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余、神を知れど〜徳川家康と幻の和訳聖書〜

作者: ウツワ玉子

現在連載中の小説の戦闘シーンに煮詰まり、逃げるように短編を書きました。

簡単に書くつもりが、文字数にして16000文字という、『小説家になろう』の短編とはいえない長さとなってしまいました。

長文駄文で申し訳ないのですが、暇つぶしにも読んでいただけたら幸いです。

追記:投稿してからも加筆修正があります。予めご了承下さい。

 元和二年(1616年)三月。駿府の国の山々に山桜が満開に咲いた頃、征夷大将軍徳川秀忠は駿府城の本丸御殿の中奥へと向かっていた。

 自分の父で大御所でもある徳川家康が、一月の鷹狩の最中に倒れた、という報告が入ったのが二月の初頭。しかし、天下の政務を司る征夷大将軍が江戸城からそう簡単に離れることができず、父の見舞いは三月となってしまっていた。


 速歩きで中奥の廊下を歩き、父のいる部屋へと向かう秀忠。そして父がいる、と聞かされた書院の障子の前に着くと、一旦片膝をついて跪き、障子の向こうへ直接声を掛ける。


「父上。秀忠にございます」


 本来、来客を告げるのは家康付きの小姓である。実際、秀忠の傍には取次役である家康付きの小姓が控えていたのだが、将軍の予想外の行動に青ざめていた。

 秀忠と一緒に江戸からやってきた土井利勝がその小姓をフォローしている間、秀忠は跪きながら待っていた。しかし、障子の向こうからは何の返事もなかった。秀忠が苛立ち、思わず障子を引き開ける。


「父上!お身体の・・・お加減は・・・」


 最初は大きな声であった秀忠の声は、段々と小さくなっていた。いや、小さくさせられた、というべきであろう。それほど、書院の中の空気は張り詰めていた。

 書院の中では、上座に家康が脇息に腕を乗せながら座り、何やら紙を見つめていた。その紙には、墨で何かが書かれており、家康はそれを真剣な表情で見つめていた。

 そして、家康の前には、折敷おしき(お盆のようなもの。お盆は運ぶためにあるが、折敷は敷くためにある)の上に多くの紙が重ねて置かれていた。紙には墨で何かが書かれており、何かの書類のようなものであった。ただ、その量はとても多かった。

 下座では左右に分かれて側近達が座っていた。皆、秀忠がよく知る者達であった。本多正純は若きエリート官僚であり、家康の側近中の側近であった。対面に座る南光坊天海は家康が江戸に移った直後から付き従う僧侶で、その隣に座っている金地院崇伝は、家康が大御所になって駿府に移ってから使えた僧侶であった。崇伝の前には文机が置かれており、そこには一枚の紙と硯と筆が置かれていた。

 本多正純のすぐ隣に座っているのは三浦按針。日本風の名前であるが、彼はイギリス人である。元々の名はウイリアム・アダムスといって、慶長五年(1600年)四月にリーフデ号に乗って日本に漂着。なんやかんやあって、今では家康の家臣として日本に住んでいた。

 そして、按針の隣には、同じくリーフデ号で日本に漂着してきたオランダ人のヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステインが座っていた。長年日本に滞在していたせいか、二人の肩衣袴姿は慣れたものであった。


 それは、秀忠が過去に見てきた光景であった。最近日本にやってきたイギリス・オランダなる国との交渉については、いつもこの面々で談合が行われており、秀忠も参加したことがよくあったからだ。


 ―――何か、異国との交渉事でもしているのか?父上が病に倒れられたというのに―――


 そう思いながらも、秀忠は家康と対面になるように下座に座った。その後ろには、土井利勝も座った。そして二人は揃って平伏する。


「父上、ご機嫌麗しく。病に倒れられたと聞きましたが、ご回復のこと、この秀忠お慶び申し上げ奉りまする」


 秀忠が平伏しながらそう言った。しかし、家康は「ああ」と生返事で答えた後、そのまま黙って書を読み続けた。

 顔を上げた秀忠が天海に尋ねる。


「南光坊(天海のこと)、父上は何を読んでおられるのか?」


 小声でそう尋ねると、天海も小声で答える。


「大御所様は読書をしておいででございまする」


「読書・・・?ああ、そういうことか」


 秀忠はそう言うと納得した。


 家康は元々読書好きである。今川義元の人質として駿府にいた時分に、太原崇孚(太原雪斎のこと)の寺で学んだ家康は、寺の書庫で貪るように本を読んだ。その後は色々、というには濃すぎるのだが、とにかく忙しかった時間の隙間を見つけては読書に勤しんでいた。

