第27話 原罪の研究 ― 炎の理
夜の帳が落ちた王都の片隅。
湿った石畳の上に、ひとりの少年が膝を抱えていた。
バレスタ・クローン。
まだ十歳にも満たないその瞳は、貧民街の闇を映す黒曜石のように冷たかった。
――理不尽。
母を病で失い、父は「無能者」として処刑された。正義を謳った貴族たちは誰も助けなかった。
少年の胸に残ったのは、正義への絶望だけだった。
「……倫理も正義も、無力だ」
呟きは、夜風に溶ける。
そんな少年の手には、ひとつの古びた魔導書が握られていた。
母の遺品でも、父の形見でもない。
たまたま拾った、表紙だけやたらと禍々しい書物。
ページには不気味な黒紋が走り、触れるだけで熱を帯びるような錯覚がある。
書物を開いた瞬間、少年の脳に文字が滲み込んだ。
人の魂と魔力を換算した等価式、魔力循環の効率化、禁術。
読むほどに、世界の裏側が見えた気がした。
「真に支配するのは、“力の価値”だ。
――代償を払った者だけが、真理に触れられる」
彼の背後で、灯火が小さく揺れた。
それは、のちに王国を焼く“黒炎”の原点となる一筋の光だった。
――バレスタ・クローンは誓った。
世界を“価格”で支配する魔法を創ると。
十五年後。
王都の中心にそびえる巨大な白壁は、夜でも淡く光を放っていた。
王立魔導学院――この国で最も魔術的価値の高い施設。
その中でも“第七研究棟”は、天才と狂気が同居する場所として噂されている。
大理石の床に刻まれた魔力線が脈動し、壁には数百枚の術式が貼られていた。
誰が見ても異様な光景だが、ここでは日常だ。
研究室の中央で、紅い光がふわりと浮かび上がる。
「……なるほど、君の理論か」
バレスタは机の上に広げられた術式図を見つめ、指先で空気を弾いた。
炎の粒子が弧を描き、魔法陣の中心へと吸い込まれていく。
「反応速度は以前より三割向上。制御式のロスもほぼゼロ……ふむ、十分だ。
さすがだ、セリア」
「褒めても何も出ないわよ、師匠」
軽やかな声が返る。
白衣の女性――セリア・ヴェルディア。
白銀の髪が肩で揺れ、紅い瞳が彼を真っ直ぐに見つめるその姿には、凛とした気品がある。
「でも……師匠、これまた厄介な術式を紛れ込ませてるわね?」
「ほぅ、気づいたか」
バレスタは僅かに目を細めた。
セリアは術式図を指差す。
「ここの補助魔方陣、“生命リンク式”よね?
魔力と生命エネルギーを直結させる……」
「その通り」
「危険すぎるわ!
生命を燃料にしたら、使い手の身体が持たなくなる!」
「危険?」
バレスタは肩をすくめた。
「恐怖は進化の敵だ。
“危険”という言葉を口にする時点で、君は限界を決めている」
「……あなた、本当に変わらないのね」
セリアはため息をつく。
だがその表情には、どこか誇りのようなものもあった。
彼女もまた、天才だった。
そしてバレスタを、かつては“尊敬していた”。
「私はね、バレスタ」
セリアは机に手を置き、彼の瞳を見据える。
「魔力と生命エネルギーを分離して、人を傷つけずに炎を操る術式を作りたいの。
それが、魔導の未来につながると思うの」
バレスタが顎に手を添える。
「ふむ……人を傷つけずに?」
「そうよ。
誰かの犠牲を前提にした魔法なんて、間違ってる」
「間違い、か」
バレスタは空気を掴むように手を動かすと、黒炎がその指先に灯った。
赤黒い光が、生きているかのように揺れる。
「君は甘い。理想主義者だ」
「理想を笑わないで」
「笑っていない。現実を語っているだけだ」
バレスタは杖を掲げた。紅い光が空中に魔法陣を描く。
「私の研究は、“生命”そのものを燃料とする。
魔法効率は通常の3倍――この世のどんな術式よりも高い」
「3倍……? そんなの、禁呪に近いわ!」
「近いどころか、禁呪そのものだ」
バレスタは静かに笑った。
セリアの肩が震えた。
「あなた……そんな研究を続けて、どこに向かうつもりなの……?」
「真理の最奥だ。
禁忌こそ真理への扉だろう?」
セリアの拳が震える。
「人命は、魔法の道具じゃない!」
