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第9話 イレーナの指輪

I.C.──“Irena Curtis”。


アーヴィン・カーティスの母にして、かつての勇者パーティの一員。


なぜ、その名の刻まれた指輪が、あの温室の隅に落ちていたのか。


「これは、母のものなのか。どうしてここに……」


執事のドミニクは、深くため息をもらした。


「それは、私があなたにお渡ししたものです。……それも、お忘れになっているのですね」


「すまない」


俺は指輪を見つめた。金細工の美しいそれは、年月を経てもなお光を失っていない。


アーヴィンが落としたのか。だとすれば、犯人の手がかりにはならない。


「……そろそろ、お話しするべき時でしょう」


ドミニクは静かに視線を落とし、語り始めた。



「私がその指輪を託されたのは、ちょうど9年前──アーヴィン様が1歳を迎えられた頃のことです。辺境伯邸は、ささやかながら幸福に包まれておりました」


彼の声には、懐かしさと痛みが入り混じっていた。


「魔王は勇者様に討たれ、魔族の残党も散発的に攻めてはきたものの、大きな脅威とはならず……ようやく訪れた平和に、人々は胸をなで下ろしていた。そんな折です」


ドミニクは口をつぐむと、部屋の中は物音ひとつせず、永遠のような静けさが訪れた。


「ある日、辺境伯様、つまりあなたのお父上が魔族の討伐に兵を率いて出陣なされた後、屋敷に残っていた私たちは、辺境伯邸襲撃の報せを受けました…… しかし、それは敵の大いなる罠だったのです」


俺は緊張でゴクリと唾を飲み込んだ。


「魔族の襲撃に対して、奥様は勇敢にも残っていた手勢を率いて戦っていました。幸い、敵の数もそれほどではなく、無事撃退したと思われるその夜…… 悪夢は終わっていなかったのです」


ドミニクはひと呼吸おき、視線を宙にさまよわせた。


「突然、正体不明の侵入者が屋敷の中に現れました。まるで獣のように屋敷の廊下を蹂躙し、使用人たちが次々と犠牲になっていきます。至る所で悲鳴が聞こえては消えていく。ああ……あの襲撃は、その者を内部に忍ばせるための”囮”だったのでしょう」


彼は唇を強く結んだ。


「私は奥様の部屋に呼ばれました。イレーナ様は、幼いアーヴィン様とその指輪を私に託されたのです。


“何があっても、この子を守ってください。お願いします”──そうおっしゃって」


ドミニクの目に涙が浮かぶ。


「私はアーヴィン様を抱え、城からの脱出を試みました。


けれど、城の外には魔族の群れが取り囲んでおり、脱出は困難でした。私は城内のどこかに隠れようとして引き返した、そのときです…… 見たのです。血にまみれた“それ”を」


彼の目が強く開かれた。それは、まるで目の前に怪物が現れたような様子であった。


「それは女の形をしておりました。長い赤髪が血に濡れ、闇の中で真紅の双眸がぎらついておりました。そして、その手には、奥様の首が──無残に、捕まれていたのです」


俺は思わず息を呑んだ。


「私は物陰に身を潜め、息を殺しました。けれど、”それ”は私の気配を感じ取ったのか、ゆっくりと、足音がこちらに近づいてきます…… 私は覚悟しました。囮となって、アーヴィン様だけでも逃がすべきだと……  しかし、その時です。アーヴィン様が、突然お泣きになったのです」


ドミニクは拳を強く握りしめた。


「”それ”はすぐにその音に気がついて、我々の方に一直線に向かってきました。私はその時、スキルを使うことを決断しました。収納にしか使ってこなかった能力を…… 初めて己とアーヴィン様ごと、“空間”の中へ入り込んだのです。どのような結果になるか自分でもよく分からない。それでも、”それ”に見つかるわけにはいかなかった。アーヴィン様をお守りする。それだけしか頭にありませんでした」


彼の握りしめた拳は震えていた。


「そこは、何もない闇でした。音も、風も、時すらも感じない場所。もし一人だったら、狂っていたかもしれません。ですが、アーヴィン様がいた。だから私は、耐えられた。長い、長い夜が過ぎ……ようやく外に出た時、空は白み始めていました。魔族の群れはすでに追い払われ、辺境伯様も戻られていました」