 大御所となり、駿府城に移って以降は、朝鮮から伝わった活版印刷の技術を使って、本を印刷して家臣に配ったりもするほどであった。

 天海は読書と言っていたが、家康は本ではなく製本前の紙を読んでいた。恐らく自ら誤字脱字を探しているのだろう、と秀忠は推測した。


「それで?今回は何を読んでいるのだ?」


 何気なく聞いた秀忠に、天海は何でもないかのような口調で答える。


「伴天連の経典。耶蘇(イエス・キリストのこと)が説きし教えでございまする」


「伴天連の経典・・・?耶蘇の・・・教え?」


 そう呟いた秀忠は、自分が呟いた言葉の意味を理解するのに時間がかかった。そして、その言葉の意味を理解した時、彼は大声を上げる。


「・・・って!それは耶蘇宗門(キリスト教のこと)の経典、ということではありませぬか!父上っ!何を考えられておられるのかっ!それは禁止された教えで・・・」


 そう声を上げる秀忠に、上座からまるで雷鳴が轟くような大声が浴びせられる。


「うるせぇ!儂がまだ読んでる途中でしょうが!」


 日本ひのもとで誰もが頭を垂れるほどの男の怒声に、将軍の秀忠は「申し訳ございません!」と言ってすぐに平伏した。

 そして、恐る恐る顔を上げると、家康を見た。そこには、「ふむふむ」と言いながら紙を読む家康の姿があった。まるで、怒鳴ったことが嘘のような姿であった。

 秀忠は更に身を起こすと、後ろに座っている土井利勝に顔を向けた。しかし、彼はもはや思考停止したような顔をして空虚を見つめていたのだった。





 それから一刻(約2時間)ほど経った。家康が最後の紙を読み終えると、大きく溜息をついた。そして、南蛮渡来の眼鏡を外して指で軽く両目を押さえた。


「・・・読み終えたぞ」


「骨折りでございました」


 天海の言葉で、皆が一斉に平伏した。つられて秀忠と利勝も平伏した。


「大御所様。此度の感想を・・・」


 いつの間にか筆を持ち、いつでも紙に記することができる状態で崇伝がそう尋ねると、家康はゆっくりと首を横に振る。


「・・・いや、これを一言で述べるのは無理よ。第一、その様な気力がない」


「確かに。大御所様がお読みになられたものは例えが難解にて。我等も大和言葉に直すのに骨を折りました」


 天海が苦笑しながらそう言うと、家康も苦笑しながら「知っておるよ」を応えた。


(うぬ)等がコレを大和言葉に直していくのを見ておったからのう」


 家康がそう言うと、按針が恐る恐る口を開く。


「大御所様、その巻は我等のような者でも難しく感じマス。よほど敬虔な者でなければ、理解は難しい、思いマス」


 按針がそう言うと、隣にいたヤン・ヨーステンも頷いた。


「そうか。汝等のようなコレに慣れ親しんだ者でも難しいのか。なるほど」


 そう言って顎髭を撫でる家康。そんな家康に、秀忠が尋ねる。


「・・・父上。父上が読んだそれには、一体何が書いておられるのでございますか?」


「世の終わり」


 家康の簡潔な即答に、秀忠は思わず「はい?」と聞いてしまった。そんな秀忠に、按針が話しかける」


「上様。大御所様が今読まれたものは、『ジョン(ヨハネの英語読み)の黙示』と呼ばれるものでゴゼマス」


 そう言うと按針は、いわゆる『ヨハネの黙示録』について話した。しかし、秀忠にはちんぷんかんぷんであった。


「・・・何を言っているのかよく分からぬのだが・・・」


 混乱する秀忠に、天海が話しかける。


「要するに、今世は末法の世となり、しかして極楽浄土が現れる、と言いたいのでございます」


 天海の簡潔で無理矢理な説明に、秀忠は「なるほど」と言って頷いた。そんな秀忠の様子を見ていた家康が苦笑する。


「将軍(秀忠のこと)、そんな言葉で納得するな。この終末はもっと重きものぞ。・・・とはいえ、天海の申したことが全くの嘘ではないことも確かじゃ。

 ・・・いづれ今の世が終わり、より良き世に向かう、と考えるのは人として東西変わらぬのかもしれないな・・・」


 そう言った家康は軽く咳き込んだ。この頃の家康は七十五歳という当時としては高齢も高齢な老人であり、また、病に倒れて以降、体力の消耗が激しく生活するにも支障をきたす程になっていた。

 そんな家康が、抽象的で幻想的な上、『七人の四天王が法螺貝を吹く』『おほきなる濁世の女』といった独特な言葉が出てくる『ヨハネの黙示録』を読むことは、いくら読書好きで知識がある家康ですら読むのには苦労し、体力を消耗させたのであった。


「父上。どうかお身体を労って下さい。というか、その様な邪教の書を読むからそうなったのではございませぬか?」


 秀忠が批難するような口調でそう言うと、後ろから利勝が「上様」と言って窘めた。しかし、それでも秀忠は言葉を止めなかった。


「公儀では伴天連の教えは禁止され、キリシタンには棄教を迫り、拒めばこれを処罰しておるところ。その様なときに、大御所たる父上がキリシタンになった、となれば天下の政道が成り立ちませぬ!そうなれば、徳川の面目が立ちませぬぞ!」


「別に儂はキリシタンになっておらぬ。洗礼とやらを受けておらぬし、日本の神仏は今でも崇め奉っておる」


 家康がそう言うと、秀忠が身を乗り出すようにして家康に問う。


「ならば何故!」


「読みたかったんじゃ」


 家康の回答に、秀忠が「は?」と思わず口に出した。家康が続けて答える。


「儂はただ、読みたかったんじゃ。『王から乞食まで誰もが知っている本』とやらをな。言うなれば、これは儂のわがままよ」


 そう言うと、家康は秀忠にあの日の事を思い出しつつ、事の顛末を話し始めるのであった。





 あの日とは、家康が将軍職を譲り、大御所として駿府城に移った慶長十二年(1607年)の秋のある日のことであった。

 その日、家康は正純と天海、そして按針が控える中、書院にて読書をしていた。そして、読み終えるとその本を目の前にあった折敷にそっと置いた。


「うむ。なかなか面白かったぞ、この『西遊記』は。天海、よくぞ勧めてくれた。礼を言うぞ」


「もったいなき御言葉」


 家康の言葉に、天海がそう言って平伏した。家康が更に言う。


「孫悟空は傍若無人の無法者であったが、三蔵法師と出会い、その教えに従い共に旅をすることで仏道を得る。まさに今世になくてはならぬ本よ。・・・上野介(本多正純のこと)よ。これを大和言葉に直し、印刷して世に出すようにせよ」


