第66話 誘拐
クラネルト邸の中庭に、怒号と悲鳴が入り混じる。
俺が現場に駆けつけたときには、すでに群衆と聖騎士、使用人たちが入り乱れ、もみ合っていた。
燃えさしの松明が転がり、踏みしめられた芝生が焦げて、白い煙を立てている。
ジェスタとイリアスの姿が見えた。
二人とも、殺さずに抑える方針を貫いているようだ。
群衆を押し倒し、抑えつけ、縄で縛っては次へと向かう——その繰り返し。
だが、相手は何十人もいる。
波のように押し寄せるその勢いに、終わりは見えなかった。
イリアスは額に汗を浮かべながら、懸命に押し返していた。
「ジェスタ、大丈夫か!」
俺が叫ぶと、ジェスタが振り返った。
額に切り傷があり、血が一筋流れている。
「ああ、こっちはなんとかなってる。ディルクを先に——」
言いかけたそのとき、群衆のひとりが突如ナイフを抜いて飛びかかってきた。
ジェスタは即座にそれを払いのけ、背後から腕を極めて押さえつける。
男が地面に落ちる音が、やけに大きく響いた。
だが、その男は叫び声ひとつ上げなかった。
虚ろな目で、空を見つめたまま、何かをぶつぶつと呟いている。
「……おい、こいつらマジでおかしいぞ。誰かに操られてるようだ」
ジェスタが低く唸った。
俺は周囲を見渡す。
だが、どこにもカサンドラらしき姿は見当たらない。
(優先順位としては、ディルクか……)
この暴動がカサンドラの差し金だとすれば、狙いは王都側の要人——
第3王女ミスティアを推す中心人物、ディルク・クラネルト伯。
俺は急いで邸内へ駆け戻る。
すでに群衆の一部が屋敷内に入り込んでいた。
廊下や広間では、聖騎士たちと揉み合いが続いている。
家具は破壊され、壁には血がこびりつき、床には壊れた調度品が散乱していた。
「ディルク様は!?」
近くで応戦していた聖騎士に声をかける。
「奥の自室に……! 数名が護衛についています!」
「分かった!」
咄嗟に階段を駆け上がり、廊下を一直線に走る。
──だが、すぐに異変に気づいた。
廊下の奥。
赤黒い血の海が、絨毯を濡らしていた。
その先に、無残に倒れ伏した聖騎士たちの姿がある。
斬られ、貫かれ、首を落とされた者までいた。
部屋の扉は、ゆっくりと開かれている。
(……遅かったか!?)
俺は迷いなく、血に染まった床を踏み越えて部屋に飛び込んだ。
部屋の中央に、ディルクが倒れていた。
右腕は、二の腕のあたりから切断されている。
床には大量の血が広がり、カーペットは深紅に染まっていた。
「ディルク様!」
俺はすぐに手近なカーテンを引き裂き、上腕をきつく縛る。
止血処置——間に合うか。
幸い、意識はまだある。かすかに目を開いていた。
「大丈夫ですか!? しっかりしてください!」
「……ああ……赤い目の女に……やられた……」
赤い目——
カサンドラ。あるいは、七大罪のスキルを持つ者か。
「気をしっかり! まだ助かります。止血はできてる」
「それより……ユリアは……無事か……」
その言葉に、胸が締めつけられる。
(ユリア……)
廊下を振り返る。
彼女の部屋の扉が開け放たれていた。
静かすぎた。
中からは、物音ひとつ聞こえない。
そのとき、ジェスタが駆け込んできた。
「ソウスケ! ここにいたのか! ディルク伯は——」
「まだ生きてる。応急処置はしてある。頼む、あとは任せた。
ユリアの部屋が……空いてる。俺が行く」
「おい、待て——!」
ジェスタの制止を背に、俺は駆け出した。
◇
ユリアの部屋は、明かりがついたままだった。
机の上の書類、整然と並んだ文具。
背もたれに掛けられたショールも、開け放たれた窓も——すべてが“そのまま”だ。
違和感があった。
静かすぎる。
ついさっきまで、ここに誰かがいたはずなのに——それを示す“気配”が、綺麗に消えていた。
痕跡が、ない。
音も、空気の揺らぎも、人の息づかいも。
