸な気分だった。それは解き放たれた者のつかの間の自由を楽しむ不真面目な態度だ。そこからは自由と破滅が待っているのみ。僕は黙って何も考えずにそこに飛び込めば良かった。

 僕はベッドの縁に座って考えた。

(何もモテなくたって良い。他人に自慢したい訳でもない。ただ一人、一人だけ僕のところに来てくれれば良かったのに…)

 僕は涙をこらえきれなかった。一人で自己憐憫に浸って泣く情けない男の姿。こんな姿は勿論誰にも見せられないが、しかし我ながらその姿は悲哀を帯びて美しく感ぜられるのだった。

 寝るにはまだ早い。僕は落ち込んだ気分を盛り上げる為に、冷蔵庫からビールを取り出し、一思いに飲んだ。そうすると何故だか、ここ最近無いくらいに良い酔い方をした。これが自由の味かと思った。

 そして暫くすると、僕は無性に下半身の疼きを感じだした。ズボンを降ろすと、何と性器が勃起していた。僕はベッドの縁に座って夢中で自慰に耽った。快感は無い。だがほんの少しだけ腿に白い飛沫が飛び散った。それをティッシュで拭きながら思った。

(死ななくても良いか…)

真理は真理で制するべきであったらしい。僕の苦悩など、たかがこの程度のものだった。僕は何て矮小な存在だ。死ぬにも値しないとはね。

 とにかく、僕の告白は終わった。勿論これから何度でも告白する事は出来るだろう。しかし多分何度やっても結果は同じだ。そういうのは何となく空気で分かるものだ。

 翌日から、僕は普通に出社した。周囲から体調を気遣われて、終始卑屈に頭を下げていた。

 僕はやっぱり川村さんと目を合わせる事が出来なかった。その為に始終俯いて通路を歩かねばならなかった。周りの人間から見れば、それは単に陰鬱な態度に映ったかも知れない。しかし傷を負った者は誰しもその傷を矜持として生きる事が出来るものだ。僕はその傷に守られて生活する事が出来た。そのせいか僕は以前の様に生きられなくなる程追いつめられる事は無かった。

 昼食に行く前に、川村さんに社内メールを送った。次のメンタープログラムの面談をいつにするか、という内容だ。振られて気まずい関係になってしまったとは言え、仕事はしなければならないだろう。

 昼食時である。僕は食堂で早々に飯を食い終えると、日差しの照りつける社外喫煙所で煙草を一服した。それでも一時になるまでかなり時間が余っていた。僕は本を読みにラウンジに行く事にした。

 昨日は川村さんを待つ為にラウンジに来たが、昼休みに来るのは初めてだ。昼休みのラウンジはいつもと打って変わって賑やかだった。会社中の女子社員が手作りの弁当を持ち寄って昼食を摂っていたからだ。部屋の隅に置かれているテレビもこの時間には付けてあるようだ。如何にも平和なお昼休みといった生温い空気だ。

 尤もその中に川村さんの姿は無かった。川村さんがどこで昼食を摂っているのか僕は知らない。もうそんな事は僕には関係のない事だった。ラウンジは女子社員ばかりで、僕は何だか居心地が悪かったが、黙って隅の椅子に座り、本を読み始めた。黄色い声で談笑しながら物を食う女子社員達はまるで猿山の猿の様に汚穢な気がした。甲高い哄笑に頭が割れそうになって、僕は読書に集中できず、そこから立ち去りたい衝動に駆られた。しかしそれが出来なかった。なぜなら僕はある発見をしていたからだ。女は猿だ、という発見だ。多分本能的に生きているからだろうと思う。男は絶えず本能的欲求の抑制を強いられている。彼女達にはそれが無い。世間が女の本能に価値観を合わせているのだから当然だ。女の犯罪者が男のそれよりも少ないのは、女が理性的だからではなく犯罪の必要性が薄いからだ。尤もそんな理由は後付けであって、その時の僕にはただ直感的にそれが感じられた。丸テーブルを囲んでぺちゃくちゃと話をする女達。テレビを見ながら時折弾ける様に下品な笑い声を立てる女達。ゴシップの好きな女達。皆が欲しがるものを欲しがる女達。僕の読書を邪魔する女達。僕はうんざりした。いつもなら、こんな時は川村さんの妄想に逃げ込めば良かった。しかしもう彼女への道は塞がれていた。僕はもう彼女に辿り着けないし、よしんば辿り着けても、それは他の誰とも違わない純然たる女だったから。