 家康の言葉に、正純は「はっ!」と短く応えた。家康が言葉を続ける。


「しかし、これにて天海が勧めてくれた本をすべて読み終えてしもうた。また新たに本を探さなければならぬのう・・・」


 そう言うと家康は溜息をついた。そんな家康に按針が声を掛ける。


「上様は、誠に本がお好きでゴゼマス。ここまで本を読む王、聞いたことがないでゴゼマス」


「上様ではなくて大御所様、な。まあ、本の中身は儂にとっての血肉じゃからのう。本を読んだからこそ、儂は幾多の困難を乗り越えることができたのじゃ」


「誠に、素晴らしきことでゴゼマス」


「とはいえ、そろそろ変わったものが読みとうなった。何かないものかのう」


「変わったもの、でございまするか?」


 天海がそう尋ねると、家康は頷く。


「うむ。例えば・・・、紫式部が訳した『三国志』とか」


「・・・それは拙僧も読みとうございますが、そのようなものは見つからないと存じます」


 なにそれ面白そう、と思いながら天海がそう答えると、家康は「で、あるな」と呟いた。そして溜息をつくと、家康は按針に顔を向ける。


「・・・按針、そなたは何か知らぬか?南蛮紅毛でよく読まれている本はないか?」


 そう尋ねられた按針は、首を傾げながら考えた。そして脳からひねり出した本の名前を言う。


「恐れながら。イソップズ・フェイブルズなる本がゴゼマス。イソップなる者が話した、短い教訓の話を集めた本にゴゼマス」


 按針の話を聞いた家康が、興味津々の様子で尋ねる。


「ほう・・・。面白そうじゃ。どの様な話がある?」


「最も知られているのは『兎と亀』にゴゼマス。昔々・・・」


 按針がそう言おうとしたときだった。家康が右手を上げて言う。


「按針。その話は知っておる。昔、豊太閤(豊臣秀吉のこと)が唐入り(朝鮮出兵のこと)を行った際、儂は名護屋城におった。その時に長崎の商人から手に入れた本の中にあった。確か・・・、『伊曽保物語』だったかな?その中にあった」


 カトリックの宣教師によって持ち込まれたイソップ物語は、同時期に日本に持ち込まれた活版印刷で量産されていた。しかし、これはあくまで宣教のためのものであり、一般人が読めるようなものではなかった。

 しかし、豊臣秀吉の大陸進出と同時期、中国への布教を目論む宣教師達が漢文に訳した物が作成され、これらが日本でも出回るようになると、漢籍に詳しい者達が読む様になった。

 そして、漢籍を当然読める家康は、肥前名護屋城にて暇つぶしのために読んでいたのであった。


「あれは面白いし、ためになることばかり書いておった。儂はあれを大和言葉に直し、日本に広めようと思っておる」


 家康がそう言うと、按針は唖然としながらも応える。


「・・・上様、じゃなくて大御所様の行い。驚くことばかり、でゴゼマス」


 そう言った按針は、再び考え込んだ。そして、おずおずと家康に言う。


「・・・実は、『王から乞食まで誰もが知っている本』と呼ばれる本がゴゼマスが・・・」


 按針がそう言うと、家康が「なんと!真か!?」と驚きの声を上げた。


「誰彼もが知っている本とな!?それは是非読んでみたいぞ!何という本じゃ!?」


「ハ、ハイ。私共はバイブル、と呼んでいるでゴゼマス」


「バイブル・・・?それは如何なる本ぞ?」


 歓喜の笑みを浮かべながら、興味津々な口調で話しかける家康。そんなハイテンションな家康に引きながら、按針は応える。


「い、いわゆるキリシタンの経典でゴゼマス。ナザレ人イエスが説いた神の言葉をまとめし本でゴゼマス」


「ほう・・・。キリシタンの経典か。南蛮人や紅毛人にとっての仏典であるな」


 好奇心で目を輝かせながら家康がそう呟いた。その様子を見ていた天海が口を開く。


「恐れながら・・・。大御所様は神仏に帰依されているお方。異国の神の教えを読むのは如何なものかと・・・」


「しかしな、天海よ。南蛮人や紅毛人がこうも日本にやってくるとなれば、彼の者達がどの様な考えを持っておるか、彼の者達の道義や人倫はどのようなものか、を知ることは肝要だと思うのだがのう」


 家康がそう言うと、天海は「はあ・・・」と言って納得したのかしてないのか分からないような表情をした。その横から正純が口を挟む。


「しかし、大御所様がそのようなものを読まれることを世間に知られては、寺院は反発し、朝廷や諸大名がどの様な動きをするか読めませぬ。未だ大坂には豊臣が居座っている今、そのような物を読んではなりませぬ」


「そんなものは表に出さなければよかろう。むしろ、豊臣や諸大名でそのようなことに口を挟むのであればもっけの幸い。徳川に差し出口を挟むとは何事か、ということで知行を減らしてくれるわ」


 家康の無茶苦茶な言い分に、正純は普段見せることのない呆れた表情を思わず顔に出した。

 そんな二人の様子を見た家康は、歳に似合わぬ言葉を発する。


「嫌じゃ嫌じゃ!王から乞食までに知られている本が、何故天下人たる儂に読まれぬのじゃ!そんな不条理がこの日本でまかり通って良いはずがない!儂が読めぬ本があるというのは嫌じゃ!」