まるで、誰かが意図的に“気配ごと”拭い去ったかのような、異様な静寂だった。
部屋の奥には、寝室へと続く白い扉がある。
その扉だけが、ぴたりと閉じられていた。
俺はそっと歩み寄り、足音を殺して扉の前に立つ。
そして、耳をそっと押し当てた。
……何も聞こえない。
呼吸も、寝息も、物音も——一切ない。
俺はドアノブに手をかけ、ゆっくりと回す。
鍵は、かかっていなかった。
音を立てぬよう、慎重に扉を押し開ける。
——そして、呆然とした。
寝室の壁が、内側から破壊されていた。
瓦礫が床を覆い、夜風が吹き込む。
開いた壁の隙間は、人ひとりが抜けられるほど。
……そこから、誰かがユリアを連れ去った。
(……遅かった)
その瞬間、焦げた匂いが鼻を突いた。
続いて、扉の外から怒声が響いた。
「火だ! 松明の火が館に燃え移った! 早く逃げろ!」
俺は弾かれるように振り返る。
——炎。
まだやるべきことが残っている。
俺はユリアの姿が消えた寝室を一度だけ見返し、そして踵を返した。
(……必ず、連れ戻す)
火の粉が舞い、夜の空気が赤く染まり始めていた。
◇
ミスティア王女の庇護により、ディルク・クラネルトをはじめとする聖騎士たちは、一時的に王宮へと保護されていた。
ディルクはしばらく昏睡状態が続いたものの、奇跡的に一命を取り留め、数日後、ようやく意識を取り戻す。
「ユリアは……ユリアは無事か……?」
目を開けるなり、彼が絞り出したのは、その名だった。
「ただいま捜索中ですが……いまだ手がかりはありません」
重苦しい沈黙が病室を包む。
ミスティア王女がベッドの傍らに膝をつき、静かに微笑んだ。
「大丈夫です、ディルク伯。
必ずユリアさんを見つけ出します。私が……必ず」
その言葉に、ディルクはかすかに目を閉じ、力なく頷いた。
俺は、その光景を黙って見届けながら、心の奥で決意を深めていた。
(……あの暴動は、やはりカサンドラの仕業だ。あの“空虚な目”をした群衆——まるで感情を抜き取られた操り人形だった)
確証こそないが、直感が告げている。
あれは、人の意志じゃない。
カサンドラの——“色欲”のスキル。あれに違いない。
(もう一度……辺境伯邸に潜入するしかない)
今度こそ、ヤツと決着をつける時だ。
* * *
王都の一角、隠れ家のような宿屋の一室。
俺は荷をまとめ、出発の支度を整えていた。
そのとき——
「ソウスケ様、手紙が届いております」
宿の親父が封書を差し出す。
濃紺の封蝋には、見覚えのある紋章が刻まれていた。
(……“カーティス家”の紋章、だと?)
挑発か、それとも罠か。
だが、わざわざ俺を名指しで送ってきたというなら——
俺は静かに封を切った。
『お久しぶりね、“アーヴィン”。
ようやく見つけたわ。もう逃げ隠れはできない。
あなたが探しているもの——こちらが握っている。
場所は“災禍の神域”、ダンジョンの最下層。
そこで、あなたを待っているわ。
言っておくけど、来るのは“あなただけ”。
そうでなければ、あなたの探し物が永遠に見つからなくなるかもしれない——
それから、彼女。とても可愛い悲鳴を上げるのね。
早く来ないと、その声すら聞けなくなるわよ。
エルザ・カーティス』
——にじむ悪意。
文字の一つひとつが、あの女の狂気と支配欲を映していた。
俺は無言で手紙を折りたたみ、ポケットにしまう。
(……やはり、お前か。カサンドラ)
深く息を吸い、静かに吐き出す。
胸の奥に宿るのは、怒りでも焦りでもない——確かな決意だ。
(ユリアは、必ず取り戻す。今度こそ——終わらせる)
“災禍の神域”。
かつて魔族が支配したという、禁忌の地。
待っていろ、カサンドラ。
今度こそ決着をつけてやる。
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