落ちたクマぁ
ムシャクシャして書いた。後悔はしていない。
――202X年 日本 C県H市
秋の朗らかな陽気に包まれながら、俺は登山道を歩いていた。目的は紅葉だ。
昨今の著しい気象変動により、夏は長く感じられ、かと思えば、冬があっと言う間にやってくる。そんな異常性の中でごく僅かの期間に訪れる紅葉狩り。
前々から行きたいとは思っていたが、中々機会に恵まれず、ようやく有給を取れたのは、もうすぐ冬の始まりに差し掛かろうとした時期だった。
レンタカーで地元から離れた穴場スポットを見つけるのは容易ではなかった。現代のSNSにより、穴場というカテゴリーは淘汰されたと言っても過言ではない。だからこそ、獣道に似た手入れが行き届いていない登山道を見つけた時はテンションが上がった。まるで宝物庫への鍵を手にした気分だった。
鬱蒼とする草木を掻き分け、歩みを進めて行くと、人間一人分の幅で連なる道に出た。後はこの道を登って行くだけだった。リュックから水筒を取り出し、喉を潤す。人気は皆無、まさに貸し切り状態だ。
「ふん〜ふふん〜♪」
俺は上機嫌に鼻歌を奏でながら、道を歩いて行く。恐らく緩やかに勾配が上がっているのだろうが、まだまだ坂とは呼べない道だ。時折、顔を上げ、紅葉を楽しんだ。どうせなら見晴らしのいい場所まで登り、あらゆる角度から紅葉を見渡したい。
「ん?」
異変が最初に訪れたのは、嗅覚だった。何やら牛乳を拭いた雑巾を乾かした臭いがした。ツンと鼻につく臭いだ。
次に訪れたのは、ガサガサという草木の騒音だった。まるで森からの警告音に思えた。
俺は立ち止まり、素早く辺りを見回した。後ろに熊がいた。
(え? 熊? 本物? ヤバいヤバいヤバい)
俺の心臓が早鐘を打った。ドクンドクンと血流が余りにも騒がしい。かと思えば、背筋から冷たい汗が流れた。
(落ち着け落ち着け、まずは死んだ振り……いやいや、それは確か本当に死ぬやつ。どうするどうする?)
精神が極限まで迎えると、最早理解不明な行動を取るのが人間の性であり、俺の行動であった。
俺はリュックを熊に投げつけ、全力で逃げた。山の頂の方へ。
ただひたすら走る。帽子から靴に至るまでの全てはワー◯マンで揃えた物だ。外仕事の味方であり、アウトドアにも最適な品揃えは天下一品。ありがとうワー◯マン。俺、これで無事に帰ったらワー◯マンと結婚するよ。
数秒が永遠に感じられた。もしかして、熊は追って来てないのでは? リュックもあげたし、許して貰えたのでは? そう思い、チラリと首を捻って後方を確認すると、ズタボロになったリュックを咥えながら熊が迫ってきた。
「クソッタレ!」
俺は思わず叫び、立ち止まった。
熊への怒り? それもあるが、俺が止まった理由は、目の前に道が無かったからだ。
天災か老朽か、いずれにせよ普段は岩と岩を繋いでいるはずの橋が壊れていた。向こうの岩との距離は、目測で十メートルはあるだろうか、とてもじゃないが飛び移れない。俺が走り幅跳びの世界記録保持者だとしても、御免被る。
この様な場合、普通ならまず引き返す。ある種変態の人は、高巻きで渡るかもしれない。高巻き、それは言ってしまえば回り道だ。滝を避けながら山を登る方法で、非常に疲れる。
けれど、現状俺にはその高巻きすら選択肢が無い。熊が近すぎていて、回り込む余地が無い。前門の崖、後門の熊。最悪だ。
「ウガァァッ! ウガァァッ!」
俺は雄叫びを上げて地団駄を強く踏む。その際に、両手を伸ばして体を大きく見せた。頼む、効いてくれ。
熊はペッとリュックを投げ捨て、鼻息荒く俺との間合いを詰めてくる。駄目だ、狩る気マンマンだ。
俺は一瞬の間に逡巡し、崖から飛び降りた。いや、落っこちた。賭けだった。上手く行けば木がクッションになってくれるかもしれない。淡い期待だった。
冬の始まりは既に訪れていた。夏は青々とした生命力溢れる葉を宿し、秋に姿を変え生命を燃やし、冬には落ち葉となって新芽の季節を待つ。
つまりは、クッションという上等な物は燃え尽きたのだ。
俺の意識はぶつりと切れた。




