第29話 ゼス&ゼイル VS ディエル
王都の下層、地の底に穿たれた巨大な回廊。
息を吸うたびに肺の内側へ“湿った石”の気配がまとわりつく。
古代王が築いた処刑と尋問の迷宮――《影ノ回廊》。
湿った空気が重く、壁の黒い石は血のような光沢を帯びている。
蝋燭の炎がゆらめくたび、石壁に映る影が、まるで意思を持ってうごめくように揺れた。
「……臭うな。罠と血の匂いだ」
ゼイルが吐き捨てた声は、いつになく低い。
冷静沈着を絵に描いたような男が、ここまで露骨に感情をにじませるのは珍しい。
かつて王国諜報局《影ノ牙》の死神と恐れられた、冷静な殺し屋だった。
背後に続くのは、黒装束の青年ゼス。
無口で鋭敏、獣のような勘で敵を嗅ぎ分ける男。
その瞳は淡い青光を宿し、わずかな風の流れすら読む。
「気配が……不自然だ。ひとつ。いや、違う……分裂してる」
「分裂?」
「三つ。どれも本物の匂いがある。だが中心に“核”が一つだ」
ゼイルの眉がぴくりと動く。
「……相変わらず動物じみた感覚だな。助かる」
「褒められた気がしねえんだが」
「褒めてない」
ゼスが舌を打とうとした、その瞬間――
――ザラ……ザ、ザザ……
闇の向こう、黒衣の影がひとつ、ふたつ、そして三つ。
影は溶け、重なり、凝集し――一体となり、姿を変える。
王国諜報局長――ディエル・フェンロット。
「ようこそ、《影ノ回廊》へ。かつての部下よ」
銀髪を slick に撫でつけ、赤黒い軍服を纏った男。
冷笑とともに、薄金の瞳が二人を見据える。
「……殺気のない声で言ってんじゃねぇよ」
ゼイルが短剣を引き抜いた。
しかしディエルは眉ひとつ動かさない。
「緊張するな。君たちが死ぬのは、これからだから」
「その余裕……昔のままだな、局長」
「懐かしい呼び方だ。だが“元部下”から呼ばれる筋合いはない」
「お前が裏切ったんだろうが」
ゼイルの声が、石壁を震わせた。
ディエルは、あろうことかその怒りを“楽しむ”ように笑う。
「裏切り? 違うさ。国家のために“最も安い犠牲”を選んだだけだ」
「その犠牲に、俺の仲間がいたんだよ!」
「ならこう言い換えよう。彼らは国家の黒字のための“支出”だった」
ゼスが一歩前へ出て噛みついた。
「てめぇ……仲間の命を、金勘定で言うのかよ」
「命は値段がつく。感情は値段がつかない。だから私は、後者を捨てた」
静かに、理路整然と。
だが“血の通わぬ声”で。
ゼイルが一歩、ディエルへ踏み出した。
「ディエル……俺はお前の判断が正しいと思っていた。
いつか救えると信じて、命令に従い、仲間を斬った夜――」
「思い上がるなよ、ゼイル。
お前は“命令されれば手を下す便利な駒”でしかなかった」
「……!」
ゼイルの拳が震える。
ゼスが横目で彼を見る。
その瞳には、一瞬だけ“幼い弟を案じる兄のような”影があった。
「情報こそが国を支える。裏切り者を、知で裁くのだ」
ゼイルは舌打ちした。
「またその台詞か。お前の情報で、仲間が死んだんだよ」
ゼイルの声が低く震える。
あの日、彼が命令一つで“仲間”を葬った夜――
「ディエル……あのとき、お前が出した報告は“虚偽”だったな」
「虚偽? いや、真実の“形”を整えただけだよ」
薄く笑いながら、ディエルは手を掲げる。
闇が蠢き、空気が凍った。
「そろそろ始めよう」
ディエルの瞳が、黒く、深淵のように染まる。
床に落ちる二人の影が、ゆっくりと形を歪め始めた。
「来る……ゼス、構えろ!」
ゼイルが叫ぶと同時、床から黒い鎖が蛇のように這い出す。
影が波紋のように広がり、足元に絡みつく。
「――黒幕連鎖」
床に落ちている二人の“影”が、歪んで形を変え、蛇のように蠢きながら鎖となって伸びた。
「ゼス、跳べ!」
「言われなくても!」
黒鎖が一気に跳ね上がり、ゼイルの足首へ――
ゼスは瞬時にワイヤーを飛ばし、方向をずらして斬り裂く。
しかしディエルは笑う。
「影に逆らうな。お前たちの影は、お前たちの情報そのものだ」
視界がぐにゃりと歪む。 蝋燭の光が千切れ、闇が膨れ上がり――
視界が一瞬、闇に塗り潰された。
「ゼイル! どこだッ!」
「ゼス、離れるな――!」
声が、歪む。
音が、遅れて届く。
影が、二人を引き裂いた。
ディエルの笑い声が、幾重にも反響する。
「お前たちの絆――それも“情報”の一部に過ぎん。さあ、己の影と戦え」
ゼスが地面に転がり、すぐ立ち上がった。
闇。
ただし、完全ではない。
遠くにひとつだけ蝋燭が灯り、炎の向こうに――誰かが立っていた。
ただ蝋燭ひとつの光が、遠くに揺れている。
――ゼイルが立っていた。
「ゼイル……?」
だが、その瞳は赤く、刃を構えていた。
「……遅かったな、ゼス」
声も、癖も、仕草も――本物だ。
だが空気が違う。
敵の匂いがする。
「黙れ。お前は――匂いが違う」
「匂い? はは、獣じみてるのは相変わらずだな
ゼス――《影断・零閃》!」
偽ゼイルが一閃。
薄闇の中で、本物と変わらぬゼイルの斬撃が走る。
ゼスは刃を交差させ、火花を散らした。
――ギィン!!
