第8話 カサンドラとエリザベータ
王都より遥か北。
そこは、かつて対魔族戦争の最前線として築かれた巨大な城塞が、今もなお大地を睨むようにそびえ立つ地。
幾度となく魔族との攻防が繰り広げられたその要塞には、戦火の爪痕が今なお色濃く刻まれている。
魔王が討たれ衰退した今、魔族は北の杜のさらに奥——人の手の届かぬ地でひっそりと息を潜めて生息している。
だが、人族と魔族が繰り返してきた流血の歴史を思えば、かの魔王のような“カリスマ”が現れた時、戦火は再び巻き起こるかもしれない。
その懸念ゆえに、辺境伯は今もなお魔族に睨みを利かせる“盾”として王に信頼され、多くの権限を与えられていた。
──その本邸の一室。
重厚な装飾が施された鏡台の前に、ひとりの女が座している。
赤髪を波打たせる長身の美女。肌は雪のように白く、唇は血のように紅い。
彼女の名は、エルザ・カーティス、辺境伯の妻。その正体は魔族幹部カサンドラ・ドラクレア。
その背後で、侍女が静かにその豊かな髪を梳いていた。
「エルザ様、どうか、あの生意気な小僧を、私に始末させてください」
声を発したのは、鏡越しに映るもうひとりの女、エリザベータ。
燃えるような瞳で訴える彼女は、怒りと興奮を押し殺せない様子だった。
「戻ったばかりだというのに、また王都に行きたいの?」
エルザは鏡を見つめたまま、淡々と問い返す。
「アーヴィンは私どころか、あなたにまで無礼な妄言を吐いたのです。許すことなど……できません」
「前も言ったでしょう。今は大切な時期よ。まもなく正式な発表があるわ。アーヴィンは後継者の座を追われ、ステファノがその地位に就く。何も手を汚す必要はない」
エルザの声は冷静で、感情を含ませていなかった。だが、それゆえに説得力を帯びていた。
エリザベータは悔しげに唇を噛んだ。
「あの女が仕損じたから……こんな事態に……っ。ああ、あの女を吊るして晒してやりたい!」
「何を言っているの。あの女は役目を果たしたわ。アーヴィンは死にはしなかったけど、かわりに記憶を失った。つまり“死人”と同じ。記憶喪失を理由に後継者候補からも外せる。これ以上に都合の良い話がある?」
「ですが……いつ思い出すとも限りません」
「思い出したところで、誰が信じるのかしら?」
エルザはようやく鏡から目を離し、振り向いてエリザベータを見た。
「彼はもはや後継者ではない。ただの過去の人間。記憶が戻ったところで、誰も耳を貸さない。妄言だと一笑に付されるだけよ」
「けれど……」
「聞きなさい、エリザベータ。私たちは危ない橋を渡る必要はないの。今は“動かないこと”こそが最も賢明なのよ。貴族の子息に二度も襲撃があれば、王族に疑念を抱かれる。そのとき最も怪しまれるのは、誰かしら?」
エリザベータは黙り込んだ。
「アーヴィンを狙ったのは、“彼が我々の秘密を知ってしまったから”。けれど今や、彼は何も覚えていないし、後継者の地位も失う運命にある。これ以上、関与してはならなりません。彼を刺した者を晒すことも、禁じます。仮に何か繋がりが露呈したら——全ての計画が台無しになるわ」
「……承知しました」
唇を噛み締めたエリザベータに、エルザは微笑を向けた。その笑みは、まるで子どもをあやすような、優しげなものだった。
「いい子ね。さあ、くだらない小僧のことなど忘れなさい。家畜に吠えられたからといって、いちいち屠っていては畜舎が空になる。私たちに必要なのは、愚かな家畜どもを“うまく飼いならす”ことよ」
そう言いながら、エルザはゆるりと立ち上がる。
彼女の背から香り立つような威圧感に、エリザベータは頬を染めて見上げた。
「ああ、エルザ様……どうか、私の血を……」
「ふふ、欲しがりね」
エルザがゆっくりと口を開くと、その奥から、鋭利な牙がのぞいた。
一歩近づくと、彼女は迷いなくエリザベータの首筋に口づけ、そして噛みついた。