 子供が駄々をこねるような口調でそう言った家康を、正純と天海が呆れるように見つめた。そんな中、按針が口を開く。


「恐れながら・・・。バイブルはラテン語で書かれてゴゼマス。この国の言葉で書かれてはいないでゴゼマス」


 按針の言う通り、当時の聖書はラテン語で書かれていた。一応、イエズス会では聖書の注釈としてポルトガル語に翻訳した部分もあったが、聖書全体をポルトガル語にしたものはなかった、と言われている。

 また、一応日本語に訳したものもないわけではないが、これもまた注釈的なものであった。

 ちなみに、三浦按針ことウイリアム・アダムスの母国であるイギリスで、英語訳された聖書(いわゆる欽定訳聖書)は1611年刊行であるため、アダムスが日本に持ち込むことはできない。


「ならば大和言葉に直せばよいであろうが。伴天連にも大和言葉をやたら上手く話す者もおるし、ラテン語?で書かれたバイブルを読める日本人ひのもとのひともおるじゃろう。その者達に命じれば良い」


 家康がそう言うと、按針は黙って頭を下げた。天海も正純も頭を下げて顔を伏せたが、それは自分達の嫌そうな表情を家康に見せないようにするためであった。


 ―――どうか、大御所様が変な事を言いませんように―――


 天海と正純はそう仏に願った。だが、仏はその願いを聞き入れなかった。


「天海に命じる。バイブルなるキリシタン共の経典を大和言葉に直し、余に読ませよ。上総介は天海を助けよ。と同時に、この事を記せ。按針も天海を助けるように。良いな」


 家康の命令に、天海と正純と按針は平伏するしかなかった。そんな三人に、更に家康の命が下る。


「ああ、そうそう。駿府に招いた崇伝にも手伝わせよ。天海と共に仏門の教えと比較させよう。そちらの方が面白い。それと、もうすぐ京より林羅山なる儒者がやってくるな。よし、そいつにもやらせよう。儒学と比較させるのだ」





 こうして始まった家康のシークレット・ミッション、聖書翻訳は天海をリーダー、本多正純を書記兼事務として役目を担うことになった。ここに、三浦按針とヤン・ヨーステンが加わり、聖書翻訳事業が開始される・・・ということにはならなかった。何故ならば、慶長十二年(1607年)十二月に駿府城が火事で焼失したからであった。


「これは・・・仏罰では?」


 天海がそう言うと、家康は笑いながら言う。


「まだバイブルとやらを読んでもいないのにか?罪を犯していないのに罰を与えるなど、およそ仏のなさることではないわ。大方、失火であろう。

 ・・・だが、もしこれが仏罰と言うのであれば、それは昔、三河で起きた一向宗門徒の一揆の際、寺を元の原っぱに戻してやったことに対する仏罰であろう。儂への仏罰であって、お主への仏罰ではない」


 この言葉に、天海はただ唖然とするしかなかった。


 なにはともあれ、翌年の慶長十三年一月から聖書翻訳、というミッションが開始された。といっても、天海も正純も按針もヤン・ヨーステンもラテン語を読めるわけではなかった。

 そこで正純はラテン語を読めそうな者を探した。最初は日本に来ている外国人伴天連を召喚しようとしたが、彼等は断固拒否の姿勢であった。


「神の言葉を日本の言葉にできませぬ。何故ならば、異端が生まれるからです」


 当時のローマ・カトリックはラテン語以外の聖書を認めていなかった。これは、翻訳することで言葉の意味が変わり、ローマ・カトリックの考えと別の考えが生まれることを阻止するためであった。


 正純がこの事を家康に伝えると、家康は鼻で笑う。


「ふん、そのようなことを言って、真は伴天連共が教えを取捨選択し、己の意のままにせんとする者共を増やそうとしているのではないか?」


 家康の言っていることは正しく、実際、ローマ・カトリックは聖書を自分達に都合よく解釈し、それを宣教師を使って民衆に伝えていた。

 これに反発したのがマルティン・ルターを始めとする、反ローマ教皇派の宗教学者達であった。彼等はローマ教皇に反発し、自国民に分かるように聖書を翻訳し始めた。これが後に宗教改革と呼ばれ、プロテスタントが生まれることになるが、それは別の話である。





 それはともかく、伴天連達に翻訳を断られた正純は、次に日本人キリシタン達に協力を求めた。最初のターゲットは日本人キリシタン達に絶大なる支持を受けていた高山ジュストこと高山右近であった。彼は豊臣秀吉のバテレン追放令によって大名の地位を失い、今は加賀前田家の客将となっていた。

 正純はある時は駿府に呼び出し、またある時は自ら加賀金沢まで出向いて右近を説得した。しかし、この説得は失敗する。

 何故失敗したのかは不明であるが、イエズス会が圧力をかけた、というのが有力な説である。実際、家康の聖書翻訳は遠くローマにまで報告されており、ローマ教皇の周辺では危機感をもっていた、という史料がバチカンに残っている。

 もっとも、当時の通信速度を鑑みれば、ローマがすぐに高山右近に手を回すとは考えづらい。恐らく、イエズス会がローマへ報告しつつ独断で圧力をかけたものと思われる。


 そんな困難な状況でも、正純は父親で徳川幕府の宿老である本多正信の伝手をフルに活用し、何とか二人の日本人キリシタンを確保することができた。

 この二人の名は史料に残っていないものの、一人は『羅馬(ローマ)にて伴天連の言葉を学びし者』と史料に残されていることから、恐らく天正遣欧使節団の一人で、帰国後にキリスト教から離れた千々石ミゲルではないか、というのが後世の通説となっている。