 とにかくもう何もかもが無理だった。僕は静かにそこを立ち去るとオフィスに戻り、メーラーの受信箱をチェックした。川村さんからの返信はなかった。僕はどうしようもない憤りを感じ、それを抑えるのに必死だった。メス猿は猿山の頂上にいるボス猿以外に興味を抱かないらしい。すると彼女の価値観から見てボス猿になれる筈も無い僕は生涯彼女に振り向いてもらえない訳だ。

 三島由紀夫の小説に『禁色』という作品がある。作中の登場人物である悠一はゲイだった。彼にはどんな美人も女というだけで猿にしか見えないらしい。確かそういう記述があった様に思う。勿論ここでいう猿とは性的魅力を感じない事の比喩だろう。だがこうも書かれている。

「精神的女性という手合は、女の化け物であって、女では無かった」

つまり三島にとって精神の不在こそ女の女たる象徴であったのだ。そしてこの精神の不在は時として真空の刃の様に周囲を傷つけて、他の精神を死に至らしめる。しかもそれは何の悪意も持たない自然現象ときており、その上男はその自然現象たる真空に惹かれるべく創造されている。誰を責める訳にもいかない。女はただその存在を以て凶器なのだ。三島の作品からはあらゆる点でそういう女に対する呪詛が見え隠れしている。こういう視点で見ると、「猿」というのは単なる比喩表現という訳ではなく、ある種の恐れから来ている差別表現に思われる(これは余談になるけれど、三島が同性愛者だったというのも、実際のところかなり怪しいと僕は思っている。三島は自己の性的魅力のなさを至る所で自嘲気味に嘆いている。それがいつしか女への失望、恐れに変わり、自尊心の強い三島は苦肉の策として同性愛者という仮面を被らざるを得なかったのではないかと思う。それが作家としてのパフォーマンスとなり得る事まで計算に入れていたのかは分からないけど、あれだけ頭のいい人だ。きっと計算ずくだったに違いない)。

 しかし僕はそこまで断言しておきながら、なお女に惹かれずにはいられなかった。本能とは愚かしい程に精神を形骸化させてしまう。つまり僕も猿に他ならなかった。果たして僕に精神はあったのだろうか?

 その日社員食堂で夕食を摂り、オフィスに戻る途中、帰宅途中の川村さんと偶然すれ違った。僕は気まずさを感じながらも、それをかき消すべく挨拶をしようとした。だが彼女は必死で目を伏せて、決して僕と目を合わせようとはしなかった。すれ違いざまに僕は彼女を凝視した。身を乗り出す様にして、僕が彼女を見ている事が容易に察せられる様にポーズを作ったのだ。だがそんな努力をも彼女は無視した。目をこすっている様な風を装って、その後は腕時計を見る振りをして、意図的に無視した。僕は自分が思っている以上に嫌われたらしい。可愛らしく見えた川村さんも、一皮むけばやはりただの女だった。その時の僕には、もはや女に対する怨念を飛び越えた諦念しか無かった。しかしそれは正反対の性質を持った何物かに変わりつつあった。つまり他人否定、自己否定、自己肯定といった具合に。

(やはり猿だ!猿だ猿だ!髪の毛を伸ばし茶色に染めた猿!黄色い服を着て、フリルの付いたスカートを履いた猿!優秀な子づくり装置を体内に宿した猿!飯を食い、排泄をして、昼寝して、ちょっと仕事して、子供を産む猿(字余り)!人間誰しも本能には勝てない。だがそれが美徳とされた人間にはもはや精神、理性など不要である!人間の人間たる所以である精神を排除したこの即物性こそが女が人間ではなく猿である証拠だ!しかもそんな猿に惹き付けられる男もまた猿だ。間違いなく僕ら人間は必要ない。猿が何匹いようと人間的精神の発達はありえないからだ!人間は進歩などしない。未来永劫命をつなぐ必要などさらさらない。そんな行為は大いに無意味だ。僕らは生きる意味など考えずにただその時を生きれば良い!)

不思議だった。「生きる為に生きる」とはそもそも僕が存在の理由を外部に求めずに、ひたすら自己の生にのみ見出す為の価値観だった。それがどういう訳か外部に存在の意味を見出し、一縷の希望を得た後にそれを失い、またここに戻ってきた。そうしたらまたこの価値観に邂逅したのだ。間違いない、これは快癒だ。僕は欺瞞に満ちた人間世界の地獄から命からがら逃げおおせ、再び自己目的化した人生を歩めることになった訳だ。これは病気じゃない。快癒だ。病んでいるのは周りの人間達の方だ。良かった、これで僕は僕でいられるのだ。

 オフィスに戻る途中、降りてくるエレベーターを待ちながら、僕はそんな思いに胸を膨らませていた。


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