エリザベータは声もなく、身体を震わせた。
その顔には、苦痛ではなく、深い恍惚が浮かんでいた。
◇
『空間転移』
俺が叫ぶと、手の中に瞬時に剣が現れた。
——よし、まあまあだな。
これなら、戦いの最中に武器を手放してもすぐ回収できるし、逆に投げつけてから呼び戻す——なんて使い方もできそうだ。
あれから、スキルを使用できる回数も増えてきた。
どうやら普段の鍛錬によって、魔力の制御も自然と鍛えられていたようだ。それもそのはず、常に体を動かすたびに魔力によって筋力や反応速度を強化していたのだから。
剣術の修行はあくまで戦闘技術を磨く目的だったが、副次的に魔力の扱いにも慣れてきた。
今のところ、自分の体を”転移”させるには至っていないが、目の前の机や椅子、ソファ程度なら自由に”転移”できるようになった。
見えているものはイメージしやすい。だが、自分自身の姿は見えないので、客観的に捉えて転移させるというのは、なかなかイメージしにくいのだ。
その代わり、物体を「自分の手元に呼ぶ」だけでなく、「任意の場所に移動させる」ことにも成功している。
たとえば、ゲームの中でアーヴィンが主人公にやっていたように——
頭上から物を落としたり、敵の足元の支えを消して落下させたり、そんな芸当も可能になる。
……なかなかいい感じだ。このスキルの応用の幅はかなり広い。
今は、動いているものも転移させられるかどうか試している。
別邸で飼っている猫を使って実験してみた。寝ているときはうまくいったが、動き回っているとダメだった。
やはり、動的な対象にスキルを発動するのは難易度が高い。戦闘中の敵相手に使うには、ちょっと難しい気がする。
それに格上の相手だと、魔力防御が高いから、こちらのスキルを弾かれる可能性がある。
——今の所、転移のスキルの対象は、自分自身か、動きのない”モノ”に限るな。
◇
固有スキルについて、あれこれ考えながら、何気なく上着のポケットに手を突っ込んだ。指先が何か硬いものに触れる。
——ん? なんだこれ。
つまみ出すと、指輪だった。
……ああ、そういえば。あの温室で拾ったものだ。すっかり忘れていた。
しかし、これはいったい誰のものだ?
指輪は大粒の宝石がついた重厚なデザインで、リングの細工も繊細だ。明らかに高価なものに見える。
……まさか、刺した犯人の落とし物か?
今の所、犯人探しに本腰を入れていない。というのも、カサンドラは七大罪スキルの一つ『色欲』を使って、人を操った可能性が高い。実行犯が誰であれ、操られただけなのだ。下手に捕まえても、カサンドラまで追求するのはかなり困難だし、トカゲの尻尾ぎりで終わる可能性がある。
操られた人間には罪がない。あくまでカサンドラを倒すべきなのだ。
——それにしても
実行犯が屋敷の使用人だったのだろうか。だが、こんな高価な指輪を持てる者など、この屋敷には——
ふと、リングの内側に彫られた文字が目に入った。
”I・C”
……誰だ?
念のため、ドミニクに聞いてみるか。
犯人が使用人だった場合、下手に処刑などされたら、たまったものじゃない。その時は知らなかったフリでもしてあげよう。あくまで悪いのはカサンドラなのだ。
俺はベルを鳴らし、執事のドミニクを呼んだ。
「お呼びですか、アーヴィン様」
「ああ。ちょっと、ここだけの話なんだけど……この指輪、見覚えないか?」
ドミニクに指輪を手渡すと、彼はしばらく目を凝らし、やがて表情を固くした。
「……アーヴィン様。これをどちらで?」
「うん、まあ、ちょっとした場所で見つけてね。それより、誰のものか分かるのか?」
「……はい。もちろんです。これは——あなた様のお母上、イレーナ様の指輪でございます」
「……えっ?」
その言葉に、俺は声を失った。
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