 もう一人に関しては、全くの手がかりが書いていないため、諸説分かれている。一説には岡本大八、もしくはジュリアおたあではないか、と言われているが、二人は後に起きる事件とそれに伴う幕府による禁教令によって処分されている。その一方で、もう一人の日本人キリシタンはその後も家康翻訳事業に参加している痕跡があるため、無名のキリシタンの幕臣が加わっていた、とするのが通説となっている。





 とりあえずラテン語に詳しい者を迎え入れ、更に以心崇伝と林羅山を迎えた翻訳チームは、当時考えられる最高の知識人が集まったチームであった。

 慶長十三年(1608年)五月。やっと始まった翻訳作業は、当然スムーズには行かなかった。まずラテン語を日本語に直すところでつまづいた。三浦按針やヤン・ヨーステンがかろうじて知っているラテン語を英語やオランダ語に直し、それを日本語にもっとも近いニュアンスに近づける、ということもなされたため、何とか日本語への直訳はできた。ただ、問題はその先である。


「agapeを”仁”と訳すのはどう考えてもおかしい」


「かといって”愛”も違うと思いますが」


「この解釈、我が国とは違うゴゼマス」


「しかし私は羅馬でそう解釈しろと習ったんだが」


「この文言、儒教の教えではいささか違和感がございます。もっと変えるべきでは?」


「いや、仏法に合わせてこの様な文言にするべきです」


 キリスト教の考えを仏教や儒教、神道や日本の故事、果ては中国や朝鮮、天竺の故事に当てはめようとするため、その度にチーム内で衝突が起こった。

 しかも、彼等は本来の仕事があったため、翻訳作業に参加できない時もあり、その時は他のメンバーが翻訳したことを、後日書き直しては喧嘩する、ということも起きた。

 本多正純はそんな事が起きる度に、胃を痛めながら調整して回った。彼自身も家康の秘書としての仕事を抱えているため、もはや過労とストレスで倒れそうになったことがあった。

 しかも厄介なことに、この翻訳作業を見学しに、家康がちょくちょく訪れてきていたのである。


 ―――大御所様の前で口論されては、大御所様の機嫌を損なうことにならないか?―――


 そんな心配を他所に、家康は翻訳チームの口論を楽しそうに聞いていた。


「儂が岡崎城や浜松城にいた頃、儂は家臣共と口から泡を飛ばして徳川のこれからについて話し合った。ときには取っ組み合いにもなった。それに比べたら、この程度の口論は座興にすらならぬよ」


 後で謝りに来た正純にそう言った家康は、「お主も身体を労れよ」と言って正純にお手製の胃薬を渡すのであった。





 翻訳チームによって翻訳された聖書は、当時の(そして現代の)聖書の読み方と同じ順番で翻訳されていった。すなわち、新約聖書の冒頭から翻訳されていった。

 そして慶長十三年(1608年)の年末に『マタイによる福音書』が翻訳され、徳川家康に献上された。

 家康は製本される前の状態、すなわち紙の状態で『マタイによる福音書』を読んだ。


「『驕らず、足るを知る者を、天の理は迎え入れる』・・・。ほう、耶蘇という者、なかなか良いことを申すではないか。これは質素倹約を重んじる儂の考えと同じだ」


 いわゆる『山上の垂訓』の一節である『心の貧しい者は幸いである。天の国はその人たちのものである』を大和言葉に直した文を読んだ家康は、そう言って感心した。本来の意味とは違う訳になっているが、やはり仏教や儒教というフィルターが通る以上、それは仕方のないことであった。


「『なんじ、右の頬を打たるるときは左の頬をも差し出すべし』じゃと?恥辱を受けたのに何もしないは武士の恥。これは受け入れることはできぬな」


 そう反発する家康に、天海が「それではいつまでたっても争いが続きまする」と言った。それに対して家康が応える。


「では代わりに公儀が恥を雪げば良い。そうすれば、わざわざ左の頬を差し出すことはあるまい」


 そんな会話をしながら、家康は『マタイによる福音書』を読んだ。そして、慶長十四年(1609年)の五月には読み終えた。読むのに時間がかかるのには理由がある。仕事の合間に読むため、また、翻訳チームに詳しい話を聞きながら読むため、どうしても時間がかかるのであった。


 家康が『マタイによる福音書』を読んでいる間、翻訳チームは次の翻訳に取り掛かった。次の『マルコによる福音書』は短く、また翻訳チームも翻訳に慣れてきたことから作業ペースを上げることに成功。家康も読み方に慣れたせいか、一人で読むことができるようになった。そのため、『マルコによる福音書』を早く読むことができた。


「『まつりごとは政の道に従い、まことは信ずる心に任すべし』か。昔、三河で一揆を起こした一向門徒共に聞かせてやりたい言葉よ。

 ・・・しかし、耶蘇は処刑された後に蘇った、というのは解せぬ。しかも、全ての者を弟子にせよ?前にもそんな事が書かれおったが、この耶蘇とやら、随分と傲慢ではないか?」


 家康はそんな感想を崇伝に述べ、崇伝は記録として残した。これが後に『異書所感記』と名付けられて後世に伝わることになる。





 慶長十七年(1612年)。この年は聖書翻訳にとって苦難の年であった。二月に本多正純の家臣でキリシタンの岡本大八が、肥前国日野江藩の藩主である有馬晴信に対し、多額の詐欺事件を起こすというスキャンダルが発覚した。いわゆる岡本大八事件である。

