第9話 破滅の序章その1
王都アルヴェリア――。
白亜の城壁が夜霧に包まれ、塔の鐘が深く鈍く鳴り響く。
その音が、王国の“沈みゆく運命”を告げる鐘のように聞こえた。
王宮執務室。
黄金の燭台に揺れる炎のもと、国王アルトレウス・アルヴェリアは一人、沈黙していた。
机の上には、破れた追放令状。
その名には――ライル・アーヴィング。
かつてこの国を守護した騎士の名が記されていた。
「……やりおおせたな、陛下」
低く声をかけたのは宰相のグラン。
しかしその声には安堵よりも、深い憂慮が滲んでいた。
「ライル殿を……追放なさったのですか。本当に」
「そうだ。あの男は、忠誠を超えていた」
王の目が、夜の闇のように濁る。
「忠誠が重すぎれば、やがて王を縛る枷となる。私は……私の王国を守るために、切った」
「しかし……陛下。彼がいなければ、この国の軍は――」
「黙れ」
王の声が鋭く走った。
「たかが一騎士に、この国の命運を握らせるほど、我が王権は軽くはない!」
だが――その言葉とは裏腹に、王の手は震えていた。
ペンを握る指が微かに震え、封蝋の跡が歪む。
(……あの瞳が、脳裏から離れぬ。あの冷静な青の瞳……いつか私を見限る日が来ると思っていた。だが……)
それは恐怖だった。
王でありながら、王であることを脅かす“力ある忠臣”への恐怖。
そしてその決断が、いままさに――国を蝕み始めていた。
二日後、王都外縁・地下拠点
暗い地下室の奥で、粗末なランプの灯りが揺れる。
反乱軍の指導者たちが集まっていた。
「おい、聞いたか? ライル・アーヴィングが王都を去ったらしい」
「馬鹿な。あの“守護者”が?」
「間違いない。俺の弟が王都の衛兵でな、昨日、追放令状を見たと言ってた」
沈黙が流れ――やがて笑い声が響いた。
「ハッ! じゃあもう王都は裸も同然だな!」
「今だ……今こそ立ち上がるときだ! 王は狂った!」
反乱軍の旗が、夜の風を受けてはためいた。
その旗には、かつてライルが守ったこの国の紋章――“双翼の剣”が皮肉にも刻まれていた。
王都・市場通り
昼間、平穏だった通りが一変していた。
焼け焦げた屋台、割れた窓、逃げ惑う民衆。
衛兵たちは盾を構え、暴徒を押さえ込もうと必死だ。
「落ち着け! 暴れるな!」
「落ち着けだと!? 守る者はいないんだ!」
「王は俺たちを見捨てたんだ!」
群衆の中から投げられた石が衛兵の兜を打ち、金属音が響く。
一人、また一人と兵が押し返されていく。
誰かが叫んだ――
「守護者がいれば、こんなことにはならなかった!」
その一言が、王国の現実を突きつけた。
王よりも、誰よりも、民が信じていたのは――ライル・アーヴィングという“盾”だったのだ。
王宮・夜
「……報告いたします。王都南門、暴徒に制圧されました」
「な、何だと……!?」
「各地で反乱の火が広がっております。西の砦も沈黙、北部の街では徴税官が――」
「ふざけるなッ!!」
王が拳で机を叩く。
紙束が宙を舞い、蝋燭の火がゆらりと揺れた。
「武力をもって鎮圧しろ! 反乱分子は全て捕らえろ!」
「ですが、軍の統率が……。ライル殿の直属部隊が抜けたことで――」
「貴様らはそれでも王の臣下か!?」
怒号が広間を満たした。
しかし、その背後では――重臣たちが互いに目を逸らしていた。
(陛下は、もはや冷静ではない……)
老宰相グランは、震える手で額の汗を拭いながら、静かに呟いた。
「……陛下、これはもう……国が……」
その声は、誰にも届かない。
王の視線はただ、夜の窓の外――燃え盛る街を見ていた。
国境・南部砦
「陛下に伝えろ。……南部の砦は陥落した!」
伝令が息を切らせて駆け込み、地図の上に赤い印が落とされた。
赤印は増え続け、王国の輪郭を蝕んでいく。
「南の傭兵団が動きました! 他国の旗を掲げています!」
「なに!? 条約はどうした!」
「……ライル・アーヴィング追放の報が流れた直後です。王国は“守護者を失った”と……」
「ぐぅ……!」
王は拳を握り締めた。
爪が食い込み、血が滲む。
「……なぜだ。なぜ……あの男一人がいなくなっただけで……!」
老宰相が静かに答えた。
「陛下……。彼は、“剣”であると同時に、“信”でもありました。
民も兵も、彼を信じていたのです。……それが、いま失われました」
「信だと? 王を差し置いて……?」
王の声が震えた。
「この私が……この国の王が、信を失ったというのか……!」
誰も答えなかった。
ただ、窓の外で――王都の遠い空が赤く染まり始めていた。
夜半。
王は一人、玉座の間に座していた。
炎のような瞳に、疲労と焦燥が滲む。
「……ライル。貴様のいないこの国が、これほど脆いとはな」
かつての忠臣の名を口にする。
だが、その声には憎悪よりも――悔恨が混じっていた。
「私は……間違っていたのか? 忠臣を恐れ、民を疑い……
王として、誰を信じるべきだった……?」
答えはない。
ただ、玉座の間に響くのは、遠くで燃える街の爆ぜる音。
かつて繁栄を誇った王都アルヴェリアは、いまや燃え盛る炎の海に沈もうとしていた。
翌朝――。
王城の塔の上に、黒煙が立ち上った。
それは“守護者なき王国”の象徴。
老宰相グランは崩れ落ちた階段の上で呟く。
「……陛下。あの騎士を、失ってはならなかったのです……」
風が、瓦礫の間を吹き抜ける。
ライル・アーヴィングという“盾”が去った日から、
アルヴェリア王国は――音を立てて崩れ始めていた。




