服をクマぁ
まったく酷い目にあった。熊の言葉なんて信用するんじゃなかったよ。それにしてもあの熊、いつまで死んだふりしてるんだ?
俺は窓越しに、倒れたままの熊を観察する。やがて、どうでもいいか、と思い直す。どっちにしろ人間を襲った熊だ。遅かれ早かれ殺処分されていただろうし、ここに居るって事は実験体として捕まったのだろう。
同じ実験された身としては、少なからず同情するが、先ほど襲われた事を鑑みると憎悪の方が勝った。あばよ、熊。多少の情として、俺はお前の分まで自由に行きてやる。せいぜい悔しがってくれ。
俺はニヒルな自己陶酔に浸りながら、その場を後にしようとした。が、少し遅かった。
「なんじゃお主、まだおったのか?」
後ろから腹立つ声が聞こえる。振り向くまでもない、ぬらりひょんな見た目のクソジジイだ。
俺はそれを無視して、出口の方へ歩き出す。
「待て待て、お主その背中はどうした? ウェアに三本の斜め線が入って、アディダスみたいになっとるぞ? そんなオシャレカジュアルを用意した覚えはないんじゃが」
あー、熊め。俺の一張羅を傷つけやがったのか。それにしても用意しとけよ、オシャレカジュアル。こちとら華の二十代だぞ。老い先短いジジイとはセンスが違うんだよ。
「着替えた方が良いぞ? アディダスから毛がはみ出ておる。訴訟されても知らんぞ」
なにそれ怖い。俺は渋々ながら従い、上半身のウェアを脱いだ。それを翻して傷跡を見る。ぱっくり綺麗な線が三本入っていた。
うへぇ、貫通してるじゃん。俺の背中、よく無事だな。今の所、痛みはないけど心配だ。熊の爪なんて、どんな病原菌がいるか分からないからな。
「先生! 熊の様子が変です!」
「変とはなんじゃ? ちゃんと報告せい」
「仰向けに寝そべったまま、動きません」
「仰向け? あの警戒心の塊がか? どういう事じゃ?」
なんか、後ろでごちゃごちゃ言ってんな。つうか、先生って呼ばれてんのかよあのジジイ。本物の先生に謝ってほしい。まずはそれよりも、服だ。替えの服をくれ。その後、謝ってくれ。
そんな考えで俺は振り返り、そしてギョッとした。
通路にはジジイを先頭に、白衣の集団がぞろぞろいた。こんなに人が居たんだね。知らなかったわ。
つうか、財前教授の診察かよ。白い巨塔ごっこは他でやってくんない? ジジイはそもそも医者じゃないだろうが。おこがましいんだよ、ぬらりひょんのくせに。
「なあ、替えの服ちょうだい」
「黙っとれ! 今はそれどころじゃないのが分からんか!」
分かんねぇよ! 何キレてるんだてめぇ! 俺にとっては服の方が断然重要ですけど!?
「何故じゃ? 何故あの熊はあんな行動を取っておる? 急に警戒心を解くことなどあり得るのか?」
「いや、ただの死んだふりでしょ」
「馬鹿か貴様! 熊が死んだふりなどするものか! ……だが、あの熊は人間を襲った凶悪な個体。もしかすると儂らを騙しておるのか?」
「そうそう。あの熊は騙すのが上手いんだよ。俺も騙されたし。人間は襲わないって言ったのに、俺が後ろを向いた途端に爪立てやがってさ」
「馬鹿じゃな、お主。熊に背を向けるなど、自殺行為じゃ、ぞ? ん? お主、今何て言った?」
「え? 騙すのが上手い、だろ? おかしな事言った?」
「人間は襲わない、なんて誰が言ったんじゃ?」
「だから、あの熊が言ったんだよ」
俺がそう答えた瞬間、周囲がしんと静まり返り、やがて笑い声が木霊した。
「ククク、熊が言った、か。面白い冗談じゃな。お主にそんなユーモアがあるとは知らなかったわい」
あ、やっべぇ、熊と話せるって言っちゃった。でもこの反応は、熊と話せる気でいる頭の可哀想な子って感じだな。よし! 甘んじてそれを受け入れよう。これ以上、ボロを出さないように気を付けなくては。
「ま、まあね。皆さんの空気が固いからさ、ちょっとしたユーモアで和んでくれれば良いかなって」
『ハッ! 何されたベア!? 何で俺が倒れてるベア?』
「先生! 熊が起き上がりました!」
「ふむ、何やら挙動不審に見えるの。辺りをキョロキョロと窺っておる」
『あ! 居たベア! そこの人間! 俺に何をしたベア!?』
「何だ? こちらにやって来るぞ? 無駄じゃ無駄じゃ。この硝子はその程度でヒビ一つ入りはせんわ」
「……えっと、誰でもいいから替えの服をくれない?」
俺は熊と目を合わせないように、移動する。その動きが連動したかのように、熊も移動する。
おい、クソ熊。真似すんな。俺はお前なんて知らん。
『卑怯者の人間! どんな手を使って俺を倒したベア!? 無視すんな! くまわすぞ!』
うるせぇうるせぇ。そんな挑発に俺が乗るとでも? 甘いよ熊。
『ド低脳! 毛むくじゃらの不細工! 人間未満! 粗チン!』
「誰が粗チンだ! クソ熊! もう一度ぶん殴ってやろうか!?」
『やれるもんならやってみるベア! 今度は本気のベアナックル喰らわせてやるベア!』
「なぁにがベアナックルだ! ただ引っ掻いただけじゃねぇか! お前の爪なんて高が知れてるんだよ非力が!」
『ムッカつくベア! お前は喰わずに爪の錆取りにしてやる!』
俺は熊に尻を向けて叩いた。次いでに、あっかんべーもした。俺は調子に乗っていた。だから、周りの視線に気が付かなかった。
「お主、まさか本当に熊と話せるのか?」
その言葉で俺はピタッと硬直し、視線を宙に彷徨わせる。
「ナンノコトデスカ?」
「とりあえず、詳しい話を聞こうではないか。ほれ、新しい服も欲しいじゃろ?」
ああ、また失敗した。
俺は笑みを張り付けたジジイを見て、そう思った。




