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 翌日の午後七時。僕は仕事を終えて(殆ど何もしていないのだが)帰り支度をした。パテーションの向こうを覗くと、川村さんはまだ仕事をしている。彼女の部署は今繁忙期だから、十時くらいにはなるのだろう。ご苦労な事だ。女の子だからと言って早く帰しては貰えない、そういう時代だ。

 僕は川村さんの退社を待つ事にした。有り体に言えば待ち伏せだ。そこで告白をしようと思った。そんな方法がとても陰湿である事は分かっていた。だが二人きりになれる時間なんて、こちらから作らないと実現し得ない。僕はもう待つ事は出来ないのだ。

 七時から八時までの間、僕は会社のラウンジで本を読みながら待っていた。サルトルの『自由への道』だ。

「きれいだよ」と彼は言った。

「そんなことないわ」とイヴィックは笑いながら言った。「それどころか、おそろしいほど醜いの。これがわたしの秘密の顔」

「ぼくはこっちのほうが好きだ」とマチウは言った。

「それじゃあ、明日はこの髪型にします」と彼女は言った。

何て甘い会話だろう。しかもそれでいて毒に満ちている。僕はこんな気の利いた会話は出来そうにない。いや、そもそもそんな事を考える必要は無い。大体告白などという罪悪を白状する様なネーミングが良くない。これは提案だ。僕と一緒に幸せになりませんか?という人生の提案。あるいはお誘い。何も仰々しく考える必要は無いし、恥ずかしがる必要も無い。言葉などどうでも良い、伝達こそが僕の責務だ。だがどうしても自信が持てない。そこで僕は手帳に伝えるべき言葉を書き留めた。それらを暗唱できるまでぶつぶつと繰り返すと、時計は八時を指していた。僕は川村さんがまだオフィスに残っている事を確かめると、一階の出入り口付近の屋内で待ち伏せをした。通り過ぎる社員の視線が気になったが、とは言え今の僕に失うものなど何も無い。

 八時半、僕はずっと壁にもたれかかりながら、ガラスの扉を隔てた屋外を見張っていた。本など読んでいると見過ごしてしまう可能性があるので、ただ一心に目を凝らして一点を見つめているしかない。屋外は漆黒の闇で、青白い外灯の明かりがほんのり道を照らすのみだ。川村さんは帰宅する時必ずここを通る。つまりここを通る川村さんに偶然を装って声をかければ良い訳だ。実にシンプルで、失敗のしようがない。

 九時、まばらに人々が退社していく。たまに背格好の似ている人が通るとひやりとさせられる。何よりも待ち時間というものは辛い。本も読めず煙草も吸えず、ただひたすら待つしかない。待ち人は来ず、時間の流れだけが重苦しく…。そんな言葉が時折脳裡を掠める。しかし僕はこの瞬間が永遠の過去、つまりどこにも存在しない時間のレプリカに化してしまう事を知っていた。増してこの試みの結果如何ではこの時間はむしろ素晴らしい思い出となる。辛いけれども、確かに希望がそこにはあった。

 九時半、まだ川村さんは出て来ない。まあ十時頃にはなるのだろう。気長に待とう。そう思った矢先に突然の驟雨に襲われた。通りの人々は皆傘をさし始め、こちらから顔が分かりづらい。これでは見過ごしてしまう。この不運は何故だろう?僕の行為は何者かに阻止されようとしているのだろうか?いや、それは天気予報を確認して来なかった僕の怠惰が原因だ。従って恐るるに足りない。僕は持っていた折り畳み傘を用意し、いつでも外に出て瞬時に傘がさせるように準備した。

 十時、川村さんはまだ出て来ない。雨も弱まって来たので、僕は外に出て、ガラス越しにではなく直に行き過ぎる人々を見守った。するとすぐに同じ部署の井上さんに会った。

「あれ?お前大分前に帰らなかったっけ?」

「ええ、そうなんですけど、今人を待っていまして」

まあ嘘ではない。

「へぇそうか、じゃあお疲れさん」

あっさり引いてくれて良かった。いつも世話になっている先輩だが、今は長話している場合ではない。

 暫くすると、川村さんと同じ部署の社員がぽつりぽつりと出てき始めた。そろそろ来る頃だ。男性社員が二三人で連れ立って出てくる。

「今日も疲れたなあ」

彼らは何と無邪気なのだろうか。しかし僕の脳裡にふと不安が過った。川村さんが誰か友達でも連れ添って出て来たら、この計画は台無しになってしまう。もっと早く気が付くべきだったかも知れないが、それだけが唯一の心配であった。しかしそんな心配をよそに、一方で僕はある決意を固めていた。もし川村さんへの想いが成就したら、僕はすっぱり文学を辞めてしまおうと思ったのだ。自分の為ではなく、彼女の為に全力で生きたいと思ったからだ。そこに文学の入り込む余地はない。小説など書く暇があったら、ひたすら専門知識の習得をして、少しでも多くの給料を稼げる様に努力すべきだと思った。一方もし駄目だったら…そんな事は考えたくもなかったが、その時はまた文学に戻って来ようと思った。そうなったら、僕はまた孤独な文学を書き続ける事になるだろう。あるいはそれも悪くない。