 岡本大八自身は罪を問われて火刑に処せられ、被害者であるはずの有馬晴信は賄賂によって旧領回復を図ったことと、長崎奉行暗殺を計画した罪で斬首となった。しかし、問題はこれによって幕府内で内紛が起きたことであった。


 当時、幕府内では、大久保忠隣・大久保長安を中心とする派閥と、本多正信・正純親子を中心とする派閥の権力争いが行われていた。

 岡本大八が正純の家臣であったことから、大久保派から本多親子の責任を問う声が上がった。また、岡本大八と有馬晴信がキリシタンであったことから、キリシタンを敵視する様になった。

 特に、大久保派による調査で、幕臣のキリシタンが予想以上多くいたことが分かり、秀忠はもちろん家康にも衝撃を与えた。

 そこで、秀忠は幕府領内でのキリスト教禁止を行うよう、家康に要請した。


「・・・やむを得ぬな。まずは足元を固めねば」


 ―――むしろそういった幕臣を集めて、伴天連の経典を大和言葉を直すことに務めさせれば、すぐに終わるのではないか?―――


 そう思った家康であったが、己のわがままと徳川の重大事を取り違えるほど耄碌はしていなかったし、聖書の影響は受けていなかった。家康は禁教令の草案の作成を崇伝に命じた。

 崇伝によって禁止令は書き上げられ、そのまま江戸へ送られた。そしてついに禁教令が公布、施行された。

 そして、岡本大八の上司であった本多正純は、一時謹慎処分を食らうことになった。


 さて、そうなると家康の聖書翻訳は暗礁に乗り上げることになる。キリスト教が禁止されているのに、その経典を翻訳すれば、大御所が禁令を破っている、とみなされるからだ。特に、この翻訳事業は江戸には全く伝わっておらず、もし秀忠にばれると、その影響はどうなるか予想がつかないからであった。

 また、事務や調整を行っていた正純がいなくなることも問題であった。これでは翻訳どころではなかった。

 そこで天海は家康に翻訳の中止を申し入れた。しかし、家康の回答は意外なものであった。


「岡本や有馬は耶蘇を隠れ蓑にした奸物かんぶつにすぎぬ。教えを知りながら己の利に従った。それは、信ではなく詐である。されば、書を棄つるには及ばぬ」


「孫子曰く、『敵を知り己を知らば、百戦して危うからず』よ。キリシタンを敵とするのに、どうして敵の考えを知ることができる書を棄てることがあろうか」


「せっかくここまで読んだのに、ここで読み棄てるは口惜しい」


 そう言って家康は翻訳を続けさせた。とはいえ、江戸にばれては元も子もない。そこで、より一層秘匿して行われることになった。

 しかしながら、事務担当の正純がいなくなったことは翻訳作業に多大なる影響が出た。そのため、翻訳作業がなかなか進まない、という事態になった。

 そこで、崇伝と羅山は、聖書の注釈書を作ることにした。これは、後世において和訳聖書を読む際にどの様に読むべきか、仏教、神道、儒教、故事の観点から例えを交えて書かれている。

 これもまた、『異書見聞集』として後世に伝わるのであった。





 岡本大八事件の混乱で慶長十七年(1612年)はあまり翻訳作業は進まなかった。その分を取り返すべく、慶長十八年(1613年)の翻訳は急ピッチで行われた。

 しかも、この年の四月に大久保長安事件が発生。それに伴い大久保忠隣が失脚し、幕府内の大久保派が力を失った。そこで本多正信・正純親子が復帰。正純が再び表舞台に出ることで、翻訳がよりスムーズに行くようになった。

 この頃は新約聖書の中でもいわゆる書簡集を翻訳していた。いわゆる『パウロ書簡』と『公同書簡』と呼ばれるものである。


「文に書いた形で神の教えを説くか。これは面白い。儒教や仏門にこの様なものはないであろうな」


 家康の言葉に、林羅山が反論する。


「いいえ、大御所様。朱子学には『与友人書』というものがございます。これは朱子学の祖である朱熹が文を弟子や友人に送った、という形を取っております」


「仏門では、日蓮上人や親鸞上人、道元禅師の文が多く残っており、これを使って教えを説くことがございますな」


 羅山に続いて崇伝が反論すると家康は、


「そうであったか。いや、すまぬ。儂もこの齢になって、知らぬことがあることを思い知らされた。我が身を恥じるばかりである」


 と言って詫びた。まさか詫びられるとは思っていなかった羅山と崇伝は、ひたすら恐縮するのであった。





 そして翌年、慶長十九年(1614年)一月。翻訳チームは最大の難所へと足を踏み入れる。それは新約聖書最後の書、この世の終末を描いた書である『ヨハネの黙示録』の翻訳であった。

 現代でも解釈が分かれる『ヨハネの黙示録』の翻訳は、難航を極めた。


「・・・封印を解くのは子羊?何故?」


「子羊の目は七つ?面妖な・・・」


「四人の騎馬武者、というのは分かる、白馬、黒馬、というのも分かる。赤馬、というのは栗毛のことか?蒼ざめた馬?青毛ではないのか?いや、それだと黒馬とかぶるな・・・」


「天の使いってなんだ?四天王みたいなものか?しかし七人もいるな・・・。そういえば、肥前の龍造寺にも四天王がいたが、実際は五人だった、というのを聞いたことがある・・・」