頬に浅い切り傷が走る。
(早い……! 本物の癖、踏み込み、呼吸……全部コピーしてやがる)
幻影でありながら、実体を持つ異常なコピー
敵を“本物”と錯覚させ、互いを殺し合わせる罠。
「てめぇ……ゼイルから情報を抜いたな」
「分析しただけだ。元より、ゼイルの行動は“私の資産”だったのだから」
偽ゼイルが短剣を抜く。
金属音が闇を裂く。
「ほら、お前の一番の理解者を――殺してみろ」
「……ふざけんな」
ゼスも短剣を構える。
だが指先が震えていた。
(ゼイルを斬る……そんな真似、できるわけねぇ……)
「ほら、どうした。斬れよ!」
偽ゼイルの斬撃が、雷のように迫る。
ゼスは咄嗟に受け止めたが、勢いに押されてよろめいた。
「ぐっ……!」
「反応も速さも、本物のゼイルと同じだ。倒せるか?」
「黙れ……お前はゼイルじゃねぇッ!」
だが、心が追いつかない。
(あれが幻だって、分かってても……体が……!)
その頃――
別の闇の中で、ゼイルもまた対峙していた。
目の前に立つのは、ゼスの影。
「俺を殺せるか? あの時みたいに」
「……やめろ。俺は――」
幻のゼスが笑いながら踏み込み、短刀が閃く。
「“あの夜”のこと、まだ覚えてるか?」
「……やめろ」
偽ゼスの瞳が、紅く光った。
「どうして仲間を殺したんだ」
「黙れ……」
「でも本当は、言い訳が欲しかっただけだろ?
“命令だったから仕方ない”って、そう思いたかったんだ」
ゼイルの喉がひきつる。
偽ゼスが一歩、また一歩と近づく。
「お前の正義はいつも血まみれだ。
それで、俺が黙ってついてくると思ってたのか?」
「……!」
――スッ……
呼吸も足音もない。
“殺し”だけを詰め込んだ、美しいまでの無音の踏み込み。
「《無声裂閃》!」
ゼイルは咄嗟に刃を合わせる。
金属が擦れたような“かすかな音”だけが響く。
「……くっ……!」
短剣が閃く。
頬に浅い切り傷ができる。
痛い。
幻影のくせに、痛覚が完全に再現されている。
視界の隅に、ディエルの声が滲んだ。
『裏切り者は影に飲まれる。お前たちの影は、お前たちの“真実の形”だ』
「黙ってろ、クズが……」
(ディエル……どこまで俺たちを弄ぶ気だ)
ゼスは息を荒げ、幻のゼイルと斬り結びよろけながら叫んだ。
「ゼイルを汚すな……!」
「汚してるのはお前の方だ。
“ゼイルならこうする”って、勝手に理想像を押し付けてる」
「違ぇよ……俺は……!」
偽ゼイルの刃が、喉元へ迫った。
ゼスは咄嗟に身をそらし、短剣を振るった。
反射的に。
身体が勝手に。
「――ッ!!」
偽ゼイルの肩口に、ざくりと刃が刺さった。
ゼスの瞳が見開かれる。
「お、お前……俺が……」
「……やっと“本音”が出たな。
お前はゼイルを斬れるんだよ。
自分を守るためならな」
「黙れぇッ!!」
ゼスが叫び、偽ゼイルに斬りかかった。
闇が震え、空気が裂ける。
「どうした? 俺を殺すのが怖いのか?」
偽ゼイルが笑いながら短剣を振る。
ゼスは防御を崩され、膝をつく。
「……だったら、斬られろ!俺は、お前の信頼を試す影だ」
その言葉で、ゼスの目に光が戻る。
「試すだと?」
ゼスは深く息を吸う。
すると空気が震え、影が波紋のように膨らんだ。
「……《影潜歩》」
音もなく消え――背後に現れる。
「ッ……ゼス!」
偽ゼイルが即座に反応し、短剣を振り上げる。
ゼスは腕を滑らせ、喉元へ斬り込む。
だが――
「《反影返し(リバース・エコー)》」
偽ゼイルの影がゼスの動きを“模倣”し、逆に喉元へ刃を突き立ててきた。
(影が……俺の動きをコピー……!?)