 そんな事を思っている間に、遂に川村さんらしき人影が見えた。一際丸みを帯びた人影が、玄関先にある傘立ての傘を引き抜いた。どうやら間違いない。傘をさして歩き出した彼女に、僕は躊躇いながらも近づいていった。まだ少し雨が降っていたが、僕には傘などさす余裕はなかった。

「川村さん、お疲れ」

彼女はこちらに気付くと驚いた顔をした。

「あら木村君、お疲れ様」

僕はとりあえず何気ない会話から始めた。

「昨日は無事に帰れた?」

「うん、帰れたよ。家からお迎えが来たからね」

「そっか」

暫く沈黙が続いた。が、僕はそれを突き破った。それは極めて唐突な、会話の流れを故意に断ち切った一言だった。

「ねえ、話は変わるんだけどさ、川村さんにお願いがあって」

「ん?」

不思議な目つきでこちらを見つめる川村さんに僕は自分でも驚く程あっさりと言い放った。

「僕と付き合ってくれない?」

川村さんはこちらを向き、大きく目を見開いたかと思うと、

「付き合うって、どこに?」

と、とぼけた顔でまるで見当違いの発言をした。これは僕が思うに天然ボケではない。僕の発言の真意が分かった上で、頑なにそれを拒もうとしたのだ。もし彼女にそれほどの自覚が無かったとしても、気になる男に「付き合ってくれない?」と言われて違う解釈をする女がどこにいようか?つまりその瞬間、僕は振られる事を覚悟した。

「どこにって、僕にだよ」

僕はさすがに気まずくなり、苦笑しながら言った。

「ああ、人間としてのお付き合いの事ね」

ここまでとぼけようとした女からいい返事が得られるとは全く思わなかった。しかし僕は後悔のないよう、用意していた言葉を淡々と述べた。

「ごめんね、いきなり言われてもびっくりするよね。でも僕、川村さんの事をもっと良く知りたいと思ったんだ。僕が何か特別な事をしてあげられる訳じゃないと思うんだけど、それでもなるべく川村さんが喜ぶ様な事をしてあげたいなって思ったんだ」

川村さんからいつもの微笑が消え、代わりに困惑の表情が浮かんでいた。

「そうですかぁ、そうですかぁ…」

と、何の意味も無い言葉を出来るだけ引き延ばし、かつ何度もそれを繰り返した。どうやって断ろうか考えているのだろう。こちらとしてはのこぎりでゆっくりと首を切られている気分だ。いっそひと思いに殺して欲しい。やきもきして僕はとどめの一言を放った。

「僕は本気だよ」

すると川村さんは観念した様に「そうですかぁ」を止め、

「うーん、とても嬉しい事ではあるんだけど…」

と切り出した。

(それ見た事か!)

僕は心の中で自嘲した。そしてその譲歩・逆説の後に続くであろう、彼女の本音に耳をそばだてた。

「私、木村君のこと同期だと思ってるし、うちの会社って同期が十人しかいないでしょ?だから…まあその、同期同士で話す事は多いと思うんだけど、それはただ同期と言うか、友達と言うか、そういうイメージが付いているっていうか…」

見ろ。これが彼女の本音だ。彼女は確実に嘘をつこうとしている。僕を欺く事で、穏便に断りを入れようとしている。勇気を出して告白した者に対してでさえ、人間は我が身可愛さに嘘をつくのだ。

「それにね、私も実は今好きな人がいるし、あっ、これは皆には内緒だよ」

恐らくこれも嘘だ。好きな人なんていやしない。それならば回りくどい言い訳などせず、いの一番にそれを言う筈だからだ。つまり僕と付き合うくらいなら一人でいる方がマシなのだ。ただそんな事は到底言えずに誤摩化しているのだ。僕は問いただした。

「好きな人って、今付き合っている人がいるの?」

彼女は一瞬躊躇った後にこう言った。

「それは…ご想像にお任せします」

そう言った時の彼女は鼻持ちならない態度だった。ほら見ろ。やはり嘘だ。これだけ嘘で塗り固めた挙げ句に、最後の最後で嘘をつく事を、彼女は拒んだ。この一点を死守する事で、彼女は決定的な嘘をつく事を免れたのだ。もう良い。うんざりだ。

「そうかそれならしょうがないね。ごめんね、足止めしちゃって」

「ううん、じゃあね」

僕は彼女に手を振り、雨の中傘もささずに帰宅した。頬を流れ落ちる滴が、とても冷たかった。しかしこれで良い。結果はさして重要ではない。僕は自己防衛本能という悪癖と戦い、彼女の自尊心の肥やしになる形で犠牲となった。こんな時、僕らの命は薔薇の様に咲き誇り、涙と共に散ってゆく。

 しかしその時の僕は全てを失っていた。そこでは過去がまるで針の筵の様に背後から僕を突き刺していた。しかも僕にはそこから逃れるべき未来が無かった。未来とは数直線上にあるのではない。現在を取り囲む様にして、全てが自分から等距離に並んでいるものだ。自ら手を伸ばしてその尻尾を掴むより他無い。しかしながら僕にはその未来が無かった。逃げ場を失った僕は、暗渠に沈む現在をただ呆然と見つめるしか手立てが無いのだった。


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