「道具ではない、“触媒”だ。犠牲なくして進化はない」
炎がバレスタの周囲に浮かび上がる。
まるで思考の熱が形を取ったかのように、赤黒い光が揺らめいた。
「あなたは……魔法を“力”としてしか見ていないの?」
「違う」
その声は、凍てつくように冷たかった。
「力は真理だ。
価値は代償で決まる。
人も魔力も世界も、等価式によって支配されている。 私はその式を完全に解き明かすだけだ」
「……っ」
怒り、悲しみ、失望。
セリアの胸に渦巻く感情が、そのまま声に滲む。
「私は、人を守るために魔法を学んだの。
あなたに憧れたのも……
――人を救おうとしていた姿が、あったからよ」
バレスタの指が止まる。
「……救う?」
その声には、微かに、ほんの微かにだけ、過去の影があった。
セリアは必死に言葉を紡ぐ。
「私はあなたに教わったの。
“魔法は世界を見るための目だ”って。
――力じゃない。可能性だって」
「……ああ、そう言ったかもしれない」
バレスタの表情が僅かに曇る。
「だが私は気づいた。
可能性を現実にするのは――いつだって“力”だ」
次の瞬間、黒炎が彼の背後で燃え上がった。
「犠牲なくして進化はない。
世界は“価格”で動く。
人の命も、その一部でしかない」
「それ以上言わないで!」
セリアは杖を構え、紅蓮の炎が巻き起こる。
その熱は、研究室の空気を震わせるほど強い。
セリアの瞳に、怒りと涙が同時に宿る。
「私は……あなたを止める。
あなたがどれほど強くても、どれだけ先を見ていても。
――この道だけは、絶対に間違っている!」
その言葉に、バレスタは口角をゆるめた。
まるで、彼女の決意すらも“実験の一部”だと見透かしているかのように。
「止められるなら止めてみろ、セリア。
君が私の“完成”を壊せるというのならな」
瞬間、二人の魔力が交差する。
紅蓮と黒炎がぶつかり、研究室の壁が爆ぜた。
空間が歪み、熱風が二人を包む。
だが、その中心で――二人の視線は、逸れなかった。
深夜、学院は静まり返っていた。
研究棟の灯がすべて落ち、バレスタだけがその中にいた。
机の上には、セリアの杖と魔導具。
彼の指が、それを優しく撫でる。
「君は正しい。だが、それでは届かない」
バレスタは微笑み、杖に手をかざした。
紅い紋章が刻まれ、淡い光が走る。
「いつか君が私に刃を向けたとき――
その炎で、自分自身を焼くように」
炎の中、彼の影は長く伸びた。
それは愛でも憎しみでもない。
“試練”としての呪い。
――狂気と信仰の狭間で、バレスタはただ一人、神に届こうとしていた。
翌朝。
セリアは実験室に入るなり、異変に気づいた。
「……この反応……まさか」
杖の内部。封印された禁呪の魔法陣が、微かに光を放っている。
「バレスタ!」
彼女の声が研究室に響いた。
扉が開くと、そこに彼はいた。まるで予期していたように。
「これ……あなたがやったのね!?」
「そうだ」
バレスタは淡々と答える。
「君の炎に、“覚悟”を刻んだだけだ」
「覚悟? こんなもの、呪いじゃない!」
セリアの頬を涙が伝う。
「呪いではない。証明だ。
君の炎が真理に届くかどうか――私が試す」
「師匠……あなたは、本当に、戻れないところまで行ってしまったのね」
バレスタは微笑んだ。
「進化とは、戻れぬことだ。セリア」
彼の背中から立ち上る黒炎が、ゆっくりと彼を包む。
セリアは杖を握りしめ、彼の名を呼ぼうとしたが――声にならなかった。
紅と黒の光が、研究室を二分する。
それが、師弟の終焉の瞬間だった。
瓦礫と焦げた床の中で、セリアは独り立ち尽くしていた。
彼の姿はもうどこにもない。
だが、空気の奥底に、彼の声がまだ残っている気がした。
『力とは、真理だ。犠牲なくして、何も生まれぬ』
「……あの人の炎を、いつか止めてみせる」
セリアは杖を握りしめた。
「たとえ、その炎が私の心を焼いても」
塔の窓から見える空。
紅と黒の煙が混じり合い、まるで二つの魂が交錯するかのように昇っていく。