俺はフーっとため息を漏らした。ドミニクの決断がなかったら、アーヴィンは生き延びることができなかった。


「私はすべてを報告しました。そして、イレーナ様から託されたこの指輪を……お返ししたのです」


彼は、俺の掌に収まった小さな指輪を見つめた。


「奥様が、命と共に遺された証。……それが、この指輪です」


そう語り終えたドミニクの声音には、どこか憔悴の色が滲んでいた。


俺は無言でそれを見つめた。



その衝撃的な報告を聞いたあと、俺はしばらく言葉を発することができなかった。


彼の強い思いと、そして、アーヴィンの母親の悲劇。それは、他人である俺にもかなり重く、心に響いた。


そして、それに続くアーヴィン自身の悲劇。俺はとてもやるせない思いで胸がいっぱいになった。


それとは別に、一つの言葉が俺の中で引っかかった。


”赤い瞳”──それは、すなわち、「七大罪スキル」の発動による現象。


戦争終結から間もない時期、そんなスキルを使える魔族は限られていたはずだ。


候補は二人。魔王大戦後も生き残った二人の幹部。七大罪「嫉妬」を持つ堕天使レヴィア。


そして「色欲」、ヴァンパイア真祖カサンドラ・ドラクレア。


……継母の名前と、奇妙な符合。


辺境伯の正妻の座に今いるのは、他でもない“カサンドラ”。


まさかとは思っていたが──すべてが繋がった。


アーヴィンの母を殺した“それ”は、エルザ・カーティス。


いや、魔王軍幹部・カサンドラその人。


まんまと辺境伯領の中枢に入り込み、そして今、何食わぬ顔でこの屋敷を操り、弟のステファノを利用して辺境伯ごと乗っ取ろうとしている魔族の幹部。


「そういうことだったのか……」


俺は低く呟いた。


その時、ひとつの小さな疑問が不意に湧いた。


だが、これほど大切な指輪が──なぜ、温室に?


考えがまとまらないまま、黙っていた時、突然ノックの音が部屋に響いた。


「入ってもいいかしら」


女の声。妙に甘ったるく、耳障りな響き。


「誰だ」


「アーヴィン様、お久しぶり」


入ってきたのは──継母エルザの侍女、エリザベータだった。



俺は慌てて指輪をポケットに滑り込ませ、無表情を装って言った。


「……何の用だ」


「まあ、冷たいのね。私が来たらダメなのかしら?」


「どうせロクな用件じゃないんだろう」


「失礼ね。せっかく“いい知らせ”を持ってきたのに」


「用があるならさっさと言え」


エリザベータは軽く肩をすくめて、部屋を見回した。


「ふうん、なかなか良い部屋ね。……それに、最近剣術なんか始めたんですって?」


「お前に話す義理はない」


「昔は温室にこもってあんなに花の世話ばっかりしてた軟弱な男だったのにねえ……」


エリザベータは何か曰くありげな表情で俺の顔をじっくり見ている。


「いつもビクビクして、虚勢を張るのが精一杯だった子供が、今は妙に堂々としてる」


「……何が言いたい」


「ほんと、まるで人が変わったみたい。一体どうしちゃったのかしら?」


俺は内心ギクリとした。が、表情には出さない。ここで下手な動揺を見せれば、何を言い出すか分からない。


「この間背中を刺されたからな。多少は開き直ったってわけさ。護身のために剣を学んでるだけだ」


「へえ? ずいぶんと“精が出る”じゃない」


「さっさと失せろ。あんまりしつこいと、お仕置きしてやるぞ」


俺はわざと鞭の位置に手を伸ばして見せた。しかし、エリザベータは驚くような素振りは見せなかった。


それどころが、唇を歪ませて作り笑いを浮かべている。


「もう剣の修行なんて必要ないわよ」


「……どういう意味だ?」


俺はエリザベータの企みを読み取ることができないので、少し焦りを感じ始めていた。


「だって、“真犯人”が見つかったもの。もう危ない目に遭うことはないわ」


「何だって?」


「それにね、どっちにしたって、もう剣の修行は続けられないわ、相手がいなくてはね」


その言葉と同時に、部屋の扉が再び開いた。


中に入ってきたのは、後ろ手に縄で縛られたアレン。そして、彼を取り囲む数人の使用人たちだった。


「……っ!」


言葉を失う。


まさか──アレンが、“真犯人”として捕らえられたというのか……?

お読みいただいてありがとうございます。


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