「ゼス、どうした? “仲間”の俺も斬れないのか?」
その声がゼスの胸をわずかに揺らす。
その一瞬――刃が肩を裂いた。
血が滴り落ちる。
(……違う。これはゼイルじゃない。匂いも、呼吸の癖も……)
「…………斬る」
ゼスが呟くと同時。
足元でカチリと音がした。
影が開き、ゼスの姿が“沈む”。
「《影潜・深層》」
完全消失。
偽ゼイルの瞳が揺れる。
「……どこだ……?」
返答はない。
次の瞬間。
「――《黙刀・首狩》」
背後から無音の刃が襲い――
偽ゼイルの首筋を切り裂き、ゼスは腰の符を引き抜き、指で火花を走らせた。
「《閃光符・焔閃》――“信頼”で視を裂く!」
バシュッ――ッ!
眩い閃光が闇を切り裂く。
偽ゼイルの影が弾け、空間にヒビが入る。
同時に、別の闇でゼイルもその光を感じ取った。
彼はすぐさま構文を組み替え、幻術の構造を解析する。
ゼイルが指を弾いた。
掌に浮かぶ小さな魔導式が、白光を帯びて爆ぜる。
「《情報干渉解除式・零点閃》!」
闇が砕け、音も光も戻ってくる。
視界が再び開けた時、ゼスとゼイルは背中合わせに立っていた。
崩れた影の残骸が煙のように漂っている。
「……無事か」
「まあな。あの幻術、あんたの口癖まで再現してやがった」
「“雑だ”ってやつか?」
「うるせぇよ、師匠」
短い会話のあと、二人は同時に前を向く。
回廊の奥、ディエルが立っていた。
両手を広げ、影を操る魔力を再構築している。
「ほう……《黒幕連鎖》を破るとは。やはり、君たちは優秀だ」
「優秀、ねぇ。俺たちは、仲間の仇を取りに来ただけだ」
ゼスが短刀を構え、ゼイルが一歩前に出る。
「知を持たぬ者に、勝利はない」
「知だけで動く者には、“心”がない」
二人の声が重なる。
ゼスが疾風のように突っ込み、ゼイルが後方から影を制御。
刃と刃が交錯し、空気が爆ぜる。
ディエルは影分身を三体生み出し、幻像を重ねて攻撃を錯乱させる。
「情報は多いほど、真実が見えなくなる――!」
だが、ゼイルの目は動きを完全に読んでいた。
「三体目、右後方にズレ。影の位相が一拍遅れている」
「了解ッ!」
ゼスが体を回転させ、逆手の短刀を投げ放つ。
シュンッ――ッ!
影の分身が霧散し、ディエルの肩に刃が突き立つ。
「ぐッ……!」
ディエルがよろめいた瞬間、ゼイルが背後に回る。
ゼイルとゼス交差する二刀
――《双影葬刃》
黒い血飛沫。
「終わりだ、ディエル」
「……終わり? “情報”に終わりなどないさ」
血を流しながら、ディエルは笑った。
「影を裂いたか……だが、影は常に光の傍にある」
天井が軋み、崩落が始まる。
「くそ、逃げる気か!」
ゼイルがゼスの腕を掴み、跳躍。
崩れ落ちる石壁の間をすり抜け、回廊の奥へ走る。
背後、ディエルの影が煙のように消えていった。
崩壊した通路の先で、二人は肩で息をしていた。
血と汗、そして焦げた匂いが漂う。
ゼスが苦笑する。
「なぁ……俺、やっぱあんたには敵わねぇな」
「まだだ。あいつは生きている。影を完全に断ち切らなければ意味がない」
「ったく、あんたって奴は……真面目すぎるんだよ」
ゼイルがわずかに笑った。
珍しい笑みだった。
それだけで、ゼスは少し安心した。
「ゼス。さっきの“師匠”発言――忘れろ」
「無理だな。あんたが、俺に生き残る術を教えた。
俺にとっては、それで十分だよ、師匠」
「……勝手に呼べ。だが、死ぬな」
「お前もな」
二人は再び歩き出す。
影が、ゆっくりと闇に溶けていった。