「・・・ラッパとは何か?え?戦の時に吹く物?法螺貝では駄目なのか?」


「星が落ちて水が苦くなる?箒星が現れたら確かに不吉だが、それで水が苦くなるのか?」


「蝗が人を襲う?稲ではなく?むしろ稲を喰われる方が災いだろう」


「天から女が来る?日輪をまといて月を踏んで、十二の星をかぶる?ちょっと何言ってるのか分かんない」


「『その獣の数は人の数である。その数は六百六十六である』。・・・おかしい。大和言葉に直したはずなのに、異国の言葉に聞こえる」


 当時の最高知識人を集めた翻訳チームでも、『ヨハネの黙示録』の解読は困難を極めた。そのため、『ヨハネの黙示録』の翻訳のペースは著しく落ちるのであった。


 結局、『ヨハネの黙示録』が翻訳し終えたのは慶長十九年(1614年)の十月であった。しかし、家康は『ヨハネの黙示録』を読むことはできなかった。


「何?片桐東市正(片桐且元のこと)が大坂城より退去しただと?」


 家康がそう言って本多正純に尋ねる。


「御意。どうも東市正殿を討たんとする者が大坂城内にいるようで」


 正純の報告を聞いた家康が激怒する。


「許せぬ。東市正は公儀と豊臣を繋ぐ大事な取次。それを排除するとは、公儀への反逆である!」


「大坂城内の我が手の者からの報せでは、武器弾薬兵糧が運ばれ、すでに戦の備えを行っているとか」


「・・・相分かった。江戸の将軍家に陣触れを出すように伝えよ。もはや豊臣との和はかなわぬ。こうなっては是非も無し。武によって決着をつけようぞ」


「承りました。ときに大御所様。例の件、最後の巻の大和言葉への直しが終わったとの報せを受けておりますが・・・」


 正純がおずおずとそう尋ねると、家康は顎髭を撫でながら考える。


「ふむ。例の終末の巻のことじゃな。話には聞いておる。あまりにも難解で大和言葉に直すのに時が掛かったと。

 ・・・その様な難解なものを戦場で読むことはかなわぬであろう。全てが終わった後に読むことにしよう」


 家康がそう応えると、正純は「御意」と言って家康の元から退いた。一人残された家康が呟く。


「さて・・・。終末を読む前に見に行くか。豊臣の、いや、乱世のな」





「・・・その後、大坂城が落ちた後、駿府城に帰った儂は、この終末の巻を読んだ、というわけじゃ」


 家康がそう言って話を終えた。長い話を聞いていた秀忠は、神妙な面持ちで黙っていた。自分の父が、政務の忙しい中でも異国の教え、しかも徳川にとって仇なす教えに正面から向き合っていたことに、感嘆と反発の二つの感情が同時に胸中に飛来したからであった。


「父上は・・・、父上は、耶蘇宗門の経文を読んで、キリシタンになられますか?」


 かろうじて口を開いた秀忠の言葉に、皆がぎょっとした顔になった。一方、家康はじっと秀忠を見つめると、口元を緩める。


「余、神を知れど、天下のためにに従わず」


 家康は、しっかりとした口調でそう言った。その言葉に、秀忠は息を呑む。


 ―――父は、いや、この方は、最後まで神に頼らず人として天下と向き合うおつもりか―――


 そう感じて黙っている秀忠の横で、天海が家康に話しかける。


「恐れながら、この経典、まだまだ続きがございます。今度は、人の世が創られし話にございます」


 天海の言葉に、家康は相好を崩す。


「・・・ほう?終末を迎えた人の世がまた創られるというのか?」


「いえ・・・、終末を迎えた人の世が、どのようにして創られたか、ということにございます。分かりやすくいえば、『古事記』の国産みの話のようなものでございまする」


 天海の説明に秀忠が思わず「なんだそれ」と呟いた。


「世の終わりの後に世の始まりを語るのか?まるで『平家物語』で壇ノ浦の話をした後に『祇園精舎の鐘の声』が始まるようなものではないか。耶蘇の経典を書いた者は、物語の構成を知らぬと見える」


