表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/20

 僕は何とも愚劣な間違いを犯していた。それも平凡で、ありがちな間違いだ。そしてそれに気づくのが遅すぎた。もはや何の言い逃れもしようがない。

 最初にこんなことを言うのもなんだが、僕は一年と半年くらい前に、いろんな事情が重なって鬱病に罹ってしまった。それ以来なるべく人づきあいを避け、一人部屋にこもって絶望の海を虚しく、轍鮒の如く息も絶え絶え泳いでいた。正直に言うと死ぬことしか考えられなかった。どうして死ぬのかと聞かれても、明確な理由はない。ただ自分自身に絶望してしまうと、自分が自分でいる限りは生きている意味などないような気がしてくるのだ。尤もこれも月並みな話ではある。しかし月並みだからこそ余計に辛いのだ。

 そんな時に出会ったのが哲学だった。哲学は生とか死とか、自我だとか道徳だとか、その他普段は恥ずかしくて口にもできないような抽象的な概念の意味を必死になって考えている学問だ。こんな永久に答えの出そうにない問いを繰り返す学問は、ある意味最も絶望的な学問だと言っていいように思う。しかし絶望は絶望を以て制す事が最良の治療法だったようだ。キェルケゴールだのニーチェだのサルトルだのカントだのショーペンハウエルだの、とにかく手当たり次第に読んだものだ。僕は哲学に熱中するあまり、暫し絶望を忘れていた。絶望について考えるがあまり絶望を忘れていたのだ。これもキェルケゴールに言わせれば絶望の一形態なのかもしれないけれども。

 ともかくそんな風にして時を過ごしていると、僕は次第にある衝動に駆られるようになった。ものを書いてみたい、書いて自分の考えを吐き出したいというような衝動だ。尤もこれは哲学をする人の悪い癖で、「こんな事を考えているのは自分だけに違いない」という傲慢な思い込みが当時の僕にもあったように思う。そしてそんな特権意識に浸っていると、次第に孤独を感じるようになってくる。「誰も自分の事など理解し得ない」というような矜持と不安の混淆した孤独だ。そうしていつしか自分の内面が得体の知れぬ圧力で破裂しそうになるのとほぼ同時に、僕は実際にパソコンに向かってものを書くようになっていた。最初は自分の生い立ちから何から好きな事を好きなだけ書いていた。それが次第に変化していき、自分で話を作ってみたり、そのうちにある程度まとまりのある文章としてしたためるようになったのだ。それが文学とか小説とか呼べる代物であるかどうか僕には分からないけれど、僕はそうしているうちに文章を書くことが生きがいになっていき、それに希望を持つようになった。知っての通り、文学というものは孤独と頗る相性がいい。基本的には書くのも読むのも一人だ。まあ素人の場合はね。僕は次第に文学というものに没頭するようになった。それからは自分の文章だけでなく他人の文章も味わってみたくなり、今まで読んだこともなかった文学作品を読みふけるようにもなった。そうして読むことで内面の豊かさを蓄積しては、自分でも文章を書くということを繰り返すようになった。実際に書いてみると、それは決して楽しい事ではなく、むしろ苦しくさえあった。けれどもそれは煙草と同じ様に、大して美味いとも思わないのにやめる事が出来ない。僕は軽い文学中毒に陥った。

勿論これ自体が間違いとは思わない。僕は自分の陥った暗黒の生活に少しだけでも明りを灯すことができたのだから。けれども僕の書く文章とか、そのために繰り返す思索というのは、結局追い込まれた状態から逃れるための逃げ道だったのだ。それは自分を追い込んだものに対する呪詛であったり、自分にとって都合のいい世の中の解釈であったり、あるいは世間一般の良識や道徳といったものの一切を否定して自分だけが真理を掴んだ気になってみたり…。要するに厭世主義だった。このせいで僕は一層孤独になった。僕を絶望から救ったかに見えた営為というのは、実は僕を一層現実世界から遠ざけ、より絶望的な状況へと追い込んでもいたのだ。

 これが僕の犯した間違いだ。もしかすると、ものを書く人間の動機などというのは大概こんなものなのかも知れない。しかし僕はもうこんな間違いを繰り返したくはない。排泄物をまき散らすような醜い、愚かな事はしたくない。きっと文学はそんなものの為にあるのではない。そんな文学もあるにはあるが、それはきっと作者自身を不幸にするパンドラの箱だ。僕は負の力で生きたくはない。馬鹿みたいに前向きに生きたい。それがどんなに下らないことでも、偽りであっても、それが一体何だろうか?必ずしも「真」というものが「偽」よりも価値を有するとは思わない。これはニーチェの受け売りだけどね。

 僕が書きたいのは人を不幸にする真理よりも、人を幸せにする虚偽である、と言うと言い過ぎかも知れないけど、僕らはどんなにあがこうとも、結局のところ虚偽の中で生きるしかないと思う。

 しかし、そうは言っても僕に人を幸せにできる程の筆力や想像力があるとは思えない。いや、というよりも今まで負の力だけで生きてきた人間がいきなり真っ当な事を書こうとしても、それはそれで大変に空疎な内容に終わってしまう事は想像に難くない。僕はまだ病魔から完全に解放された身ではないのだ。

 そういう訳で、僕は美文を書くでも無く、難しい言葉を並べ立てるのでも無く、また面白い物語を創り出すでも無く、ただ思ったままをここに記そうと思う。と言っても心境小説とは違う。心境だけで終わらせる訳にはいかない。僕はこの話を書き終える頃には、自分自身に対して何らかの決着をつけたいと思っている。この話の結末は僕にとって画期的なものでなければならない。作者は作品に作られるものだからだ。

 僕が書く文章には言葉の端々から負の匂いが漂うかも知れない。それどころか僕が真っ当と思って書いたものが他人からしてみれば殆どが負の性質を帯びていて、読者は九十九%以上の負の連鎖をかき分けつつダイヤモンドの原石を探し出すかの如くあるのかどうかも分からない真っ当なものを見つけ出す作業に追われるというのもあり得る話だ。この点に関しては最初に謝っておこうと思う。

 だけども僕はもう世の中も自分も恨んでない。怨念にまみれた暮らしにピリオドを打ちたい。この気持ちは本当だ。僕はいつだって前向きなのだ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