 せせら笑う秀忠に対し、崇伝が「いえ、そうではなくて」と声を掛けた。


「どうも耶蘇宗門の経典には大きく分けて二つの経典がありまして・・・。そうですな?三浦殿?」


 羅山の言葉に、按針が「ハイ」と応えた。そして、聖書には新約聖書と旧約聖書があり、家康が読んだのが新約聖書で、まだ旧約聖書が残っている、と話した。

 しかし、秀忠は理解できてなさそうな顔をしていた。そこで天海が口を挟む。


「上様。例えるなら、釈迦が説いた教えが書かれた仏典と、釈迦が生まれる前に説かれた仏典がある、とお思いくだされ。

 もしくは、孔子が生まれる前に説かれた聖人の教えと、孔子が説いた『論語』があるとお思いくだされ」


「なるほど・・・。それなら何とか分かるような、分からぬような・・・」


 秀忠が首を傾げながらそう言った。そんな秀忠をよそに、家康が宣言するように言う。


「・・・天海よ、それはもう良い。儂はいづれ死にゆく老人じゃ。これ以上読む気にならぬ」


 家康の言葉にぎょっとする一同。皆が口々に家康に話しかける。


「父上。その様な物言いをなさいますな。まだまだ私は未熟者。公儀の政を見ていただきとうございます」


「大御所様。まだまだ話は続きます。人の世が創られし話はまだ長く、全てを大和言葉へ直しきれておりませぬが、必ずや直してみせまする」


「大御所様。これから先、いにしえの王達の話、出てきマス。大御所様の好きな政の話、出てきマス。どうか、どうか読み終えるまで生きてクダサイ」


 秀忠、崇伝、按針がそう言い、他の者達もそんな事を口にした。しかし、家康は首を横に振る。


「己の身体は己が一番良く知っておる。それに、近頃は自ら作った薬が効かなくなっておる。そろそろ儂もお終いよ」


「父上・・・」


 家康の言葉に対し、秀忠が思わずそう呟いた。そんな秀忠に、家康が声を掛ける。


「それにな、将軍。儂は乱世の終末を見届けた。それだけで十分じゃ。創世は、若い者に委ねようぞ。・・・皆、この若き者を支え、新しき世を創ってくれ」


 家康がそう言うと、秀忠を始めその場にいる者全てが「ははっ」と言って平伏した。家康が更に語りかける。


「・・・将軍。すまぬが、この老いぼれの命を聞いてくれぬか?」


「・・・承ります」


 そう言って姿勢を正す秀忠。家康が話し出す。


「此度、大和言葉に直した耶蘇宗門の経典、儂の死後には門外不必、口外無用といたせ。これなる書は儂が読みたいがために記したもの。日本の為ならず」


 そう言って一旦言葉を止める家康。皆が見つめる中、再び口を開く。


「しかしながら、異国の異なる教えを長年かけて大和言葉にした皆の骨折りを無に帰するは口惜しい。よって、破棄焚書の類を禁ずる。後の将軍が読むか読まぬかは、その時の将軍に委ねる。・・・以上だ」


 家康がそう言って口を閉ざした。秀忠達は揃って「しかと、承りました」と言って再び平伏した。


 平伏している皆の様子を見ながら、家康はふと思う。


 ―――これでよい。儂の長い旅はこれにて終いよ。重き荷を背負うた道は、長く厳しかった。が、その労苦も災いも、今では儂の誇りよ―――


 長き戦乱の世を歩み続け、戦乱の世に終末を与え、創世を若い者達に託した徳川家康。彼はこの二ヶ月後に亡くなる。享年七十五であった。





 家康の死後。聖書の翻訳事業は終了した。元々家康に読ませるためだけだった、ということと、将軍を支えるブレーンの人的リソースを翻訳事業につぎ込むことが許されなかったからである。

 南光坊天海、金地院崇伝、本多正純、林羅山、三浦按針、ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステインはそのまま秀忠の側近として仕えることになった。

 そして、氏名不明の日本人キリシタン二名は、その後の史料に出てくることはなかった。


 和訳された聖書―――通称『家康訳聖書』は『新約聖書』全27書と『旧約聖書』の『創世記』の一部が翻訳された。その全てが製本され、和綴じの本として残っている。

『創世記』は全ての訳がなされておらず、10章(ノアの箱舟とその後の話)までしか翻訳されなかった。が、残りの章を白紙とし、一冊の本として製本した。これは、本多正純の主張が通ったからである。


「禁教の経典とはいえ、未完で終わらせたとなれば大御所様の面目が立ちませぬ。残りの部分を白紙にして綴じ、本としての体裁を整えるべし」


 こうして『新約聖書』27冊と『旧約聖書』1冊、それに『異書所感記』と『異書見聞集』が一つにまとめられて保管されることになった。これらは家康が残した他の書物と共に秀忠のものとなった。

 その後、家康所蔵の書籍は紅葉山文庫に所蔵されることになったが、『家康訳聖書』だけは特別扱いとされ、日光の山奥にある、徳川家康を祭神とする神社の奥書庫に納められることになった。

 秘匿された『家康訳聖書』を、歴代の将軍が読んだのかは不明である。が、確実に読んだ人物はいる。十五代征夷大将軍、徳川慶喜である。もっとも、彼は将軍職を退いてから日光で読み、これを明治の世に公表しようとして大騒ぎを起こすのだが、これは別の話である。





 最後に、家康が述べたあの言葉『余、神を知れど、天下のために彼に従わず』 は、どうなったのか?

 当然、崇伝の筆によって書き記され、『異書所感記』の最後の頁に記されている。そしてその言葉は、現代に生きる者達に問いかける。


 ―――お前は、知ってなお、何を選ぶのか?


連載小説を書き始めた頃、とあるサイトで「長編小説は飽きが来るから、そうなったら逃げられるように別ジャンルの小説を用意したほうが良い」というのを知りました。

そこで、現在連載中の小説『大坂の幻〜豊臣秀重伝〜』が書けなくなった時に備えて、別小説のプロットを考えていました。

異世界転生とかハイファンタジーとか考えたのですが、上手く行かず、結局、歴史物の短編を考えました。それがこの『家康訳聖書』と、小説内に出てきた『紫式部訳三国志』です。

そして、とうとう連載小説の方で煮詰まってきたので、気分転換に書いたのが今回の『家康訳聖書』です。

読書家の家康が、世界で最も読まれている本の1つである聖書を読んでないのはおかしい!と思って軽い気持ちで書いたのですが、聖書を調べたり何なりして結構大変でした。しかし、書いててとても楽しかったです。


この『家康訳聖書』はスピンオフ作品を出しやすく、題名だけでも『余、神を知れど〜家康訳聖書、文明開化の世に開陳す〜』とか、『余、神を知れど〜敗戦後に発見された家康の封印が、GHQを混乱に陥れる〜』とか、『余、神を知れど〜万博公開騒動記』とかが思いつきました。書きませんけど。


とりあえず、本小説のお陰で連載小説のモチベーションも上がりました。また連載に戻ります。

今後もよろしくお願いいたします。

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― 新着の感想 ―
拝読しました。 面白いです。 「そうであったか。いや、すまぬ。儂もこの齢になって、知らぬことがあることを思い知らされた。我が身を恥じるばかりである。」 と素直に謝る家康さん。 優しい家康さんですね。…
滅茶苦茶面白い
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